色のある朝
コンサートから一年後。
CPDSは、世界中から姿を消していた。正確には、「症状」が消えた。人々の顔から色が失われることはなくなった。空は青く、木々は緑に、花はそれぞれの色に咲く。子供たちの笑顔には頬のピンクが、老人の目尻の皺には深い茶色の影が、当然のように存在する。
しかし、世界が単純に「良くなった」わけではなかった。
もんろの大いなる帰還は、色と記憶を返しただけでなく、それらが内包する全ての情感も同時に返還した。戦場の兵士の絶望、飢えた子どもの恐怖、疫病に倒れる者の苦痛、別れた恋人たちの切なさ、無念の死にゆく者の悔恨——千年分の人類の悲しみと痛みの断片が、それぞれの持ち主、あるいはその血縁者、土地の記憶へと、少しずつ浸透していった。
人々は、突然、理由もなく涙することがある。夕焼けを見て、遠い戦国の合戦の哀しみを感じる。赤ん坊の泣き声に、飢饉で失った我が子のことを思い出す。それは、個人の記憶ではない。集合的無意識に刻まれた、人類の負の遺産とも呼ぶべきものが、表面化したのだ。
世界は、色を取り戻した代償に、重さも取り戻した。あまりに長く、能面という緩衝材に守られ、情感の筋肉を衰えさせていた人類は、急に押し寄せてきたこの「感情のリアル」に、戸惑い、時に押しつぶされそうになった。
「色彩リハビリテーション」「記憶カウンセリング」という新しい職業が生まれた。人々は、色に慣れ、同時に、返還された記憶の重みとどう向き合うかを学ぶ必要があった。
東京・スカイツリーのふもとにある、小さな診療所。
看板には『色彩記憶クリニック』とある。院長は、元監視官の尚羅夢だ。政府の職を辞し、全ての過去の罪状も、もんろの事件の影響と、碇大佐(彼もまた辞任し、表舞台から消えた)の証言で不問となった。彼は、この小さな場所で、色に眩しさを感じる人、突然の記憶の洪水に苦しむ人の相談に乗っている。
待合室の窓辺には、一鉢のイチゴが植えられている。つやつやとした緑の葉。白い小さな花。時折、真っ赤な実がひとつ、ふたつなる。
ある日、診療所に、十代の少女が母親に連れられて訪れた。少女は、うつむき加減で、声がか細い。
「先生…私…」
彼女は、そっと自分の目を覆う。
「…色が、多すぎて…眩しいんです。道を歩いていても、看板の赤、空の青、人の服の色…全部が、ギラギラしていて…目が痛いみたいで」
母親が心配そうに説明する。
「コンサートの後からずっと、こうなんです。外に出るのが怖いと言って…」
私は、少女の前にひざまずき、彼女の目を見つめる。その瞳は、確かに畏れと疲れに満ちている。長年、灰色の世界に適応していた網膜と脳が、急な色彩の洪水に対応しきれていない。
「大丈夫だよ」 私は、静かに言う。「少しずつ、慣れていけばいい。焦らなくていい」
私は、窓辺のイチゴの鉢を指さす。
「あのイチゴを見てごらん。何色に見える?」
少女は、恐る恐る顔を上げ、イチゴを見つめる。
「…赤…です」
「そうだね、赤だ。でも、この赤は、君を傷つけるためにある色じゃない。ただ、『赤』としてそこにあるだけだ」
私は、そっと鉢から、一番赤く熟した一粒を摘み取り、少女に差し出す。
「彼女がくれた、贈り物なんだ。色って。全部、彼女が…みんなに返してくれたものなんだよ」
少女は、イチゴをじっと見つめる。そして、かすかにうなずいた。
その夜、診療所の奥の私の部屋で、私は古いレコーダーを取り出した。中には、あの日、コンサートの最後にもんろが歌った『私の、たった一つの歌』の、非公式な録音が残っている。技術者がこっそり残したバックアップの一つを、結衣が回収し、私に託してくれたものだ。
音質は良くない。雑音が混じる。が、彼女の声は、かすかながら、確かに流れてくる。無伴奏の、不確かな、しかし芯の通った歌声。
曲が終わり、数秒の無音が流れる。いつもここで止める。が、今日は、なぜか、その先まで聞いてみた。
雑音の向こうに、かすかな、ほとんど息づかいのような声が、ほんの一瞬、聞こえた気がした。
『……苺…美味しかった…』
一瞬、私は、聴覚の錯覚かと思った。何度も巻き戻し、音量を最大にする。雑音がうなる。が、確かに、そのかすかな、嬉しそうな囁きが、録音の最後の0.5秒に紛れ込んでいた。コンサート本番の録音にはあり得ない言葉だ。もしかすると、リハーサル時か、あるいは、もっと別の…
胸が、熱くなった。
一方、純心会は、大きく様変わりしていた。
結衣が新会長となり、組織を「顔貌記憶保護協会」と改名した。目的は、能面に代わる、新しい記憶の継承方法を模索すること。107枚の割れた能面は、東京の新しい施設『記憶の社』に、丁寧に祀られた。もう、情感を封じるためのものではない。過去を偲び、未来を思う、祈りの対象だ。
施設の落成式で、結衣は叔父・宗一郎と並んで立った。彼は、顧問として協会に戻ってきていた。二人の間に、深いわだかまりはまだある。が、断絶はない。
宗一郎が、静かに呟く。
「…あの子は、とうとう、全部、返してしまったな。私たちが千年かけて守ってきたものを、たった一人で」
結衣は、うなずく。
「ええ。そして、私たちに、新しい課題を残してくれました。能面に頼らない、記憶との向き合い方を」
彼女は、施設のガラス越しに、色とりどりの花が咲く庭を見つめる。
「叔父さん、あの夜、もんろ様が言っていました。『借りたものは、返さなければならない』って」
宗一郎は、目を閉じる。
「…あの時、私が能面を壊したのは、借りたものを理解せず、乱暴に解き放とうとしたからだ。彼女は、違った。一つ一つ、丁寧に、思いを込めて返した」
彼の目に、かすかな涙が光る。
「彼女は…私たち全部を、赦してくれた。過去の過ちも、無知も、この歪んだシステムそのものも」
結衣は、叔父の横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「…これからは、私たちが、彼女から借りたものを、返していきましょう。この色あふれる世界を、しっかりと受け継いでいくことで」
コンサートからちょうど一年目の朝、私の診療所に、小さな匿名の小包が届いた。
差出人不明。中には、古びたカセットテープレコーダーと、一卷のテープが入っていた。テープのラベルには、手書きでこうあった。
『赫映もんろ - 最後のリハーサル』
私は、息をのんだ。手が震える。テープをレコーダーにセットし、再生ボタンを押す。
最初は、雑音だけ。そして、かすかな衣擦れの音。深呼吸をする音。
そして、歌声が始まった。
あの、『私の、たった一つの歌』の、完全なバージョンだ。コンサートで歌われたものよりも長く、複雑で、しかしより無防備で、生き生きとしている。時折、音程が大きく外れて、彼女が小さく笑う声が混じる。これは、本番前、おそらく告白の夜、私と過ごした後の、彼女だけのためのリハーサルだったのだろう。
歌は、ゆったりと、優しく流れる。彼女の声が、部屋中に、私の胸に、染み込んでいく。
その歌声の中で、私は、窓辺のイチゴの鉢に目をやった。
すると──。
つぼみの一つが、ゆっくりと開き、真っ白な花が咲いた。そして、その花が、目に見える速さでしおれ、代わりに、小さな緑の実が膨らみ始める。実は、みるみる大きくなり、白から薄紅色へ、そして、鮮やかな真紅へと色づいていく。
テープの歌声が、最高潮に達し、そして、静かに終わる。
長い無音。
10秒。20秒。
そして、テープの最後、雑音の向こうから、かすかな、しかし確かな、彼女の囁きが聞こえてきた。
『……尚さん…もし聞いていたら…』
声は、夢のようにかすかだ。
『…私は…少しだけ…残れました…どこかに…』
一呼吸。その声には、深い安らぎと、かすかな喜びが込められているようだった。
『…誰かの記憶じゃなくて…『私』として…』
ぱちり。テープが終わり、自動停止する音。
部屋には、深い静寂が流れた。窓の外からは、色あふれる東京の朝のざわめきが聞こえる。子供たちの笑い声。車のクラクション。鳥のさえずり。
私は、ゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づく。イチゴの鉢に、一つ、真っ赤に完熟した、宝石のような実がなっている。先ほど、歌声の中で実ったばかりのものだ。
私は、それをそっと摘み取った。手のひらに乗せる。つやつやと、温もりを帯びている。
窓の外を見る。東京の朝。空は、底抜けに青い。スカイツリーが、その青を背景に銀色に輝いている。遠くの公園では、子供たちがカラフルなシャボン玉を飛ばして遊んでいる。その笑い声に、色がついているようだ。
私は、手のひらのイチゴを、そっと口に運んだ。
歯を立てる。果汁がはじける。
甘さが、そして、ほんのりとした酸味が、舌の上に広がる。
「…ああ…」
涙が、ひとりでにこぼれた。熱い。しかし、悲しみだけではない。
「…これが…赤の、味か…」
風が窓から入り込み、カーテンを揺らす。テープレコーダーは、まだ電源が入ったままだ。スピーカーからは、かすかなホワイトノイズが、ささやくように流れ続けている。
まるで、誰かが、とても近くで、優しく息をしているかのように。




