裏切りの代償
コンサート当日、夜明け前の最も暗い時間帯、施設内に不穏な動きがあった。
私は、もんろのブースの外で仮眠を取ろうとしていた。ポケットの中の剥離器チップが、冷たく固く、私の決意の証のように感じられた。突然、ブースの陰から、かすかな物音。息を殺す。
人影が現れた。結衣だ。彼女は、純心会の暗号で身分を証し、急いで近づく。顔は血の気が引いており、呼吸が荒い。戦闘服の一部が裂け、小さな傷から血がにじんでいる。
「尚さん…! 時間がない、聞いてください!」
彼女の声は、必死のささやきだった。
「純心会の内部に…裏切り者がいます。政府のスパイが…」
その言葉に、私は背筋が寒くなった。
「誰が?」
「…叔父です。私の父の弟で、会の長老の一人。彼は、もんろ様を国家資産として引き渡すことが、純心会の『伝統を守る最善の道』だと信じ込まされています。政府から、能面の正式な管理権と、巨額の資金を約束されていた」
結衣の目に、深い悲しみと怒りが渦巻いている。
「彼らの計画はこうです。ライブ当日、私たちが全国の神社で『逆流陣法』を起動し、もんろ様から記憶の帰還を始めるその瞬間…政府は、特殊部隊を投入し、もんろ様を強制的に能面化します。生きたまま、意識がある状態で…」
彼女の声が震える。
「彼らは、ただの『器』や、植物状態のデータベースでは満足しない。生きている能面を欲しているんです。永遠に苦しみ、それでも歌い続ける、生ける伝説を…」
その残酷な計画に、私は言葉を失った。博物館の収蔵庫ですら、まだ「静かな終わり」だった。だが、生きたまま能面に閉じ込められ、意識を持ったまま永遠に歌わされ続ける…それは、もんろにとって、想像を絶する地獄だ。
結衣は、懐から小さな、古びたお守り袋を取り出し、私に押し付ける。袋は、温もりを帯びている。中には、小さな水晶の欠片のようなものが入っている。
「これは…107枚の能面の、ほんのわずかな断片から作ったものです。それぞれの能面に残された、先代巫女たちの…最後の『意志』が、かすかに封じられています」
彼女の目が、真剣に私を見つめる。
「いざという時…もんろ様に渡してください。きっと…彼女の力になるはずです」
私は、そのお守りをしっかりと握りしめた。重い。千年分の祈りと覚悟の重みが、その小さな袋に込められていた。
その時、ブースの外の廊下から、複数の足音が響いてきた。慌ただしい。結衣の顔がこわばる。
「…来た!」
彼女は、私の腕を掴み、「隠れて!」と言おうとしたが、もう遅かった。
ブースの入り口が勢いよく開かれ、数人の男たちが入り込んできた。先頭に立つのは、六十歳ほどの、厳つい顔の男だ。和服に袴という、純心会の長老らしい装い。その目は、冷徹で、計算ずくの光を宿している。結衣の叔父、冬月厳斎だ。
彼の背後には、四人の純心会の者たち(裏切り者たち)と、黒い戦闘服の政府特殊部隊員が数名立っている。
「結衣、これで終わりだ」
厳斎の声は、低く、威圧的だ。
「お前の勝手な行動は、純心会千年の伝統を危うくする。感情に流され、少女一人のわがままに、この国の未来を賭けようというのか?」
結衣は、叔父に向かって一歩踏み出し、歯を食いしばって言った。
「わがまま? もんろ様は、ただの『少女』ではありません! 彼女は、107人の先輩たちの思いを継ぎ、それでも『自分』であろうとしている、最後の巫女です!」
「『自分』?」 厳斎は、冷笑した。「彼女に『自分』などあるのか? 彼女は、データの集合体だ。政府の管理下に置かれ、国宝として大切に保存され、この国のためにその力を最大限に発揮する。それが、彼女という存在の、最もふさわしい『終わり方』だ」
彼の目が、ブースの中のもんろ(まだ薬で眠っている)を見る。その視線には、憐れみも哀れみもない。ただ、価値ある資産を見るような、冷静な評価の目があるだけだ。
「私たち純心会の使命は、巫女の系譜と、その力を守ることだ。そのためには、時には…現実と妥協しなければならない。政府と手を組み、正式な地位と保護を得る。それが、千年の伝統を、次の千年へとつなぐための、唯一の現実的な道だ」
「伝統を守るためなら、人を道具にしてもいいと?」 結衣の声が、怒りで震える。「叔父上、あなたは、初代・桜様や、戦国の楓様、雪様の思いを、本当に理解しているのですか?! 彼女たちが、能面になることを『選んだ』のは、自分を捨てるためじゃない! 大切な人たちの記憶を、未来へつなぐためです!」
「ならば、なおさらだ」 厳斎の声は冷たい。「もんろを、国家の管理下に置くことで、彼女が背負う全ての記憶は、永久に、確実に保存される。散逸することはない。これこそが、先代巫女たちの思いを、最も確実に『未来へつなぐ』方法ではないか?」
その理屈は、歪んでいるが、一見もっともらしい。守るためには、管理する。自由よりも確実性を。結衣は、言葉に詰まった。彼女の信念と、叔父の「現実的な選択」の間で、揺れている。
厳斎は、部下たちにうなずいた。男たちが結衣に近づく。
「結衣、お前は一時的に謹慎だ。全てが終わるまで、静かにしていてもらう」
「離しなさい!」 結衣が抵抗する。が、四人の男に簡単に押さえつけられてしまう。彼女は、もんろのブースの方に、必死に顔を向ける。
「もんろ様! 約束を忘れないでください! あなたは…あなたはただの『器』じゃない! あなた自身の選択で、あなた自身の道を!」
その叫び声に、ブースの中でもんろの瞼が、かすかに動いた。薬の影響か、まだ目は開かない。しかし、彼女の指先が、わずかに震えている。
厳斎は、結衣を引きずり出すようにして部下に任せ、私の方を見た。その目は、私を評価している。
「尚羅夢。あなたは、監視官として、よくやってくれた。これからも、対象の監視を続けてほしい。コンサートまで、何事もないように」
私は、無言で彼を見つめた。拳を握りしめ、ポケットの中のチップとお守りをぎゅっと握った。
結衣が連行されていく。彼女は、最後の瞬間、床の隅に、ごく小さな発信器のようなものを、さっと落とした。私と目が合う。助けて、というメッセージだ。
ブースの中でもんろが、ゆっくりと目を開けた。薬の影響で、焦点は合っていない。しかし、彼女は、結衣が連れて行かれる光景を、ぼんやりと見ていた。
彼女の唇が、かすかに動く。
「…ありがとう…結衣…さん…」
声は、かすかで、眠気を含んでいる。
「でも…もう…大丈夫…」
彼女は、私の方を見た。その目は、深く、静かだった。全てを悟り、受け入れたような、深い諦念に満ちている。
「尚さん…」
彼女の声は、かすかな息づかいのようだ。
「結衣さんを…助けて…ください…」
一呼吸。涙が、彼女の固定された頬を伝わろうとするが、薬のせいか、流れ落ちない。ただ、目を潤ませている。
「私のことは…もう…あきらめて…」
その言葉に、私は胸が張り裂けそうになった。彼女は、自分を諦めろと言う。結衣を助けろと言う。彼女自身のことは、もうどうでもいいと。
私は、ブースの窓に手を当てた。冷たいアクリル板の向こうで、もんろは、哀しげに、しかし優しく微笑んでいる。
「尚さんは…私の、監視官でしたね…」
彼女の声が、かすかに続く。
「最後まで…その役目を…果たして…ください…」
監視官として。彼女の最期を見届ける役目を。彼女は、そう言っている。私に、彼女を「見守る」ことだけを求めている。介入するな、救うな、ただ、見ていろと。
私は、その言葉の裏にある、深い孤独と覚悟を感じた。彼女は、全てを一人で背負い、決着をつけようとしている。結衣の助けも、私の介入も、望んでいない。ただ、静かに、自分の選んだ終わりを迎えさせてほしいと。
人々が去り、ブースの前は再び静かになった。私は、床に落ちていた発信器を拾い上げた。小さなLEDが、微かに点滅している。表示されているのは、純心会本部の座標だ。結衣が、どこに連れて行かれるのかを示している。
私は、十字路に立たされた。
左の道:発信器を頼りに、今すぐ結衣を救出に向かう。もんろの願いを聞き入れる道。
右の道:ここに留まり、もんろを「監視」し続ける。彼女の最後の願いを叶える道。
どちらも、不完全だ。結衣を救えば、もんろは独りで政府の罠に立ち向かわなければならない。ここに留まれば、結衣は…おそらく、コンサート後には用済みとして処分される。
拳を握りしめる。ポケットの中で、剥離器のチップと、107枚の能面の意志が込められたお守りが、かすかに温もりを放っている。
そして、私は、ゆっくりと、背を向けた。
左でも右でもない、第三の道へ。
剥離器の制御権を、完全に奪い取る道へ。あの機械を、もんろを苦しめる道具から、あるいは…彼女を「解放」する可能性のある鍵へと変える道へ。
結衣の発信器は私のポケットに。お守りもチップも。全ての駒は、私の手の中にある。
夜明け前の闇が、少しずつ薄れ始める。コンサート開始まで、あと数時間。
私は、静かに施設の奥、管制センターへと歩き出した。




