最終公演
移動実験車両『ラボ・ゼロ』は、深夜の高速道路を、無数の護送車両に囲まれて走っていた。
車内は、最新の医療機器と音響測定装置で埋め尽くされている。中央には、透明なアクリル板で囲まれた簡易的な「歌唱ブース」が設けられ、もんろはその中にいた。彼女の体には無数のセンサーが貼り付けられ、生体データと情感出力が、周囲のモニターに絶え間なく流れている。混沌度は現在、85%。政府の科学者たちが設定した「安全圏」だ。コンサート本番では、95%まで上昇させる計画だという。百万人分の情感を吸収する臨界点。
窓は完全に遮光され、外が見えない。代わりに、壁面の大型モニターに、車外カメラの映像が映し出されている。灰色の道路、灰色の街灯、すれ違う車のヘッドライト。歩行者は、色を失った世界で、ぼんやりとした影のように移動している。
私は、「監視役」として、ブースのすぐ外の席に座っていた。実質的な軟禁だ。腰には小型の拳銃(弾はない)と、緊急鎮静剤の注射キットを携行している。もんろが暴走した場合、または命令に背いた場合、制圧するためだ。
もんろは、ブースの中で、目を閉じて静かに座っている。彼女の顔は、前回の安定剤の影響か、相変わらず「告白の夜」の表情で固定されている。裂け目は深く、乾いた大地の割れ目のようだ。時折、科学者たちが「出力テスト」を指示すると、彼女は目を開け、指定された周波数と強度で、短い音階を発する。そのたび、モニターの情感出力グラフが跳ね上がり、彼女の顔の裂け目が、かすかに虹色に光る。そして、出力が下がると、光は消え、裂け目がほんの少し深くなる。
訓練は苛烈を極めた。一日十時間以上。もんろは、疲労のあまり何度も倒れそうになるが、すぐに起き上がり、次の指示に従う。彼女の「従順さ」は、不自然ですらあった。契約を受け入れ、無抵抗に訓練に従う。まるで、何かを待っているようだ。
ある日の訓練中、異変が起こった。
科学者たちが、新しい増幅装置のテストを命じた。もんろは、深く息を吸い込み、口を開いた。いつもの、指定された旋律ではない。即興の、不安定なハミングが、ブースから漏れ出る。それは、スカイツリーで彼女が口ずさんだ、「たった一つの歌」の断片だった。
その旋律が、車両の遮音壁をかすかにすり抜け、外へ漏れた。
ちょうど信号で停車していた隣の車線のトラック。運転席の中年男性が、窓を開け、ぼんやりと外を見ていた。もんろのハミングが、かすかに彼の耳に届いた。
瞬間、男性の体がこわばる。彼は、ハンドルにしがみつくようにしてうつむく。肩が震える。そして、嗚咽が漏れる。
「…娘の…目…茶色だった…茶色だったんだ…」
彼は、顔を上げ、虚空を見つめる。涙が、灰色の頬を伝う。彼の目に、かすかながら、長年失われていた、ある色の記憶がよみがえった瞬間だった。
この様子は、車外カメラと情感センサーによって完全に捕捉されていた。管制室(別車両)から、碇大佐の声が、興奮を押さえきれない調子でスピーカーに響いた。
『記録しろ! 出力は低いが、指向性と情感純度が極めて高い! これだ! これが『真の出力』だ!』
科学者たちが、興奮してデータを記録し始める。もんろは、ハミングをやめ、疲れたようにうつむいた。彼女の表情は相変わらず固定されているが、その目には、かすかな哀しみが浮かんでいる。自分の声が、意図せず他人に影響を与えたことへの、罪悪感のようなものか。
訓練後、もんろは、ブースの窓(アクリル板)に、そっと指を当てる。窓には、車内の温度差によるかすかな結露がついている。彼女は、その結露の上に、指で何かを描き始めた。
顔だ。
しかし、それは、これまで彼女が「借り」てきたどの顔とも違う。ごく簡単な輪郭線。丸い顔。しかし、目も鼻も口も描かない。ただの、ぼんやりとした円。その中心に、小さな、かすかな微笑みの弧だけを描き加える。
彼女は、その無顔の笑顔を、じっと見つめている。そして、そっと消す。また描く。また消す。繰り返す。彼女が描きたがるのは、いつも、この無の顔だった。
私は、もんろの「従順」に、強い違和感を覚えていた。
夜、車両が仮設基地に停車し、監視が手薄になった時、私はこっそりと、管制システムの端末(私の監視役用に与えられた、制限付きのもの)にアクセスした。もんろの訓練データを詳細に調べる。
出力グラフには、確かに異常があった。指定されたトレーニング中の出力は安定している。しかし、データの細かいノイズの中に、ごくわずかな、しかし規則的な出力の“溜め”のようなパターンが隠れていた。まるで、目立たないように、少しずつエネルギーを蓄積しているようだ。それは、コンサートで95%まで出力を上げるための準備というには、あまりに巧妙に隠された動きだった。
彼女は、契約に従い、コンサートを行うふりをしている。だが、その先に、別の計画があるのではないか。
その夜、もんろが就寝した後(彼女のブースは常時監視下だが、照明は消える)、私は、かすかな、規則的なコツコツという音に気づいた。壁から聞こえる。隣の車両(結衣が軟禁されている)との仕切り壁だ。
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モールス信号だ。純心会の暗号。私は、かつて結衣から少し教わっていた。ゆっくりと解読する。
『テ・ン・オ・ル・ス・イ』
『逆流』
転送…逆流。もんろが結衣に、何か「逆流」に関するメッセージを送っている。
私は、息を殺して耳を澄ます。もんろのブースからも、かすかな、布団を叩くような音がする。彼女が、ベッドの枠を叩いて信号を送り返している。
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解読する。
『ア・レ・ヌ・ラ・イ・ケ・イ・ホウ』
『全神社・逆流陣法・起動』
アレヌ…ラ…イ… あ、荒・霊・斎・法。純心会に伝わる、最大規模の鎮魂・還流の儀式のことか。それが「逆流陣法」?
もんろの計画が、少しずつ見えてきた。彼女は、契約通りコンサートを開く。だが、その中で、故意に出力を100%(崩壊限界)まで上げ、自らを「情感の爆発点」とする。そして、全国107神社の能面ネットワークを、結衣が「荒霊斎法」で逆転起動させ、もんろから爆発的に放出される全ての記憶(彼女が背負ってきた全ての「借り」)を、かつての「持ち主」たちへ、丁寧に「返還」する。
大いなる帰還。 千年分の負債の、一括清算。
その代償は明白だ。もんろという「器」は、中身を全て放出した後、何も残らない。物理的に消散するかもしれない。
壁越しに、結衣からの返信がかすかに聞こえる。
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『ア・リ・ケ・ル・ケ・レ・ド・モ』
『消・エ・ル』
(ありける・けれども・きえる)
了解する。しかし、消える。
長い間、信号はない。そして、もんろからの最後のメッセージ。
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『ソ・レ・デ・イ・イ』
『ワ・タ・シ・ガ・エ・ラ・ン・ダ・カ・エ・リ・カ・タ・ダ・カ・ラ』
(それでいい・わたしがえらんだかえりかただから)
それでいい。私が選んだ、帰り方だから。
その言葉を解読した時、私の背筋が凍りついた。彼女は、最初から、消えることを選んでいた。契約も、訓練も、全てはそのための布石だった。政府を欺き、大規模な「帰還」の舞台を手に入れるため。
私は、拳を握りしめ、歯を食いしばった。バカな…そんな…!
翌日、車両は、廃墟化した遊園地の脇を通りかかった。
かつてはカラフルだったはずの観覧車やメリーゴーラウンドは、色を失い、錆び付いた骸骨のように佇んでいる。モニターに映るその光景を、もんろがじっと見つめていた。
そして、彼女が、ごくかすかに、口ずさみ始めた。あの「たった一つの歌」。窓も閉まり、完全防音のブースの中だから、外には漏れない。しかし、彼女の唇の動きから、それは明らかだった。
その瞬間、モニターに映る廃墟の観覧車の一部──ほんの数メートルの範囲だが──が、かすかに、しかし確かに淡いピンク色に染まった。一瞬だけ。そして、すぐに灰色に戻る。
車内の情感センサーが、かすかに振れた。もんろ自身の、自発的で純粋な情感の揺らぎが、外界の「色」に、ほんのわずかに干渉したのだ。
管制室から警告のブザーが鳴る。『情感漏出検知。出力を下げろ。』
もんろは、口ずさむのをやめ、静かにうつむいた。彼女の表情は変わらないが、その一瞬、彼女の目が、かすかに輝いていたように見えた。自分の内側から湧き上がるもの(借り物ではないもの)が、現実をほんの少し変えられることを、確認した喜びか。
碇大佐の声が、冷たくスピーカーに響く。『本番まで、無駄な情感出力は禁じる。エネルギーを温存せよ。』
もんろは、かすかにうなずく。
車両は、再び走り出す。コンサート会場である、旧国立競技場へ向かって。
私は、もんろの横顔を見つめながら、決意を固めた。彼女の計画を知ってしまった以上、放っておくわけにはいかない。だが、阻止するのが正しいのか? 彼女が選んだ「帰り方」を、奪う権利が私にあるのか?
しかし、彼女を、ただ消え去らせることなど、できない。
私は、こっそりと、携帯端末(厳重監視下だが、結衣から渡された極小の通信器を隠し持っていた)を取り出し、碇大佐の秘密裏に進められている「面容剥離器」プロジェクトに関する情報を検索しようとした。もんろが契約を破れば、あるいは私が何かをすれば、彼らはあの装置を使うかもしれない。無面者にされるより、消えることを彼女は選んだ。ならば、あの装置の真の危険性を知る必要がある。
画面に、かすかな文字が表示される。『検索中…アクセス拒否…機密レベルA』
手がかりはない。が、一つだけ、碇大佐の部下たちの会話で耳にした言葉があった。「剥離過程での神経系の不可逆的損傷」。
単に顔を空白にするだけでなく、彼女の意識そのものに、取り返しのつかない傷を負わせる可能性がある。
車内のモニターに、巨大なスタジアムのシルエットが近づいてくる。最終公演の舞台だ。周囲には、無数の車両、テント、アンテナが張り巡らされている。世界に向けた、史上最大規模の生中継の準備が、最終段階にある。
もんろは、窓の外の光景を、静かな瞳で見つめていた。その表情は、相変わらず固定された哀しみをたたえている。しかし、その奥に、確かな覚悟の光が灯っている。
明日、夜明けと共に、すべてが終わる。彼女の、千年の旅が。そして、私の、彼女との約束も。




