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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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国家の提案

朝焼け前の、一番深い闇が東京を覆う頃、事態は急変した。

展望台の静寂を破ったのは、まずサイレンの遠吠えだった。無数の赤い旋回灯が、地上から、そして空中から、東京スカイツリーを包囲する光の檻のように浮かび上がる。ヘリコプターのプロペラ音が、ガラスを震わせる。拡声器から、無機質な声が響く。

『特殊作戦実行中。展望台内の者よ、抵抗は無益。直ちに投降せよ。』

結衣が、窓際に駆け寄る。下を見下ろし、顔色を失う。

「完全包囲だ…地上は装甲車両で塞がれている。ヘリは少なくとも四機。民間人は完全に排除されている…!」

もんろは、動じずに東の空を見つめていた。彼女の顔の裂け目からの微光は、まだかすかに脈打っている。彼女は、深く息を吸い込み、振り返る。

「…来ましたね。最後の交渉が」

その言葉と同時に、展望台の換気口から、白い煙のようなものが、シューッという音と共に噴き出し始めた。無臭だ。しかし、吸い込んだ瞬間、もんろの体が、はっとこわばる。

「…これは…」

彼女は、胸に手を当て、苦しそうに息を詰まらせる。顔の裂け目から漏れていた虹色の光が、一瞬強く輝いたかと思うと、ぱたりと、まるで電源を切られたように消える。そして、彼女の顔の「動き」──微かな表情の揺らぎ、裂け目の光の脈動──が、完全に静止する。

彼女の容貌は、「告白の夜」、神社で彼女が私に「一日だけ『私』でいさせて」と懇願した時の、あの深い哀しみと儚い希望が入り混じった、脆くも美しい表情で固定された。裂け目はそのままだが、それはもう「動く傷」ではなく、単なる「古い陶器のひび」のように見える。

『面容安定剤』。政府が密かに開発していた、巫女の情感能力を一時的に封じ、面容の変動を停止させる化学剤だ。死には至らないが、彼女を無力化する。

「もんろ!」 私は彼女の傍らに駆け寄る。彼女は、よろめきながら私の腕にしがみつく。力がない。顔を上げ、私を見る。その目は、かすんでいた。固定された表情のせいか、感情を読み取るのが難しい。

「…大丈夫…」 彼女の声は、かすれている。「ただ…動けなく…なっただけ…」

展望台のエレベーターホールの方向から、重い足音が響く。複数だ。ドアが滑り開く。全身を黒い戦闘服と防護装備で固めた特殊部隊員が、十名以上、銃を構えて侵入してくる。彼らは、たちまち私たち三人を完璧に包囲した。

隊員たちの間から、一人の男が前へ出る。戦闘服ではなく、カーキ色の軍服に、医師のような白いコートを羽織っている。五十歳前後か。剃り込まれた頭、無表情な顔、鋭い観察眼を宿した灰色の目。胸の名札には、「軍医大佐・碇 堅弥」とある。

彼は、拡声器など使わない。普通の声で、しかしよく通る低音で話し始める。

「時間の無駄は省こう。私は、今回の作戦の責任者、碇堅弥だ。君たち、特に赫映もんろには、取引を持ちかける」

彼の目が、固定された表情のもんろを、興味深そうに、しかし冷徹に観察する。実験動物を見るような視線だ。

「状況は単純だ。君たちはここから出られない。我々は、物理的にも化学的にも、完全に封じ込めている。抵抗すれば、鎮圧するだけだ」

碇大佐は、手にしたタブレットをちらりと見る。

「だが、殺すつもりはない。特に、彼女は。貴重な『国家資産』だ。だから、取引をする」

彼は、指を一本立てる。

「第一。政府の要求:赫映もんろは、『世紀の癒やしコンサート』を開催する。生中継で。対象は、全国の重症CPDS患者、推定百万人だ。彼女の『能力』を最大限に発揮し、彼らから症状──失われかけた『色』と『記憶』の断片──を一時的に吸収、集約する。それにより、政府は、少なくとも十年の社会的安定を得る」

彼の言葉は、無機質で、まるで戦略会議の資料を読み上げているようだ。

「第二。交換条件:コンサート終了後、赫映もんろは、自らの意志で『永久能面化プログラム』に入る。最新技術による、完全な保存処置だ。その後、彼女は、国家が管理する『戦略資産』として、国立博物館の特別収蔵室に永久保管される」

碇大佐の目が、結衣に向けられる。

「第三。純心会への補償:全国107枚の能面を、全て元の神社に返還し、貴会の管理下に置く。政府は、貴会を『無形文化財保護団体』として正式に認定し、法的地位と活動資金を保証する。千年の使命に、公式の終止符を打ってもらう」

そして、その冷たい灰色の瞳が、私を捉える。

「第四。尚羅夢への『赦免』:国家反逆罪を含む全ての容疑を不問とする。監視官としての職位を復帰させ、今回の功績により、昇進も考慮する。普通の人生に戻れる」

彼は、タブレットを閉じ、私たち三人を順番に見渡す。

「以上が、取引の全容だ。承諾するか、しないか。返答は、今すぐに」

展望台は、重い沈黙に包まれた。ヘリのプロペラ音と、外のサイレンが、不気味に響く。

私は、脳内が真っ白になった。取引? もんろを、百万人の患者の症状を一時的に吸い取る「生贄」として使い、その後は博物館の収蔵庫にしまい込む? そして、その見返りに、能面が戻り、純心会が認められ、私は…普通に戻れる?

「…ふざけるな…」

声が、震えていた。怒りで。

碇大佐は、私の怒りを、少しも動じずに見つめる。

「感情的な反発は理解する。だが、現実を見よ。彼女は、もはや制御不能だ。傷口からの記憶漏出、人格の不安定化。このままでは、彼女は崩壊し、中に閉じ込められた無数の記憶が、社会に逆流する。百合の事故の、数百倍の規模でだ」

彼の声は、低く、確かだ。

「この取引は、最善の被害最小化策だ。彼女一人の自由と未来と引き換えに、百万人の苦しみを十年間止め、社会の崩壊を遅らせる。そして、千年の負の遺産を、永久保存という形で封じ込める」

彼は、もんろをまっすぐ見る。

「彼女の命と、一千万人(将来的な患者数を含む)の『色』と、どちらが重い? 数字は冷酷だが、戦略判断では、常に数値化される」

その言葉の残酷さに、結衣が歯を食いしばった。彼女は、拳を握りしめ、体を震わせている。しかし、反論の言葉が出ない。碇大佐の言うことは、ある意味で「正しい」。感情的には受け入れがたくとも、戦略的、統計的には「合理的」な選択なのだ。

長い、長い沈黙。

もんろが、私の腕から、ゆっくりと体を離した。彼女は、よろめきながら、一歩前に出る。固定された哀しい表情で、碇大佐を見つめる。

彼女の口が、かすかに動く。声は、かすれているが、はっきりと聞こえる。

「…コンサートの後…」

一呼吸。

「…私は、どこに、いるのですか?」

その問いは、あまりにストレートで、純粋だった。彼女は、条件や取引の理屈ではなく、ただ、自分がどこに行くのかを知りたがっている。

碇大佐は、一瞬、わずかに目を見開いた。おそらく、もんろが感情的な反発ではなく、そんな現実的な質問をするとは思っていなかったのだろう。しかし、すぐに無表情に戻る。

「国立博物館。特別収蔵室『零号庫』。温度・湿度・情感波動、全てが完全管理された、外界から隔離された空間だ。あなたの功績は、歴史に刻まれる。未来の世代が、あなたの犠牲と、この時代の記録を、確かに目にすることになる」

もんろは、その言葉を、じっと聞いていた。そして、かすかに、ほほえんだ。固定された表情が、わずかに緩む。それは、深い哀しみに満ちた、しかしどこか諦念に満ちた微笑みだった。

「…そうですか」

彼女は、そっとうなずく。

「…図書館の…一番奥の、書架ですね」

その言葉に、碇大佐の眉が、かすかに動いた。彼は、もんろの比喩を理解したようだ。図書館(この国の記憶)の、最も深く、最も大切にしまわれる、最後の一冊に。

「…正確な比喩だ」 碇大佐は、短く言った。

「だめだ、もんろ!」 結衣が、思わず叫んだ。「そんな条件、受け入れるわけにはいかない! あなたは、道具じゃない! 生きた人間だ!」

もんろは、結衣の方を見る。その目は、優しい。

「結衣さん…」

彼女は、よろめきながら結衣に近づき、彼女の震える手を、自分の冷たい両手で包む。

「…これで、いいんです」

彼女の声は、静かで、確かだった。

「107人の先輩たちも…きっと、望んでいたはず。この長い、長い旅を…確かな形で終わらせることを」

彼女は、私の方を見る。その目には、涙がにじんでいる。固定された表情のせいか、涙が流れ落ちることはない。ただ、瞳を潤ませているだけだ。

「尚さんも…そう、思いますよね?」

その問いは、私の胸を、鋭いナイフで貫かれた。彼女は、私に同意を求める。この残酷な取引に、賛成するように。

私は、言葉が出なかった。喉が詰まる。頭の中では、碇大佐の「合理的な」説明が渦巻く。百万人の救済。社会の安定。千年の呪いの決着。そして、もんろの「安住の地」。

しかし、心は、叫んでいる。彼女を、生きたまま博物館の標本にするなんて。彼女の、たった一日の「自分」としての時間を、奪うなんて。

もんろは、私の沈黙を、深く悲しそうに見つめた。そして、ゆっくりと、碇大佐の方に向き直る。

「…条件を、受け入れます。でも、一つだけ…お願いがあります」

碇大佐は、うなずく。「言え」

「…コンサートは、私のやり方で。場所も、歌も、全て。政府は、中継の準備だけをしてほしい」

碇大佐は、一瞬考え込み、うなずいた。

「…よかろう。ただし、内容は事前に審査する。社会秩序を乱すもの、情感の制御を失う危険のあるものは、認めない」

「わかりました」

もんろは、深く息を吸い込む。そして、碇大佐が隊員から受け取った、電子タブレット(契約書が表示されている)に、ゆっくりと歩み寄る。

その時、碇大佐が、追加で言った。

「…ついでに、情報を開示しよう。政府は、『面容剥離器』の原型機を完成させている」

その言葉に、私たちは凍りついた。

「彼女の顔に刻まれた、無数の『借り』の面容を、生命維持を損なわずに剥離、デジタル化保存する装置だ。能面化の代替手段として開発していた」

碇大佐の目が、もんろの固定された顔を見つめる。

「この取引が履行されれば、その装置を使う必要はない。だが、もし約束を破り、逃亡や抵抗を試みれば…我々は、装置を使用し、彼女から全ての『借り』を剥ぎ取り、デジタルアーカイブ化する。彼女自身は…『無面者』となる。完全な空白の面容だ。そちらの方が、彼女にとって『苦痛』は少ないかもしれないが」

その冷酷な選択肢──能面になるか、無面になるか──に、展望台の空気がさらに冷え切る。

もんろは、その言葉にも、特に動揺を見せない。ただ、かすかにうなずくだけだ。

彼女は、タブレットの表示画面(同意欄)に、指を置く。その指先は、震えている。

そして、押す。

画面が赤く光り、『承認済み』と表示される。同時に、指紋がスキャンされる。が、その指紋の画像が、驚くべきことに、絶え間なく微かに変化している。無数の他人の指紋の特徴が、彼女の皮膚の下で蠢き、表面ににじみ出ているのだ。

もんろは、自分の変化する指紋を一瞥し、かすかに笑った。そして、静かに、しかしはっきりと宣言した。

「…約束します。最後の歌を…歌います」

その言葉が、冷たい展望台のガラスに吸い込まれていく。外では、夜明け前の闇が、少しずつ薄まり始めていた。

取引は成立した。もんろの運命は、決まった。

博物館の、一番奥の書架へ。

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