決意
朝日が、ゆっくりと山の稜線を登り、灰色の世界に、かすかなオレンジ色の光を注ぎ始めていた。
神社の前の広場で、もんろは東の空を見つめていた。彼女の背中は、朝日に照らされ、無数の裂け目が、細かい金の線のように浮かび上がっている。彼女は、深く、静かに息を吸い込む。そして、振り返る。その顔は、朝日の光をまともに受け、すべての裂け目、すべての色の染み、すべての異なる質感が、残酷なまでにはっきりと見えていた。しかし、その表情には、不思議な静けさと確かさが満ちていた。
結衣と私が、彼女の前に立つ。
「…決めました」
もんろの声は、朝の冷たい空気の中で、澄んで響いた。
「最後の…ライブを、します」
その言葉に、私は胸が締め付けられた。ライブ。彼女が、ステージに立ち、歌う。しかし、それが「最後」だと彼女は言う。
結衣の眉がかすかに動く。彼女も、もんろの言葉の重みを感じている。
「ライブ…?」 結衣が尋ねる。「どのような?」
もんろは、かすかに微笑んだ。その笑みは、裂けた唇が無理矢理に形作ったものだったが、そこには、深い覚悟が込められている。
「今までとは…違うライブです。人々から『借り』るだけの…ライブじゃない」
彼女は、そっと自分の胸、107個の記憶の珠が入った袋に手を当てる。
「私は…この中にある全てのものを、返したいんです。借りたまま、ずっと抱えていた、無数の人々の顔の記憶を。107人の先輩たちが、命をかけて守り続けてきた、千年分の思い出を」
彼女の目が、私たちを真っ直ぐに見つめる。
「今まで、私は、人々から癒やしを求められ、彼らの失いかけた『自分』の断片を預かってきました。それが、私の『役目』だと思っていました。でも、違うんです。借りたものは、返さなければならない。それが約束です」
彼女の声に、微かな震えが混じる。
「だから、私は…全てを返します。一度に、でも、丁寧に。私という『器』を、一時的な『中継点』にして、全ての記憶を、それぞれの持ち主へ、あるいは、この世界そのものへ…帰していきたい」
その計画の途方もなさに、私は息をのんだ。
「…どうやって?」 私の声はかすれている。
「歌で」 もんろの答えは、簡潔だった。「今までの『癒しの歌』は、情感を吸い込むためのものでした。ならば、その逆の周波数、逆の情感の流れを作り出せば、中に閉じ込めたものを、外へと解き放てるかもしれない。楓先輩の珠や、萩先輩の珠と共鳴した時、感じました。記憶は、一方向では流れない…双方向の川だということを」
彼女は、空を見上げる。
「最後のライブ。世界中に、生中継します。私は、ベールも、仮面も、何もつけません。このままの顔で。そして、歌います。借りた全ての記憶、全ての色、全ての声を、込めて」
彼女の目が、私の方に向けられる。その瞳には、悲しみと、どこか解放への期待が入り混じっている。
「その歌が終わった時…私は、多分、空っぽになるでしょう。借りていた全てを返した『器』は、もう何も残らない。もしかしたら…この体さえ、保てないかもしれない」
「バカな!」
私の声が、思わず跳ね上がった。私は、もんろの前に立ちはだかるようにして、彼女の細い肩を掴んだ。
「そんなことしたら、お前は…消えてしまう! 何もかも、全部、失ってしまうんだ!」
もんろは、私の激しい動きにも動じず、じっと私を見つめている。その目は、あまりに穏やかで、私の怒りが、空を切るだけのように感じられた。
「尚さん…」 彼女の声は、優しい。「『赫映もんろ』って…誰だと思いますか?」
その問いに、私は言葉に詰まった。
「それは…お前だ! お前は、もんろだ!」
「ええ、そうです。でも、その『もんろ』は、何でできていますか?」 もんろは、そっと自分の頬に触れる。裂け目をなぞる。「107人の先輩の記憶の継承者。無数の人々から借りた、顔のパーツの集合体。AIが提案する『最適な笑顔』のデータ。政府が与えた『歌姫』という役割…」
彼女の目に、深い哀しみがよぎる。
「…でも、『私』だけの記憶…尚さんと出会う前から、私の中にあった、確かな『私』という核…それは、一つもありません。生まれた時から、『空白』でした。私を形作る全ては、『借り物』なんです」
その言葉が、私の胸をえぐる。真実だ。彼女には、自分だけの過去も、自分だけの顔もない。全てが、他人から預かった、あるいは与えられたものだ。
「だから、最後に…」 もんろの声が、かすかに強くなる。「『私』だけのことを、したいんです。誰のためでもない、役割のためでもない。ただ、私が、私として、選びたいこと」
彼女の目に、涙が光る。
「借りたものを返す。それが、私にできる、たった一つの、『自分』の意思表示かもしれない」
私は、彼女の肩を握る手の力が、自然と緩んでいくのを感じた。反論の言葉が見つからない。彼女の選択は、あまりにも痛々しく、しかし、あまりにも潔い。
その時、傍らで、結衣が動いた。彼女は、ゆっくりともんろの前に歩み寄り、そして、ひざまずいた。深々と、額が地面に触れるほどの、最敬礼。
「…もんろ様」
結衣の声は、震えている。しかし、その中には、揺るぎない敬意が込められている。
「私は、純心会第七十三代当主、結衣と申します。千年にわたり、巫女の系譜と、このシステムを見守り続けてきた家系の者です」
彼女は、顔を上げる。目には、涙がにじんでいる。
「私たちの使命は、システムを守り、巫女たちの最期を見届けることでした。しかし、それは、同時に、無数の巫女たちに、重い運命を背負わせ続けることでもありました。私は…この千年の罪の意識と共に、生きてきました」
結衣の目が、もんろの裂けた顔を、涙ながらに見つめる。
「ですが、あなたの言葉を聞き、私は思いました。守り続けるだけが、使命ではないと。あなたが、システムを『進化』させようとするその意志こそが、この千年の呪いを、終わらせるための、唯一の道かもしれないと」
彼女は、もう一度深く頭を下げる。
「私は、純心会当主として、あなたの御意志を、心より尊重いたします。そして…個人として、友として、この最後の旅路に、お手伝いさせてください。107人の先輩たちも…きっと、同じ思いで、あなたを見守っているはずです」
もんろは、結衣の前にひざまずき、そっと彼女の手を取った。
「ありがとうございます、結衣さん」
二人の手が握り合う。千年の重みと、最後の巫女の覚悟が、その手のひらを通じて交わるようだった。
そして、もんろは、再び私の方を見た。彼女は立ち上がり、一歩、私に近づく。朝日が、彼女の背中から差し込み、その輪郭を金色に縁取る。彼女の顔は、逆光で暗く、裂け目の細部は見えない。しかし、その瞳だけが、かすかな光を宿して輝いている。
彼女は、私の手を、そっと握った。その手は、冷たい。傷や、筆だこ、様々な「借り」の痕跡が刻まれている。しかし、その握り方は、確かで、力強い。
「尚さん…お願いがあります」
彼女の声は、今までで一番小さく、しかし、一番確かだった。
「能面になる前に…たった一日でいいから…『私』でいたいんです」
彼女の目に、真剣な願いが浮かぶ。
「本当の空の色を、見たい。自分の顔で、心から笑ってみたい。誰の記憶でもない、借り物じゃない、『私』の声で、一曲、歌ってみたい」
彼女の握る手が、わずかに強くなる。
「それが…私の、最後の…わがままです。叶えてくれませんか?」
その言葉に、私は胸が熱くなった。涙がこみ上げるのを、必死にこらえる。彼女は、最後に、たった一日、ただの「赫映もんろ」として生きることを望んでいる。何の役割も、使命も背負わずに。
私は、彼女の手を、両手で包み込んだ。彼女の手の冷たさが、私の掌で、少しずつ温まっていく。
長い間、私は彼女の目を見つめていた。その目の中には、107人の巫女たちの優しさ、戦士たちの強さ、芸術家たちの情熱、無数の人々の哀しみと喜び…それら全ての光が、層を成して輝いている。しかし、その一番奥、一番深いところに、かすかながら、確かに、今ここに立つ、一人の少女の、純粋な願いの光が灯っている。
彼女は、能面になる前の、たった一日を、ただ「自分」として生きたい。
それ以上に、切実で、正当な願いがあるだろうか。
私は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、うなずいた。
「…わかった」
私の声は、かすれていた。
「一日だけだ。たった一日でいいから…」
私は、彼女の冷たい手を、しっかりと握り返す。
「…お前の顔を、見せてくれ。赫映もんろの、本当の顔を」
もんろの目に、大粒の涙が、こぼれ落ちた。しかし、その口元が、ゆっくりと、無理のない、自然な微笑みへと緩んでいく。それは、AIの提案でも、他人の記憶の模倣でもない、彼女自身の感情から湧き上がった、初めての、純粋な笑顔だった。
朝日が、ついに山の頂を越え、金色の光が、彼女の笑顔をまともに照らした。その顔は、無数の裂け目に覆われ、決して「美しい」とは言えない。しかし、その笑顔は、この世のどんなものよりも、確かで、愛おしいものに見えた。
約束の日は、明日だ。彼女が、最後の「私」として生きる、たった一日の始まり。




