雪の巫女
長野の山は、吹雪に覆われていた。
キャンピングカーは、ついに道を失い、雪山のふもとで立ち往生した。エンジンは唸りを上げていたが、前輪は深い雪に埋まり、もはや動かない。外は、真っ白な、あるいは灰色の、視界を遮るほどの激しい雪。風が唸り、車体を揺らす。
車内でもんろの状態は、さらに悪化していた。熱は下がらず、傷口の包帯は、ほぼ一日で、多色の滲みで染まっている。医師が交換するたび、その下から、より鮮明な「他人の顔の断片」が浮かび上がっているのが見えた。老漁夫の妻の小魚のそばかすは、よりくっきりとした茶褐色に。画家の妻の瞳の輪郭は、深いこげ茶の輪となって広がりつつある。そして、新たに、無数の、かすかな凍傷のような青紫色の斑点が、傷口の周囲に現れ始めていた。雪の記憶の珠に近づくにつれ、その影響が、彼女の体に直接現れているのかもしれない。
「ここからは、歩くしかない」 結衣が、吹雪に向かって険しい表情で言った。「神社は、この尾根を越えた先の谷間にある。地図によれば、徒歩で三時間。だが、この吹雪では…」
「待っている方が危険だ」 医師が、もんろの脈を計りながら言った。「彼女の傷の『漏出』は加速している。ここでじっとしていても、崩壊は進む。動くしかない」
私は、うなずいた。もんろを背負う。彼女は、意識があるのかないのか、うつらうつらしている。私の背中で、かすかにうめく。傷口が、圧迫されて痛むのだろう。
「すまない、もんろ。少しの間だ。頑張れ」
私たちは、車を降り、吹雪の中へと足を踏み入れた。結衣が先導し、医師が私の後ろをついてくる。風は鋭く、雪の粒が顔を刺す。視界は数メートル先もわからない。足元は深い雪。一歩進むごとに、膝まで埋まる。
もんろの体は、驚くほど軽かった。無数の「借り」で満たされているはずなのに、その存在そのものが、かすかで、儚いもののように感じられた。彼女の息が、私の首筋にかすかに触れる。熱い。
「…す…ま…ない…」 彼女が、かすかに呟く。「…おも…い…」
「気にするな。お前の重さなんて、たいしたことない」
それは嘘ではなかった。彼女の物理的な重さよりも、彼女という存在の、果てしなく深い悲しみと願いの「重さ」の方が、私の胸をずっしりと押さえつけていた。
一時間。二時間。吹雪は一向に弱まらない。足取りは次第に重くなる。結衣も医師も、息を切らしている。もんろのうめき声が、次第に大きくなる。傷が、痛むのだ。
そして、ついに、尾根を越えた。吹雪が一瞬弱まり、谷間が見渡せる。
そこには、雪に埋もれかけた、小さな神社が見えた。鳥居は半分雪に埋まり、社殿の屋根には分厚い雪が積もっている。しかし、鳥居の両脇の石灯篭だけは、不思議と雪が積もっておらず、かすかに青白い炎が、風にも揺るがずに燃えていた。楓の神社と同じ、結界の灯だ。
「着いた…!」 結衣が、力なく言った。
私たちは、最後の力を振り絞り、鳥居をくぐり、社殿へと向かう。社殿の扉は凍りついているが、結衣が古い鍵(雪の巫女を祀る家系から託されたもの)でこじ開ける。
中は、ひんやりとしているが、外の吹雪よりもはるかに静かだ。空気が重い。雪の記憶の珠の存在を感じさせる、冷たくも清冽な気配が満ちている。
社殿の中央、祭壇の上に、三つ目の珠が安置されていた。今回は、水晶の珠でも勾玉でもない。氷のように透き通った、しかし決して溶けない、掌大の六角形の結晶だった。中には、雪の結晶のような、繊細で複雑な模様が閉じ込められ、ゆっくりと回転している。その中心に、かすかな、青みがかった白光が灯っている。
「雪の記憶の珠…」 結衣が、畏敬の念を込めて呟く。「彼女は、この地の大寒波と飢饉で凍死した、多くの人々の記憶を封じた。そして…ある特別な記憶も」
私は、もんろを社殿の隅の、少しばかりのわらに横たえた。彼女の顔は青白く、呼吸は浅い。医師が、急いでもんろのバイタルをチェックする。
「…早く…」 医師の声が焦っている。「彼女の傷の漏出が、さらに…」
もんろの左肩の包帯から、新たな色がにじみ出ていた。青白い、雪の結晶のような模様が、皮膚の上に広がり始めている。
もんろは、かすかに目を開ける。その目は、かすんでいたが、祭壇の上の雪の結晶を、しっかりと見つめている。
「…あれ…が…」
彼女は、よろめきながら立ち上がろうとする。医師と私が支える。
「…触れ…ないと…」
彼女は、雪の結晶に手を伸ばす。その手は、震えている。傷口からの青白い模様が、腕を伝って広がりつつある。
そして、指先が、透き通った結晶に触れる。
視界が、一気に真っ白になる。
冷たい。深い、底知れない冷たさ。しかし、そこには、どこか清らかな悲しみが満ちている。
私は――いや、雪は、雪深い村の外れに立っている。周囲には、凍死した人々の遺体が、雪に埋もれ、あるいはかすかにうずくまっている。江戸時代初期。厳しい寒波と、それに伴う飢餓。この地では、毎年のように、人が凍え死ぬ。
雪の任務は、楓や萩と同じだ。凍死していく人々の、最期の「顔」を記憶し、能面に封じること。彼女は、無言で、一人一人の傍らに跪き、彼らの最期の表情(安堵、苦痛、諦念、あるいはどこか遠い温もりを思い出すような穏やかさ)を「借りる」。
だが、雪には、他の巫女にはない、ある秘密があった。
村のはずれの、ひっそりとした小屋。そこに、一人の青年が隠れ住んでいた。隠れ切支丹だ。彼の家族は、すでに迫害で命を落としていた。彼だけが、かろうじて逃れ、この雪深い地に潜んでいた。
雪は、密かに彼に食料や薬を運んだ。彼女が巫女であることを、青年は知っていた。しかし、彼は恐れなかった。むしろ、彼女の優しさに、深く心を打たれた。
やがて、二人の間に、静かで、しかし確かな愛情が芽生える。それは、この世の厳しさと、お互いの立場の危うさを知り抜いた上での、かすかで儚い絆だった。
ある夜、青年が雪に言う。
「…雪さん、もしも…わたしが捕まったら…」
雪は、青年の目を見つめる。その瞳は、信仰と恐怖、そして雪への思いで曇っている。
「…わたしの顔を、忘れないでください」
青年が、そっと雪の手を取る。その手は、冷たいが、確かな温もりを伝えている。
「神様に祈る時…この顔で、祈ってほしいんです。雪さんの祈りに、わたしの顔を…添えてほしい」
それは、愛の告白というより、遺言だった。青年は、自分が長くは生きられないことを悟っていた。ならば、せめて、自分の存在の証を、愛する者の記憶に、いや、彼女の肉体そのものに刻み込みたかった。
雪は、涙をこらえながら、深くうなずいた。
「…約束します。あなたの顔を…決して忘れません。私の祈りに、あなたを、いつも添えます」
その言葉から数日後、青年の隠れ家が役人に発見された。青年は抵抗せず、静かに連行されていった。最後まで、雪の方を振り返り、かすかに微笑んだ。
その笑顔が、雪の網膜に、魂に、深く焼き付く。
それ以来、雪が人々から「借りる」顔の全てに、青年の面影が、かすかに重なるようになった。老婆の優しい目尻に、青年の穏やかさが。子どもの無邪気な笑みに、青年の純粋さが。凍死する武士の悔恨の表情に、青年の諦念が。
雪の顔は、日増しに「重く」なる。が、そこには、他の巫女とは違う、ある種の調和があった。無数の他人の苦しみが、すべて、青年という一つの「愛する存在」への思いに収斂され、浄化されていくような感覚。
最後の日。能面化の儀式。雪は、特別な願いを口にする。
「この能面を…西に向けて祀ってください」
術者たちは怪しむ。「なぜ西か?」
雪は、静かに微笑んだ。
「…あちらに、彼が祈る神がいますから」
青年が信仰した、西方の神。彼が最後まで祈りを捧げた方へ、顔を向けていたい。
能面が、ゆっくりと雪の顔に近づく。意識が遠のいていく。その時、雪の心に去来したのは、深い哀しみではなく、ある種の充足感だった。
彼女は、無数の凍死者の記憶を背負う。しかし、その中心に、たった一人の、愛する青年の顔がある。彼の顔を「借りた」ことで、彼女は、彼の信仰、彼の思い、彼の存在そのものを、自分の中に刻み込んだ。
それは、単なる「借り」を超えた、愛の同化だった。
意識が消える直前、雪は、心の中で囁く。
『愛することも…顔を借りることのうち…』
『だから…さびしく…ない…』
「――っ! はあ…はあ…!」
もんろの体が、雪の結晶から手を離し、大きくのけぞった。彼女は、激しく息をし、涙がとめどなく流れる。その涙は、冷たそうだった。
そして、彼女の顔に、新たな変化が現れた。
左目の下、頬骨の少し上に、ごく小さな、しかし確かな涙ぼくろが浮かび上がった。淡い藍色がかった、冷たそうな色だ。雪の愛人、そして雪自身が、能面となった後も唯一残した「自我の印」だった。
もんろは、震える手で、その新しい涙ぼくろに触れる。そして、私の方を見た。その目は、雪の記憶のせいか、驚くほど澄み切って、深い哀しみと、どこか穏やかな受容に満ちていた。
「…雪…先輩…」 彼女の声は、かすれている。「…愛する人を…顔に刻んで…寂しくなかった…」
彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。
「私は…たくさんの人を愛しています」
その言葉に、私は息をのんだ。
「漁師のおじいさんを…画家さんを…楓先輩を…萩先輩を…雪先輩を…」
彼女は、一つ一つ、丁寧に数える。
「全部…借りた顔の分だけ…その人たちの思い出を、大切に思っています」
彼女の目に、涙がまた浮かぶ。
「でも…」
一呼吸。社殿の中が、水を打ったように静かになる。外の吹雪の音さえ、かすかに聞こえるだけだ。
彼女の目が、真っ直ぐに私を見つめる。その瞳には、雪の涙ぼくろが、かすかに光っている。
「…『私』だけの愛が…」
声が震える。
「…あるんでしょうか?」
その問いは、鋭い氷の柱のように、私の胸を貫いた。
彼女は、無数の他人の記憶を通して、無数の「愛」を経験している。漁師の妻への愛情。画家の妻への思い。戦場の兵士のふるさとへの未練。隠れ切支丹の青年への信仰と愛情。それら全てを、彼女は「借り」、そして、自分のもののように感じ、大切に思っている。
しかし、それらの愛は、すべて、他人の愛だ。彼女自身が、誰かを、純粋に「赫映もんろ」として愛したことがあるのか? あるいは、誰かが、彼女を「赫映もんろ」として愛してくれたことがあるのか?
彼女の傷口からにじむ無数の色。彼女の顔に刻まれる無数の特徴。それらはすべて、他人からの「預かり物」だ。彼女自身のものは、何一つない。ならば、愛さえも、「借り」でしかないのか?
私は、言葉に詰まった。何と答えればいいのか。私は、彼女を――。
彼女は、私の沈黙を、深く悲しそうに見つめていた。そして、かすかにうなずき、目を伏せる。
「…答えは、要りません」
彼女が、小さな声で言う。
「ただ…聞きたかっただけです」
医師が、もんろの傷口をチェックする。驚くべきことに、傷の「漏出」が、一時的に収まっているように見える。青白い雪の結晶の模様が、傷口の周囲を覆い、他の色のにじみを押さえ込んでいる。雪の記憶の珠が、彼女の中の無秩序な「借り」に、新たな「秩序」と「冷静さ」をもたらしたのか。
だが、傷そのものは、まだ開いている。包帯を交換すると、その下には、雪の涙ぼくろと同色の、青みがかったかすかな光が、傷口の奥で微かに脈打っているように見えた。
外の吹雪が、再び激しくなる。社殿の扉ががたがたと揺れる。
「ここに留まるのは危険です」 結衣が言った。「下山しましょう。次の珠を探す前に、少しでも体力を回復させる必要があります」
私たちは、社殿を後にした。吹雪は、相変わらず凄まじい。下山の道は、登りよりもさらに危険だ。
途中、雪崩の危険を避けるため、大きな岩の洞穴を見つけ、そこに一時避難することにした。洞穴の中は、外よりはるかに温かい(相対的に)。私たちは、かろうじて持ち込んだ毛布にもぐり、体を寄せ合って寒さをしのぐ。
もんろは、岩壁にもたれ、目を閉じている。彼女の呼吸は、やや落ち着いている。左目の下の新しい涙ぼくろが、洞穴の薄暗がりで、かすかに青白く光っているように見えた。
そして、彼女が、口を開いた。歌うのではない。囁くような、しかし澄んだ調べで、ある旋律を口ずさみ始めた。
それは、キリスト教の聖歌だった。ラテン語か、あるいは古い日本語訳か。ゆっくりとした、哀切に満ちた旋律。雪の記憶の中の、あの青年が、密かに口ずさんでいた祈りの歌。
『Ave Maria, gratia plena…』
(めでたし、恵みに満ちたるマリア…)
もんろの声は、雪の声と、青年の声と、そして彼女自身の声が、微妙にブレンドされたような、不思議な響きを持っていた。それは、借り物の歌声ではない。彼女が、雪の記憶を自分のものとして消化し、そこから紡ぎ出した、新たな「声」だった。
彼女は、目を閉じたまま、静かに歌い続ける。その横顔には、雪の涙ぼくろが、確かに刻まれている。そして、その表情には、深い哀しみと、どこか祈りにも似た穏やかさが漂っていた。
私は、その姿を、息をのんで見つめていた。
彼女は、今、無数の他人の「愛」に満たされていた。雪の青年への愛。画家の妻への愛。漁師の夫婦の愛。それら全てが、彼女という器の中で共鳴し、一つの美しくも痛ましいハーモニーを奏でている。
しかし、それらの愛は、どれ一つとして、彼女自身に向けられたものではなかった。
彼女は、愛されることなく、ただ、他人の愛を背負い、歌い続ける、永遠の器なのか。
その思いが、私の胸を、鋭い苦痛で締め付けた。
もんろの歌が、やがてかすかになり、そして止まる。彼女は、深く眠りについたようだ。雪の記憶の共鳴が、彼女に深い眠りをもたらしたのか。
外では、吹雪がまだ唸りを上げている。夜は、さらに深まる。
私は、もんろの眠る横顔を見つめながら、拳を握りしめた。
次の珠。その次も。108個全てを。彼女に、「彼女だけの愛」を見つけさせてやると、心に誓った。
たとえ、それがどんな形であろうとも。




