傷
純心会の隠れ家は、東京下町の、古びたマンションの一室だった。
外見はごく普通の賃貸アパート。中は、簡素だが、医療機器と通信機器が所狭しと並んでいる。もんろを運び込んだ時、待機していた純心会所属の医師(中年の、物静かな女性)が、すぐに処置を始めた。
弾丸は、左肩の三角筋をかすめて貫通していた。骨には当たっていない。通常なら、適切な処置と安静で、数週間で回復する傷だ。医師が消毒し、縫合を始める。麻酔を使う。
しかし、針が皮膚を貫く瞬間、異変が起こった。
縫合しようとする傷口の縁から、かすかな光が漏れた。そして、その光の中に、微細な、しかし確かな模様が浮かび上がり始める。
まず、老漁夫の妻の、小魚の形をした淡い茶褐色のそばかす。傷口の上部に、ぽつりと現れる。
次に、画家の妻の、深いこげ茶色の瞳の輪郭のような模様が、傷口の中心部にかすかに広がる。
さらに、少年の母親の卵焼きの、レモンイエローの斑点が、ぽつぽつと傷口の周囲に散らばる。
それらは、単なる痣や色素沈着ではない。文字通り、他人の顔の特徴が、もんろの傷口という「裂け目」から、にじみ出ようとしているようだった。皮膚の下で蠢いていた無数の「借り」が、肉体の損傷をきっかけに、外へあふれ出ようとしている。
医師の手が止まった。彼女は、目を見開き、傷口の異変を見つめる。
「…これは…」
結衣が、医師の横に駆け寄る。彼女の顔色が青ざめる。
「『記憶の漏出』です…」
彼女は、そっともんろの額(熱く、汗で濡れている)に手を当てる。
「彼女の体が、もう、全ての『借り』た顔を、内側に保持できなくなっている。傷口が、圧力の逃げ道になった。このままでは…」
結衣の声が震える。
「傷口から、無数の顔の断片が、文字通り『溢れ出して』しまう。彼女という『器』が、物理的に崩壊するかもしれない」
私は、もんろの傍らにひざまずいた。彼女は、麻酔とショックで朦朧としているが、痛みに顔を歪めている。その顔自体が、今、激しい「蠢き」を見せている。傷口からの「漏出」に呼応するかのように、皮膚の下の無数のパーツが、より激しく動き、衝突している。
「どうすれば止められる?」 私は、医師と結衣を交互に見た。
医師は、深刻な表情で首を振る。
「普通の医療では無理です。これは、物理的な損傷以上のものです。彼女の体そのものが、情感の結晶…いや、無数の他人の記憶の『詰め合わせ』になっています。傷は、単にその『包み』に穴が開いただけ。中身が漏れ出している」
結衣は、深く考え込む。そして、ゆっくりと言った。
「…唯一の方法は、『記憶の珠』を集めるペースを、急激に早めることです」
彼女は、楓と萩の記憶の珠が入った袋(もんろの胸からそっと外した)を取り出し、じっと見つめる。
「珠に封じられた記憶は、『整理され、安定化』されています。もし、それらの珠の記憶を、もんろさんが次々と共鳴し、吸収できれば…彼女の中の無秩序な『借り』の海に、一時的であれ、『秩序』と『枠組み』を与えられるかもしれません。壊れかけた器に、補強材を入れるようなものです」
「でも、それで傷は?」
「傷そのものは治りません。が、漏出を一時的に抑え込める可能性があります。そして、珠の記憶が、彼女の中の『借り』を覆い、固定することで、傷口から漏れる『断片』も、珠由来の、より安定した『記憶』に置き換わる…かもしれない」
それは、危険な賭けだった。珠の記憶を吸収すること自体、もんろに大きな負担をかける。しかし、何もしなければ、彼女は確実に崩壊する。
「…時間は?」 私は聞いた。
「分かりません」 結衣の声は重い。「数日…いや、もっと短いかもしれない。傷口の漏出が進めば、彼女の体は、文字通りバラバラになりかねない」
その時、ベッドでもんろの体が、かすかに動いた。彼女の目が、かすかに開く。焦点は合っていない。高熱による錯乱状態だ。
口が動く。出てくる声は、もんろのものではない。
『…せんじょうでは…きずなど…あたりまえだ…』
低く、渋い、どこか達観した女の声。楓の口調だ。
もんろの表情が、一瞬、楓のもの——戦場を見つめる巫女の、冷徹で哀しい面差し——に変わる。左肩の傷口から、ほんのり、藍色の武士の頬当ての影のようなものが浮かび上がり、すぐに消える。
次に、声が変わる。より落ち着いた、知的で澄んだ女の声。
『…いたみも…きおくのうち…』
『…おぼえて…おきなさい…』
萩だ。図書館司書として、あらゆる記録を残すことを使命とする者。痛みさえも、記録すべき「記憶」の一部と見なす。
もんろの眉間に、深い思索の皺が寄る。傷口から、かすかに、巻物のインクの黒いしみのような模様がにじむ。
そして、今度は、老いた、しかし情熱的な男の声。
『…いろのない…きず…』
『…それは…いちばん…さびしい…』
風間梧朗、老画家だ。色を失った世界の絶望が、声ににじむ。
もんろの目(こげ茶色)に、涙がにじむ。傷口から、ほんのかすかな、パレット上の絵の具のにじみのような、かすかな多彩な染みが浮かぶ。黄色、青、赤…しかし、すぐに灰色に濁る。
無数の声。無数の人格。無数の痛み。それらが、もんろという一つの器の中で暴れ、傷口という裂け目から、彼女自身を引き裂こうとしている。
「もんろ! もんろ、聞こえるか?!」 私は、彼女の顔の両側に手を当て、必死に呼びかける。「しっかりしろ! お前は、もんろだ! 赫映もんろだ!」
彼女の瞳が、かすかに揺れる。無数の他人の影の奥で、かすかな、彼女自身の光が、もがいている。
口が、震えて動く。今度の声は、かすかで、ひび割れていて、しかし、確かに彼女自身の声に近い。
『…わ…たし…は…』
『…まだ…おわれ…ない…』
一呼吸。彼女の目に、涙が溢れる。
『…やくそく…が…』
『…ある…から…』
約束。私との約束。本当の空の色を見るという約束。
その言葉に、私の胸が熱くなった。彼女は、無数の他人の記憶に飲み込まれ、肉体は崩壊の危機に瀕していても、まだ、あの小さな約束を、唯一の「自分」のよりどころとして、かすかな灯のように抱きしめている。
私は、彼女の、傷のない方の右手を、しっかりと握りしめた。その手には、画家の筆だこ、老女の関節の腫れ、様々な「借り」の痕跡が刻まれている。しかし、その手のひらの温もりは、紛れもなく、今ここに横たわる、一人の少女のものだ。
「…わかった」 私は、かすれた声で言った。「約束を、果たす。必ず」
私は、結衣を見た。
「全部集める。108個の記憶の珠を、全て。そして、お前を…」
言葉に詰まる。元に戻す? 彼女には「元」の顔などない。しかし、せめて、この崩壊の危機から救い出し、彼女が「赫映もんろ」として、一日でも、自分の意志で生きられる状態にしたい。
「…元の、お前…いや、お前らしい姿に、戻してやる」
ベッドでもんろの口元が、かすかに、ほんのわずかに緩んだ。それは、痛みと熱に浮かされた、かすかな笑みだった。
『…もとの…わたし…って…』
彼女の声は、夢見るようだった。
『…どんな…かお…だったんだろう…』
その問いは、あまりに切なく、胸を締め付けた。彼女自身、自分が本来どんな顔をしていたのか、知らない。知る由もない。
医師が、ようやく縫合を終えた。だが、ガーゼを当てても、すぐに血と、かすかな多色の滲みがにじんでくる。傷口自体が、小さな、異形のパレットのようだ。赤い血に混じって、黄色、茶、藍、ピンク…かすかだが確かな色の粒が、にじみ出ている。彼女の体内で、「色」そのものが暴走し、物理的に排出され始めているのかもしれない。
結衣が、部屋の隅の机に大きな地図を広げた。そこには、無数の印がついている。記憶の珠の、可能性のある場所だ。
「時間がない」 結衣の声は、緊迫している。「一番近いのは…ここ」
彼女が、長野県の、深い山の中を指さす。
「第52代巫女、『雪』の記憶の珠。彼女は、江戸時代後期、大飢饉と大寒波の時代を生きた。多くの凍死者の記憶を封じたと言われる」
結衣は、地図から顔を上げ、私ともんろ(昏睡しつつある)を見る。
「すぐに動くべきです。もんろさんの傷が、次の珠の共鳴に耐えられるか…わかりません。が、待っていても、状況は悪化する一方です」
私は、うなずいた。もんろを、できるだけ楽な姿勢でベッドに固定する。キャンピングカーに運び込むための準備だ。
「医師は?」 私は、純心会の医師を見た。
「同行します」 医師は、静かに言った。「途中での急変に備えて。ただし、本格的な治療はできません。あくまで、延命措置だけです」
それで十分だ。いや、それしかない。
私たちは、もんろを担架で慎重に運び出し、キャンピングカーに乗せた。医師が、点滴と簡易モニターを取り付ける。もんろの呼吸は浅く、速い。額は熱い。左肩の包帯は、既にほんのり色づいた滲みで染まっている。
結衣がエンジンをかける。車が、まだ暗い東京の路地を走り出す。次の目的地へ。長野の山へ。
私は、もんろの傍らに座り、彼女の手を握り続けた。彼女の手のひらは、時折、痙攣する。夢の中で、無数の他人の人生を、追体験しているのだろう。
「…頑張れ、もんろ」 私は、そっと呟いた。「あと少しだ。108個全部、見つけてやる。そして、お前に…本当の色を見せてやる」
窓の外、東の空が、かすかに明るみ始めている。しかし、相変わらず、深い灰色の雲に覆われている。本当の朝焼けの色は、まだ遠い。
キャンピングカーは、高速道路に入り、西へ、山へと向かって加速していく。もんろとの、そしてこの国に巣くう千年の呪いとの、終わりの見えない戦いは、まだ続く。




