約束の空
計画は、危険で稚拙なものだった。
監視官としての権限を悪用し、システム内に偽の「特別心理評価試験(屋外環境適応テスト)」の予定を作成する。実施時刻は、早朝4時30分——夜勤と日勤の警備が交代する最も手薄な時間帯。実施場所は、施設本館の屋上。通常の“放風”エリアより一段高い、大型空調設備と貯水タンクが設置された管理区域だ。ここは通常、警備員の定期巡回すらまばらで、監視カメラも主要通路のみ。タンク裏は完全な死角になる。
純心会からの密かな助けもあった。結衣がUSBメモリに仕込んでいたツールの一つが、施設の監視カメラループ映像を、最大10分間、過去の静止画で置き換えるプログラムだった。タイミングさえ合えば、誰にも気づかれない。
私は、前夜からほとんど眠っていなかった。計画の細部を頭の中で何度も繰り返し、リスクを計算する。失敗すれば、監視官の職を失うのは確実。最悪、国家機密漏洩の容疑で逮捕されるかもしれない。もんろの処遇も、さらに厳しいものになる。
それでも、やらなければならない。約束した。
『本当の空の色を見せて』
彼女が、檻の中で、灰色の空を見つめながら、ほんの一瞬だけ見せた、あの“希望に満ちた”表情を思い出す。あの表情だけは、借り物ではないように見えた。彼女自身の、かすかな憧れ。
午前4時25分。
私は、もんろの部屋の前で、二名の夜間警備員に指示を出した。偽造した電子命令書をタブレットで提示する。
「特別心理評価試験を実施する。対象を連行する。試験内容は機密だが、屋外環境への適応力を計測する。付き添いは私一人で十分だ」
警備員は、命令書と私のIDを確認し、少し怪訝そうな顔をしたが、異議は唱えなかった。システムに登録された正式命令だ。彼らはドアを開け、中にもんろの姿を呼びかけた。
もんろは、既に起きていた。ベッドの端に座り、待っていたように見える。彼女は、私が前日、こっそり仕込んだ私服(灰色のパーカーとシンプルなスラックス)に着替えていた。顔には、ごく普通の不織布マスク。帽子もかぶっている。外見は、ごく普通の、少し病弱そうな若い女性だ。
しかし、その目だけは、マスクの上で、私にはっきりと見えた。
期待。それに、どこか子どものようなわくわく。
彼女は、私の計画を、察知していたのか? それとも、ただ、久しぶりの“外出”に興奮しているだけか。
「行きましょう」 私は、できるだけ平静を装って言った。
もんろは、軽くうなずき、立ち上がった。警備員が通路を開ける。私たちは、エレベーターで最上階へ向かう。エレベーターの中は、重苦しい沈黙だ。もんろは、床のわずかな傷を見つめている。彼女の生体データ(私のグラスが捉えている)は、心拍がわずかに上がっている。緊張しているのか、それとも、期待からか。
最上階でエレベーターを降り、非常階段へ。ここから屋上へのハッチを開ける。鍵は、私が事前に複製しておいた。
冷たい朝の空気が、階段に流れ込む。もんろは、その風に、思わず目を細めた。そして、深呼吸を一つ、深く吸い込んだ。
「…外の空気」 彼女は、囁くように言った。「施設の中とは、匂いが違う」
「ああ。湿り気と、排気ガスと…それに、朝の匂いが混ざっている」
私が先にハッチを開け、屋上へ出る。もんろが続く。そして、彼女が屋上のコンクリートの床に足を踏み入れた時、その体が、ほんの一瞬、小刻みに震えた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、頭上を見た。
まだ暗い。しかし、東の空は、濃い灰色から、わずかに明るい灰色へと変わり始めている。星はほとんど見えない。低く垂れこめた雲が、ぼんやりと光を帯びている。
「ここへ」 私は、貯水タンクの陰にある、比較的平らな場所へと彼女を誘導した。ここなら、下からも、他のビルからも見えない。監視カメラのループ映像作動開始の合図(私のスマートフォンの微振動)を確認。10分のタイマーが始まった。
もんろは、私の隣に腰を下ろした。コンクリートの冷たさを感じる。彼女は、マスク越しに、ゆっくりと息を吐く。白い息が、かすかに舞う。
「…雲は、なぜ灰色なんですか?」
彼女が、ふと尋ねた。子どもが空を見上げて質問するような、素直な口調だ。
「…雲そのものは、実は白い。いや、無色に近い。ただ、今は夜が明ける前で、光が足りない。それに、CPDSの影響で、君の目には、それが灰色の濃淡にしか見えない」
「鳥は、どうやって仲間の顔を見分けるんですか? みんな、灰色に見えるのに」
「…鳥は、人間ほど顔の詳細で識別しない。形や模様、動き、鳴き声で判別する。色も、彼らには見えているかもしれない。CPDSは人間の病気だからだ」
「風には、色がありますか?」
その質問に、私は少し考えた。
「…直接的には、ない。でも、風が運ぶものには、色がある。春の風なら花の香りと共にピンクを、海風なら潮の香りと共に青を連想させる。それは、記憶や感覚との結びつきだ」
もんろは、私の答えを、一言一言、じっと聞いていた。うなずくように、小さく首を動かす。
「尚さんは、たくさん、知っていますね」
「…それは、君が知らないだけだ。君は、ずっと『借り』の世界にいた。本当に、自分の目で見て、肌で感じてきたことが少なすぎる」
もんろは、無言で、東の空を見つめた。雲の切れ間から、ほんのりと、鈍い光が漏れてきている。夜明けが近い。
「尚さん」 彼女の声が、静かに響く。「本当の空は…青いんですよね。深くて、遠い青色で」
「…ああ。晴れた日は。今日は曇っているから、灰色がかった白か、薄い水色に見えるかもしれない。夕焼けなら、赤やオレンジに染まる」
もんろは、長い間、沈黙した。彼女の生体データは、比較的安定している。混沌度は66%。
「でも…」 彼女は、かすかに震える声で言った。「私は…青色を、借りたことがありません」
私は、彼女を見た。
「誰の記憶にも…『本当の青』が、ないんです」 彼女は、自分の手のひらをじっと見つめる。「借りた色は、どれも、少しずれている。記憶の色だから。鮮やかすぎたり、褪せていたり、別の色と混ざっていたり…。桜のピンクだって、私が借りたのは、『懐かしい春の日』という感情に着色された、ぼんやりしたピンクです。本物の、冷たくて、少し儚い桜の花びらの色じゃない」
彼女の目に、涙がにじんでいる。マスクの上で、目頭がほんのり赤くなっている。
「空の青なんて、誰も、正確に記憶していない。ただ『青かった』という感覚だけ。だから、借りようがない。…私は、生まれてからずっと、借り物の、歪んだ色の世界で生きてきた。本物の色を、一度も見たことがない」
その言葉の重みに、私は息を詰まらせた。彼女は、色さえも、常に“他人の記憶を通した歪んだコピー”でしか知らない。自分の感覚で、直接、色を知覚したことがない。
東の空が、だんだんと明るくなる。深い灰色が、薄い灰色へ。雲の縁が、かすかにシルエットを浮かび上がらせる。太陽は、まだ地平線の下だが、その光が、大気を通過し、拡散して、闇を押しのけつつある。
もんろは、ゆっくりと、マスクに手をかけた。
「…いいですか?」 彼女は、私を見る。
私は、一瞬ためらった。顔を曝すリスク。しかし、この場所では、彼女以外に誰もいない。私は、ゆっくりとうなずいた。
もんろは、マスクを外した。
能面も、シリコンの“皮膚タイツ”もつけていない、生の顔だ。朝もやの中、その顔は、相変わらずかすかに“揺らいで”いる。しかし、今、その表情には、これまでに見たどの“モード”とも違う、深い切望が浮かんでいる。それは、演じたものではなく、彼女の内面から滲み出た、紛れもない感情だった。
彼女は、顔を完全に上に向けた。目を大きく見開き、朝焼けの始まる東の空を、一ミリも逃すまいと、貪るように見つめる。
その時、微表情分析グラスが、異常な数値を表示した。
混沌度:66% → 63%
急激な下降を確認
彼女の集中、あるいは、この“本物の光景”を直視すること自体が、彼女の中の“借り”の渦を、一時的に鎮めたのか?
光が強くなる。雲の間から、太陽の最初の鋭い光の筋が、地上に向かって伸びてきた。もんろの顔に、その微かな光が当たる。
彼女の右目(星空のそばかすがある側)から、一滴の涙が、ゆっくりと、頬を伝い落ちた。
私は、息をのんだ。
その涙が、朝の光を浴びて、かすかに、しかし確かに、天青色にきらめいているように見えた。
CPDSの世界では、涙でさえ灰色だ。しかし、この一滴は、違う。ごく薄い、しかし紛れもない、水を思わせる透明な青みを帯びていた。まるで、彼女の体が、外部からの“借り”ではない、自分自身の内側から、ごく微量の“色素”を生成し、涙と共に排出しているかのように。
もんろは、その涙に気づいていない。ただ、空を見上げ続けている。その瞳に、灰色の空が映っている。しかし、その表情は、深い感動に満ちていた。たとえ灰色にしか見えなくても、これは、“借り”ではない、自分自身の目で見た、リアルな朝焼けなのだ。
私は、ポケットから、極小のナノサンプラーを取り出した。これは、生体サンプルを瞬時に採取・密封する、監視官用の装備の一つだ。ごく素早く、彼女の頬を伝う涙に触れ、一滴を採取する。彼女は、それに気づかない。
サンプラーをしまい、私も空を見上げる。太陽の光輪が、雲の端を金色に縁取る。本当なら、それは美しい金色の光のはずだ。しかし、私の目には、明るい灰色のグラデーションにしか見えない。
それでも…。この瞬間、彼女と共に、この灰色の夜明けを見ていること。それだけで、胸の奥が、何か温かいもので満たされるような気がした。
その時だ。
ピーッ!ピーッ!
私のスマートフォンと、もんろの部屋に設置された非常ブザーが、同時にけたたましく鳴り響いた。監視カメアループの時間切れか、それとも、別の何かでバレたか。
“尚監視官、直ちに対象を連れ戻せ。繰り返す——”
上司・伊達課長の声が、私のイヤホンから、冷たい金属音のように響く。
もんろが、はっと我に返ったように私を見る。彼女の目には、一瞬、恐怖が走るが、すぐに、覚悟のような表情に変わる。
「行きましょう」 彼女は、静かに言い、マスクを素早くつけた。
私たちが非常階段へ駆け込むと、下から、複数の足音が駆け上がってくるのが聞こえる。警備員たちだ。
階段の途中で、私たちは行く手を阻まれた。武装した警備員四名。そして、その背後に、鉄のような表情の伊達課長が立っている。
「尚」 課長の声は、氷のように冷たい。「何の説明だ?」
「…特別心理評価試験を実施中でした」 私は、できるだけ平静を装う。「命令書の通りです」
「命令書?」 課長は、鼻で笑った。「システムに、そんな命令は存在しない。お前が作成した偽物だ。監視カメラも、一時的にだが、映像ループに細工されていた。よくやったな、ここまで手の込んだことを」
もんろは、私の少し後ろに立ち、うつむいている。警備員たちが、彼女を取り囲む。
「対象を部屋に戻せ」 課長が命じる。警備員がもんろの腕を掴み、階段へと連れて行く。もんろは、抵抗せず、振り返ることなく、下へと消えていく。
課長が、私に一歩近づく。
「お前、何を考えている? 監視対象と、夜明けの屋上でデートか? ロマンチックだな」
「…それは」
「黙れ」 課長の声が低くなる。「お前は、停職だ。今すぐ、全てのIDカード、装備、そして、あの銀色のスーツケースを、私に渡せ。自宅待機だ。外出も、あらゆる通信も禁止。尋問は後日だ」
私は、無言で、ポケットからIDカードを取り出し、渡した。スマートフォン、微表情分析グラス、そして、腰のホルスターにあった“桜安”の拳銃も。最後に、オフィスに置いてあった銀色のスーツケースの鍵。
「あの対象に、情が移りすぎたな、尚」 課長は、私を見下ろすような目で見つめた。「お前の妻の件も、気の毒だが、それとこれは別だ。お前はプロだ。プロであることを忘れた」
彼は、警備員にうなずく。
「監視官尚羅夢を、施設から連れ出せ。私の目の届く範囲から、消えてもらう」
警備員二人が、私の両脇に立つ。私は、抵抗せず、彼らに導かれて階段を下りる。エレベーターで一階へ。正面玄関へと連行される。
朝の光が、施設のコンクリートの壁を、相変わらず灰色に照らしている。
車に乗り込む直前、私は、ふと上を見上げた。もんろの部屋の方角を。窓は、防弾ガラスで、何も見えない。
その時、私の私用端末(没収を免れていた、早織のタブレット)が、微かに震えた。施設の内部通信システムから、極めて短い、テキストメッセージが届いていた。送信元は不明だが、内容は明らかだ。
『あの空、きれいでした。ありがとう。』
私は、そのメッセージを、何度も読み返した。そして、そっとタブレットをしまい、車の窓から遠ざかっていく灰色の施設を見つめた。
胸のポケットで、涙のサンプルが入ったナノサンプラーが、微かに温かい。まるで、あの一瞬の、天青色の光を、そのまま閉じ込めたかのように。
停職。監視から外される。これで、もんろに近づくことは、ほぼ不可能になる。
しかし、彼女の言葉が、心に残る。
『ありがとう』
そして、あの一滴の、色を持つ涙。
全てが終わったわけではない。むしろ、本当の戦いは、これからだ。
車が走り出す。私は、窓の外の、灰色の世界を見つめながら、拳を握りしめた。
約束は、まだ、果たされていない。




