第二十話 ピッツベルゲン山脈の麓
勇者リールはそれほど遠くはないと言っていたが、ピッツベルゲン山脈までの道のりは、俺にとってはかなりの距離だった。
別に身体が小さくなったからではない。
馬車で五日も掛かるのを遠くないと言うのなら別だが。
正直言って王都タゴラスからラブリースの町までより余程遠かった気がする。
もっともルークの森を抜けず、普段、旅人が通る迂回路を使っていたら、その間はもっと遠かったのかもしれない。
「今夜も教会で泊まりかの。さすがに少し堪えるの」
ミーモさんはげっそりしたって顔だったが、それを言うならエルフのロフィさんの方がそんな気持ちだろう。
彼女はこれまでルークの森を出たことさえなかったようなのだ。
「弱音を吐くな。アリス殿の境遇を思えば、何のこともあるまい」
カロラインさんはそう言うが、俺の方がもう教会はいいかなって思ってしまう。
道も細く、整備されていないからか馬車の揺れも酷い。
教会の固いベッドでは疲れが取りきれない気がしていた。
「もう少しです。明日には着くはずですから」
リールさんの言葉を信じるしかなかったが、これではこれから訪ねる人が魔人になっても、すぐに滅ぼすことなんてできないんじゃないかと思う。
それにしても辺鄙なところだなって俺が思っていると、ここが隠れ住むのに適した場所だってことをカロラインさんが教えてくれた。
「なるほど、考えたな。この先は西と北はピッツベルゲン山脈の険しい山並みだし、南はエルフの棲むルークの森だ。この先に向かう人などいないであろうし、ここから何かをしようと思ったなら、東のラブリースの町へ向かうしかないわけか」
どうもそう言うことらしい。
魔人にならなかった魔法の適性の持ち主が、もし気が変わって魔人になったとしても、ラブリースの町へ向かう途中で勇者のリールさんに捕捉されるって寸法だ。
「どんな方なのでしょう?」
プレセイラさんは魔人にならなかった人に興味があるらしい。
いや、俺を救う希望の鍵だと考えているのかもしれなかった。
「名前はクリィマと言います。驚くほどの美貌の持ち主です。それこそ空恐ろしいほどの」
リールさんはそう言って俺の顔を見る。
どうやらそのクリィマとか言う人は、俺に似ているのかもしれなかった。
「いよいよ見えてきましたね。あの丘の向こうです」
ピッツベルゲン山脈の山塊が近づき、山道に馬車の速度が落ちてきたところで、リールさんが街道の先を指さした。
街道とは言ったものの道幅はかなり狭く、小径と言った方が適切かもしれない。
「風光明媚な場所を選んで住んでいるのね。空気も澄んで人間の臭いもしないし、暮らしやすいかも」
エルフのロフィさんはそんなことを言うが、人間の臭いがしないのは住んでいる人が少ないからだろう。
風光明媚って言えば聞こえがいいが、要は人の住んでいない山奥ってことなのだ。
山から張り出したような丘の下を通って、馬車がその向こう側へ回り込むと、リールさんが先を指さして告げた。
「あそこです」
彼女の指さす先にはただ木々が並んで生えているだけで、人が住んでいる気配はない。
「えっと。どこですか?」
俺の察しが悪いのか、はたまた身長が低くて視線が通っていないのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。
「いったいどこのことかのう?」、「えっと。どこにあるのかしら?」
ミーモさんはいいとして、目が良いはずのエルフのロフィさんまでそう言って建物を探していたから、俺だけが見つけられないわけではないようだった。
「あそこですよ……、ああ。そう言えば見つからないようにしているのでしたね」
突然、リールさんが思い出したように言って、何やら仕掛けがあるようだ。
「おーい。クリィマ! 私だ。リールが訪ねて来たぞ。客人も一緒だから魔法を解いてくれ!」
大声に驚いていると、俺たちの目の前の空気が動いたように見えた。
「えっ?」
今まで何もなかった木々の間に立派な屋敷が出現し、俺は思わず声を漏らした。
「魔法ですよ。隠蔽の魔法。知らずに誰かがここを訪れても、あの人の住まいが見つかることはありません。私は別ですが」
リールさんは笑顔で説明してくれた。
「隠蔽の魔法。そんな魔法があるのか!」
カロラインさんが恐れに身体を震わせるって様子でそう口にする。
「まったく気づかなんだ。これでは手練れの剣士でも、背後から近寄られてグサリとやられるかもしれぬの」
ミーモさんも薄気味悪いって顔だ。
二人ともここまでの道中、これから会う相手に特別な感情は持っていないって態度に見えた。
でも、やはり魔人になる可能性のある人だと思うと、どうしても不安が先に立つのかもしれない。
「そうですね。でも、私には魔法は効きません。たとえ魔人が魔法を使ってきても、私には何の効果も及ぼさない。それが勇者である私に神が与えた力ですから」
リールさんは何気ない様子でそんなことを口にした。
「待って。勇者がそんな力を持っているなんて初めて聞いたわ。それって人間なら誰でも知っていることなの?」
ロフィさんが聞き咎めて皆に尋ねる。
「いや。そのようなこと、聞いたことはないの」
「残念ながら私も初耳です」
「二人も聞いたことがないのか? かく言う私もそうなのだが」
もちろん俺は聞いたことがあるはずもないから、誰も知らないことだったらしい。
「それこそ秘密にしておくべきことではないのかの?」
ミーモさんが俺を見ながら言って、俺と目が合ったことに気づくと慌てて視線を外した。
確かにそれは重要な情報だと俺も思う。
少なくとも魔人に知られていなければ、魔法が効果を発揮せず驚く魔人に攻撃を仕掛けることも可能だろう。
「いいえ。良いのです。クリィマも知っていますし、そうしてもらった方が良い効果を生むかもしれませんから」
リールさんは何てことはないって様子で、わずかに笑みさえ浮かべて答えた。
彼女はおそらくもう魔人を生み出したくないと考えているのだろう。
魔人が持つ最大の力である魔法が効かないことを教えることで、クリィマさんや俺が魔人になっても自分に斃されるだけだと悟らせる。
そう彼女は考えているような気がした。
「さあ。せっかくクリィマが魔法を解いてくれたのですから、屋敷へ入りましょう。私も久しぶりですから、早く会いたい気持ちもありますし」
リールさんはそう言って俺たちを玄関へと導く。
俺たちが前まで行くと玄関は音もなく開き、俺は元の世界の自動ドアを思い出していた。
「クリィマといいます。よろしく」
そう言って俺たちと挨拶を交わしたのは、紫色のウェーブの掛かった髪を持つ美しい女性だった。
髪と同じ紫色の瞳からは神秘的な印象を受ける。
「久しぶりですね。相変わらず元気そうで良かった」
リールさんとは古くからの仲間って感じで、彼女はクリィマさんにそう話し掛けていた。
「ええ。おとなしくしていますよ。リールの手を煩わすわけにはいきませんから」
クリィマさんも笑顔でそう返すが、その内容は実はかなり物騒なものなのかもしれなかった。
彼女は素性の分からない俺たちも含め、歓待してくれた。
部屋のソファを勧め、皆にお茶を振る舞ってくれる。
「勇者様は別として、私たちにまでそのようなお気遣いは結構ですのに」
リールさんの家でお茶をご馳走になった時と同様、プレセイラさんがしきりと恐縮している。
飲食が必須ではないこの世界では、お茶を振る舞ってもらえるって、どうやらかなり歓迎されているってことらしかった。
「ところで、こんな所まで訪ねてくれたのは、この子の、アリスさんのことですか?」
皆にお茶が行きわたると、クリィマさんは単刀直入に尋ねてきた。
彼女は俺が魔人候補であることをひと目で見抜いたようだ。
「ええ。彼女を見て、すぐにあなたを思い出しました。あなたに会わせるべきだと、そう考えたのです」
クリィマさんの問いにリールさんは答える。
クリィマさんの美しさは輝くようで、俺にはやはりあの女神に似ているように思えたから、ほかの人から見たら、俺とクリィマさんは似ているってことになるのかもしれない。
「そう……ですか。そしてアリスさんにも私と同じ選択をしてほしい。リールはそう思っているのですね?」
手にしていたティーカップをソーサーに戻し、彼女は飴色のお茶を眺めながら言った。
俺は彼女が勇者の顔を見ずに答えていることが、何となく気になった。
その姿は勇者の考えに諸手を挙げて賛成って感じにはどうしても見えなかったからだ。
「そうです。私はもう魔人と戦いたくありません。あんな思いは二度と御免なのです」
リールさんの言葉に、皆は衝撃を受けたようだった。
「勇者様。今、何とおっしゃいましたか? まさか魔人と戦うことをおやめになるのですか?」
プレセイラさんがリールさんを問い質す様子を見せると、カロラインさんも、
「そんな! 勇者様が魔人と戦うことを放棄されたら、誰がこの世界を守るのです?」
続けてそう口にする。
ミーモさんも驚きに言葉を失っていたし、エルフのロフィさんも、
「大変だわ。エフォスカザン様にお知らせしないと」
そう言って落ち着かない様子だ。
俺からしたらリールさんは「魔人も人間だ」と言っていたから、それは殺したくないよなって思う。
でも、この世界の人からしたら災厄そのものである魔人と戦い、滅ぼしてくれる勇者が戦うことをやめたら、どれ程恐ろしいことが起こるかって考えるのだろう。
「私はもう人をこの手に掛けたくはないのです。その方法を見つけたのですから」
だが、勇者リールは皆を見回すと、はっきりとそう言い切った。




