5話 侍女のリリィ
『お前まで溺れ死ぬ危険を考えなかったのか』
湖でのこと、あれから、お父様にはこってり叱られました。その様子は鬼気迫ると言った様子で、面と向き合うと形容しがたいほど恐ろしかったです。
『もうこんな真似はしないと、誓ってくれ』
そう口にして、私を抱擁する父の手は、あの日と変わらないぬくもりでした。少し前のことのはずなのに、そのことが、すごく懐かしく思えて、それで。
『そう言われて、ご本を持ち出すのをやめる子でしたか?』
私は、照れを隠すように、そんな言葉を返しました。お父様はそんな私に、すっかり毒気を抜かれたように、疲労を安堵に変えたような笑みを浮かべたのです。
それから、風邪をひくといけないからと、私たちは公爵邸に引き返しました。
幸いにも、と言ってよいのでしょうか。
あの場には王子たちが居合わせましたので、今日の夜会の欠席で醜聞が広まることは無いと思います。
改めて考えると、マイナス収支のような……。
(……やっぱり。余命が削れてる)
公爵邸の浴場で湯浴みをしながら、私はアカシックレコードを開いていました。
水に濡れる心配はしていません。
むしろ、水に濡れて機能しなくなるなら、それはそれで都合がいいです。
もっとも、希望的観測に過ぎませんでしたが。
――6月28日。
――断罪と称して、処刑される。
――行年 16歳。
実体のない日記は現実の水の干渉を受けることなく、ただそんな未来を示していました。
最初の予言が8月15日。
前回の予言が7月15日。
そして今回が6月28日。
死期は刻一刻と迫っています。
時間の流れだけでなく、向こうからも。
「どうすれば、良かったのよ」
呟いた言霊が、胸に落ちる。
弱音だと、すぐに気づけた。
たった二度うまく行かなかったくらいで、情けない。
「……今回は、だめだった。でも、次こそは」
掴み取る。切り開く。
私だけの未来を、絶対に。
*
今日はもう暖かくして寝なさい。
そう言われておとなしく寝る私だと思いました?
残念でした。机にアカシックレコードを広げて日記を読み進めるつもりです。
「お嬢様、いらっしゃいますか?」
「ふひゃぁっ!? な、なに!?」
椅子に腰かけよう押したところで、扉の向こうから声がかけられました。良く澄んだ、淡々とした口調の声の持ち主。
侍女のリリィですね。
「失礼致します。お嬢様、お手紙でございます」
「私に?」
「左様でございます」
頭を下げて手紙を差し出したリリィから白い封筒を受け取る。最悪の予感がして、封蝋を見ると、王家のもの。
う、やっぱり。
となると、差出人は……。
(あら? アルフレッド第一王子殿下ではなく、スヴァルト第二王子殿下から?)
少し、予想外でした。
が、安堵したのもまた事実。
「ありがとうね、リリィ」
「……もったいないお言葉でございます」
手紙を受け取り、リリィにお礼を口にすると、彼女はまた頭を下げました。先ほどとぴったり同じ角度、同じ速さ、同じリズムで。
そんな彼女は今年で20。メイド歴13年。
私が生まれる前から公爵家に仕えてくれています。
「ねえ、リリィ。少し聞いてもいい?」
「なんなりとお申し付けください」
付き合いの長さと、年の近さもあり、リリィは私の数少ない心許せる間柄の人間でした。
ですから、少し頼りたくなったのです。
「リリィは、現実から目を背けたくなったことはある?」
抽象的な質問をした自覚はありました。
お父様や爺やなら、次の言葉は「何か悩みがあるのかい」ですが、きっとリリィは違います。
「ございます」
リリィの寄り添い方は、少し違うのです。
手を差し伸べてくれるというより、迷っているときに黙って手を引いてくれる。そんな安心感があるのです。
「それは、克服できたの? ずっと、悩んだまま?」
「それが何をさすかにもよりますが、もし、一番つらかった時のことだとするのであれば、『はい』、ですね」
「え、本当に?」
辛い現実を、乗り越えた人がいる。
それも、こんな身近なところに。
興奮したのが、見透かされてしまったようで、リリィは続きを語ってくれました。昔、絵本を読み聞かせてくれた時のように、穏やかな声色で。
「お嬢様はご存じないやもしれませぬが、旦那様に雇われる前、私はある子爵家に仕えておりました」
「え? そうなの?」
リリィは短く肯定して、うなずきました。
どんな因果で公爵邸に雇われるようになったのかも気になりましたが、私が一番強く思ったのは。
「そっか、うちに来てくれて、ありがとうね」
リリィとあえて、良かった。
そんな簡素な感想でした。
「お礼を言うべきは私の方です、お嬢様」
表情は動いていないはずですが、彼女が笑ったんだと、私は分かりました。
「このように、お嬢様は私の表情を読んでくださる」
「え?」
口にするリリィの表情は、とても穏やかでした。
ですが、私には話の意図が見えてきません。
「先の話ですが、子爵家からは追い出されたのです。私が7つの頃でした。子爵様の言葉は、今でも一言一句違えることなくそらんじられます」
「……子爵様は、なんて?」
「『人間味が無くて気味が悪い』と」
「ひどい、ね」
「ええ。ですが不思議と怒りは湧かず、当時の私はただなんとなく『ああ、さもありなん』と思っていたのを、おぼろげに覚えています。
表情も感情も読めず、恨みを買っているかも分からない。まあ、恐ろしいことでしょう。愛嬌を振りまくのも、本質は同じはずなのですが」
リリィは「まあ、そんなだったので、解雇されて、路頭に迷う羽目になったのですよ」と、あっけらかんと続けました。
「辛く、なかったの?」
「それはもう、辛かったです。ですが」
そこでリリィは言葉を止めました。
リリィの顔を見ようとして、気づきました。
私はいつの間にか顔を落としていて、リリィから顔を背けていたことに。
そんな私に、リリィは微笑みました。
泣く子に語り掛けるように、穏やかに。
「おかげで、こうしてお嬢様と出会えました」
何かが、胸の底からこみ上げてきました。
熱い、熱い何かです。
鼻の奥が、ツンとして、喉がきゅっとしました。
「表情が乏しいと悩むことはありますが、お嬢様がいてくださるだけで、生きていていいんだと、今は思えるのです」
思えば、リリィは公爵家に仕える身でありながら、いつも私に味方してくれていた気がします。
庭に本を持ち出した時は、私が見える位置で仕事をしてくれていました。
私がダンスの授業をズル休みしたいときは匿ってくれました。
ピアノの練習から逃げ出した時は、お母様が近づいてくるのをこっそり教えてくれました。
「大丈夫ですよ、お嬢様。お嬢様のことを気にかけてくださる方は、大勢います。辛いときは、この屋敷の全員がお嬢様の助けになります」
「……そっか。そう、だよね」
「ええ」
もう、弱気な思いは振り払えた。
リリィに話してよかった。
(今回は、だめだった。でも、次こそは!)
掴み取ってみせる。切り開いてみせる。
私たちの未来を、絶対に。