279
──時は遥かに巻き戻り、5の月の5日。死にかけのラピスがリリィに拾われて、9日が経った日である。
この9日間、ラピスはベッドの上から殆ど動けなかった。それだけ酷い怪我だったのだ。
それでもリリィの魔法がかけられた水のおかげで、通常の何十倍も速度で快復していく。
命を救われ怪我の治療に加え、衣食住の世話まで受けて、もうリリィさんには頭が上がらないな、とラピスは考えていた。
そんなこんなで本日。ラピスにベッドから下りる許可が出た。
そーっと床に下り立つ。筋力が低下しているかと思ったがそんなことはなく、今まで通り普通に歩けた。……まァ、今まで通りと言ってもその『今まで』の記憶がないのだが。軽いブラックユーモアである。
「……意外と歩けるもんだね」
「あ、その辺は魔法でフォローしといたわ。筋力の低下とか、元に戻すまで時間がかかっちゃうしね」
「……なんでもありですね、魔法」
「んなことないわよ? 例えばラピスちゃんの傷、一瞬で治すこともできたけど、それだと傷痕が残っちゃうのよ。女の子だし、そんなの嫌でしょ? ラピスちゃん可愛いし」
「か、からかわないでください!」
ラピスは顔を真っ赤に染める。可愛いと言われることに慣れていないのだ。
リリィは「本気なんだけど……」と小声で呟く。幸い、気が動転しているラピスの耳には届かなかった。
寝間着を脱いでメイド服に着替える。この数日、着替えや入浴も手伝ってもらっているので、リリィの前に裸を晒すことにそこまでの抵抗はない。それでも照れはあるので、そそくさと急いで着替えた。
軽くストレッチして身体の動きを確認。多少の違和感はあったが、充分に動く。リリィに背を向けて、左脚をよっと振り上げる。両手でしっかり掴むと、自分の頭より高い位置まで持っていった。
「! ラピスちゃん、身体柔らかいわね」
「ですね。ちょっとびっくりです」
「あたしは固いから羨ましいわ」
さりげなくリリィはラピスの前に移動する。スカートの中を覗こうとしたが、気づいたラピスが素早く脚を下ろした。
「リリィさん?」
「べ、別に覗こうとなんてしてないわよ?」
「……まァいいですけど」
覗かれてはいないのだから追及する気はない。さらっと流して、ラピスは部屋に意識を向ける。
9日前──ラピスが目覚めたときは綺麗に片づいていた室内だったが、今は見る影もない程に散らかっている。記憶はないが、なんだか身体がうずうずしてきた。
「リリィさん。箒と雑巾ありますか?」
「箒はあるけど……雑巾はどおだったかしら?」
「……じゃあいらない布でいいです」
箒を受け取るとラピスは手際よく床を掃いていく。床に置いてあるよくわからない物体はテーブルの上に乗せたり脇に捌けたりした。
「ラピスちゃん。掃除なんてしなくていいわよ。アイリスにやってもらうから」
「アイリスさんが誰だかは知らないけど、これからはわたしがやりますよ。メイド服も着てるし」
「……う~ん」
「お世話になるんだから、これくらい当然です。やらせてください」
ラピスに押し切られ、リリィは無理をしないことを条件に了承した。
ラピスは楽しそうに掃除を続ける。ものの1時間で、部屋は見違える程綺麗になった。なお、その間リリィは邪魔にならないようにベッドの上でボーッと見ているだけだった。
「──…よし」
「……凄いわね、ラピスちゃん。あたしがやるとなぜか部屋が散らかるのよね。だからしないようにしてるんだけど」
「……掃除はわたしがするから、リリィさんは手伝わないでください」
「ごめんね? ありがとう」
申し訳なさそうな顔でまず謝り、次いで茶目っ気のある笑顔でお礼を言う。その落差のあるコンボに、ラピスはクラっときた。
「ラピスちゃん?」
「な、なんでもないです! 次は洗濯しますね! 洗濯板はどこですか?」
赤い顔を見られないように、ラピスは慌てて話題を逸らす。と言っても、まるで見当外れのことを言っているわけでもない。
風呂に一緒に入るとき、リリィは脱いだ服を隣の物置的なスペースに投げ入れるだけで、なんらかの処理を施している様子もなかったのだ。掃除の話の件で、ラピスの中のリリィ像は完全に『家事ができない人』で固まっている。なのでどうせ洗濯もしていないだろうと考えるのは自然な流れだった。
「洗濯板? ……あったかしら?」
「…………今までどおしてきたんですか?」
「アイリス──友達の魔女がやってくれたわ」
「………」
ラピスの視線が冷たいものに変わった。リリィは慌てて言葉を紡ぐ。
「あ、で、でも、洗濯してくれる魔道具ならあるわよ!」
「まどうぐ?」
「簡単にゆうと便利アイテムね」
そう言うとリリィはベッドの上から下りて洗面所へと移動する。ラピスもついていった。
そこには樽よりも少し大きめの箱が鎮座していた。風呂に入れてもらうときに気にはなっていたが、結局なんだかわからなかった物体だ。
「これが洗濯機よ。中に洗濯物容れて、洗剤入れて、スイッチ押せば勝手に洗ってくれるわ」
「! 凄いこれ! え? こんな便利アイテムがあるのになんで洗濯しないんですか?」
「えっと……面倒くさ──気が向かない……から?」
「………」
ラピスの視線が冷たいものから氷点下のものに変わった。リリィはゾクッとして冷や汗を垂らす。
ラピスは言いたかったであろう文句をぐっと呑み込み、代わりに大きなため息をついた。
「……洗濯もわたしがするから。リリィさん。溜まってるやつ全部持ってきて」
「わかったわ。……あら? ラピスちゃん、今敬語じゃなかった?」
「……敬語使うの、なんか疲れるの。それに──」
ラピスは洗濯機を見て、リリィを見て、そしてあらぬ方向を見て──
「…………いや、なんでもない」
と言った。
言葉にはならなかったが、リリィは確かに自分の株が落ちたことを察した。
「…………持ってくるわね」
「お願いね」
一刻も早く株を取り戻そう。リリィはそう決意した。
これからしばらく一緒に住む予定の少女、それも途轍もなく可愛い女の子に嫌われるのは、リリィの本意ではないのだ。
両手いっぱいの洗濯物を持ってくる。ラピスは全部は入らないなと判断して、何回かに分けて洗濯することにする。
使い方を教わっていざ起動。ゴウン、と音を立てて洗濯機は回り出した。
「おおォ!」
ラピスは感動に打ち震える。その目はキラキラと輝いていた。
「…………か、可愛すぎる……」
「ん? リリィさんなんかゆった?」
「い、いいえ」
「そお?」
ラピスは視線を洗濯機に戻す。洗濯しているだけでここまで可愛い少女も珍しいだろう。
リリィは後ろから抱きしめたい衝動に駆られたが、意志の力を総動員して耐える。刹那的な感情で、ラピスに嫌われたくはないのだ。
「(……ヤバい。……ちょっと大変かも)」
こんなにも可愛い女の子と一緒に暮らす。
夢のような生活でもあるが、同時に生殺しでもある。リリィは未来を憂えてため息をついた。




