27 カスカード、フォンテーヌの森にて
がたがたと、馬車が揺れていた。
心地良い揺れに身を任せながら、以前フォンテーヌの森に行ったのはいつだったかなと考える。
12歳で大学に行くために王都に出てしまったから、それ以降は行っていない。…思い出した、9歳のときだ。
わたしがまだ心のない人形だった頃。
両親が、何を見ても興味を示さないわたしに美しいものを見せようと考えたのだった。
確かに、フォンテーヌの森は美しかった気がする。幼いながら、自然の雄大さというものに圧倒され、感動した記憶は…ある。
そして、それ以降わたしは自然科学なるものにも身を投じてしまったわけだが。両親の目論見は半分は成功したが、半分は失敗に終わってしまったわけだ。
以来、6年ぶりのフォンテーヌの森。きっと変わっていないだろう森を見て、わたしは何を感じられるだろうか。
――梨菜は、何を考えているのだろうか。
わたしは、隣ですやすやと寝息を立てている我が妹を横目でちらりと見た。
1時間ほどで、フォンテーヌの森の前に到着した。
跳ね起きた梨菜に早く早くと急かされ、わたしも馬車から降りる。
――そこには、〈カスカードの夢〉とも称されるフォンテーヌの森の、色とりどりの木々が立ち並ぶ森が広がっていた。
フォンテーヌの森は、地面がへこんだところにある。
どういうことかというと、とりあえず鍋を想像してほしい。最近、東の方の島国から輸入され、巷で話題の土鍋とかいうやつだ。
その土鍋のすっごい大きいやつが地面に埋まっているように、半径1kmにも及ぶ巨大な穴が開いている。なぜそのような広大なへこみができたのかはまだ解明されていない。
続いて、その鍋のような穴に、カラフルな野菜(主にオレンジ色と緑色)や肉や豆腐なんかが滅茶苦茶に放り込まれているのを想像してほしい。豆腐ってわかる? これも東の島国から伝わってきたやつで、大豆からできてるあれだ。で、具は鍋の淵から出っ張らないようにする。
フォンテーヌの森は、本当にこんな感じだ。
大きな大きな穴に、カラフルな木々が立ち並び、美しい花々が咲き誇る。水平に見ると、そこに森があるだなんて誰も思わないけれど、少し高いところから見るとあの美しさは圧巻だ。
「お姉ちゃん、はやく行こうよー」
気の早い梨菜が森の入り口で手を振っている。わたしは御者さんにお礼を言って、ぱたぱたと入口の方へ駆けて行った。
フォンテーヌの森は観光名所としても人気があるので、ある程度は道も舗装されている。ただし、観光客はガイドの案内に沿ってでしか散策できないので、今わたしたちがふたりっきりでフォンテーヌの森を歩いているのは異例と言える。しょうがないよね、領主の子だもん。これぐらいは特権として許されるはず。
緑、黄緑、薄緑、濃い緑、青緑、黄色、橙色、赤色、紅色、桃色。多種多様な色の木々が雑多に生い茂り、木の間には可愛らしい花がたくさん咲いている。
そよ風に揺れる枝葉の隙間からは、光の粒がきらきらと舞い落ちて、地面に影を作っている。温かな木漏れ日が、花々を明るく照らし、生き生きとさせている。
わたしの隣では、梨菜がすごく楽しそうにスキップしている。両手に持っている、何が入っているんだか分からないけど重そうな荷物なんてなんのそのだ。瞳を星のように瞬かせ、ブロンドの巻き毛を揺らめかせながら、それはそれは楽しそうに。
「お姉ちゃーん! 本当にすっごく楽しいねっ! やっぱりお姉ちゃんと来れて良かったぁ!」
そう言ってくれると、わたしも嬉しい。
この夢のような世界で、いつまでも揺らめいていたい。輝いていたい。
こんなにも素晴らしい世界を、わたしはまだ知らない。
しばらく歩いていると、開けた場所に出た。
アンジェ・カスカ。
天使の滝と呼ばれる滝だ。
崖の上から、花びらが舞うように白い飛沫が舞い散る。
白い飛沫はすぐに、滝の下に広がる池に吸い込まれ、蒼く透き通る水の片鱗となる。
太陽が輝く空。飛び散る白い飛沫。周りに広がるカラフルな木々。蒼く揺らぐ池。
すたすたと歩いていく梨菜の後を追って、わたしも池の周りを歩き出す。
梨菜が振り返って何か言ったけど、滝の音にかき消されてあんまり聞こえない。わたしが首を傾げると、まぁいいかという顔をされた。
それよりも。わたしは、アンジェ・カスカという滝の名前の由来を知らない。
天使とは、何?
と、滝の近くまで来ていきなり梨菜が立ち止まった。
「お姉ちゃん、この滝の名前の由来、知ってる?」
今考えてたことですが。
「やっぱり。知らなかったでしょ」
梨菜は得意げににんまりと笑い、「何も知らないお姉ちゃんに秘密を教えてあげましょう」と声高に言った。
梨菜は、荷物からそれを取り出すと、じゃーんと掲げた。
……折り畳み式の傘、しかも特大サイズだった。
「………。………雨、降ってないよ?」
呆れてものが言えず、やっとそれだけ言うと、梨菜はフッと笑った。
「甘い。甘いぞお姉ちゃん」
…何だか今、無性にイラッとした。
そんなわたしの心など露知らず、梨菜はジャキッと広げた傘を手に、すっくと立ち上がった。
「秘密はこの中にあるんだよ、お姉ちゃん」
傘で滝を指しながら梨菜は言った。
ようやく梨菜の意図が分かってきた気がする。どうやら我が妹は、巨大傘によって滝の向こう側に行きたいらしい。そこまでして、その先に何があるんだか。
荷物の中から梨菜がタオルを出してわたしに放る。わたしはそれを慌ててキャッチしてから、梨菜を睨んだ。
「何考えてるの?」
「いいから。さ、靴と靴下脱いで」
「は?」
いったい何を考えているのだ。ここの滝の下の池はゆうに水深3mを超える。歩いて行けるような場所ではない。
「甘い。甘いぞお姉ちゃん」
梨菜が、わたしの心を見透かしたように指をチッチッチと降りながら、本日二度目の台詞を言った。
「どうせ、理屈で滝壺は一番水が深い――とか考えてるんでしょ?」
不貞腐れたわたしが渋々頷くと、調子に乗った梨菜が続ける。
「理屈なんか、ここでは通用しないのだよ。ここから、滝壺まではなんと水深が30cmしかないんだから」
……なんと。でも理解できない。
わたしが納得していない表情をしていたのだろう、梨菜はやれやれと溜息をついた。
「いいよ、あたしが先に行くから着いてきて。さ、早く靴と靴下脱いで、タオル持って」
梨菜に促されるまま裸足になり、池に足をそっと踏み入れた。ひんやりとしていて、火照った体に心地良い。
じゃぶじゃぶと前を進む梨菜に続いて、恐る恐る進む。タオルを持ったままスカートをたくし上げてるのでやりにくい。
滝に近づくにつれ、轟音が激しくなる。何も聞こえなくなる。
ようやく梨菜がいるところまで辿り着くと、傘に入るように目で促された。そこからふたりでゆっくり進んでいく。傘に水滴が飛んで、ぱらぱらと音を立てていた。
「この奥はちょっと上がってるから、気をつけてよ! お姉ちゃんどんくさいんだから!」
と、梨菜が大声で喚いて伝えてくれる。滝の下に入り込み、いよいよ音と水が激しくなったところで、一緒に滝の奥へ踏み込んだ。
どういうわけだか、その途端滝の音は遠くに過ぎ去ったように小さくなった。
――そこは、蒼い世界だった。
滝の奥は、広々とした洞窟になっていた。水が滴る音が響く中、光はすべて蒼に染まっていた。
そして、中央には天使の像があった。きっと白いのだろうけど、これも青く染まっていた。
天使は、年若い少女の姿をしていた。髪は長く、床にゆったりと座り込みながら、右手の人差し指をどこかに向けたままの姿だった。
「お姉ちゃんも知ってるよね?」
わたしが持っていたタオルを勝手に奪って足を拭いていた梨菜が言った。声が反響してうわんうわんと響いた。
「昔の話。平民だった可憐な少女が、天使の魔法によって憧れの皇太子様と出会い、やがて結婚する話。この天使がそうなの」
わたしは黙って天使の像を見つめていた。
「だから、インヴィアタではこの天使は恋愛の神様って呼ばれてて、出会うと恋が叶う――そんな話があるの、知ってた? ここにこの像があることは、まだまだ知られてないんだけど」
知らなかった。
恋が――叶う。
「お姉ちゃんさぁ」
梨菜が不意に言った。
「祐樹様となんかあったでしょ」
それは疑問ではなく、断定だった。
わたしの体が揺れた。
「何があったのかとかは訊かな――」
「――人にはさ、…いろんな面があるんだよね」
息をするように、自然と言葉が零れた。
「それを知らなかったわたしがいけなかった。それを受け入れなかったわたしが…悪かった…っ」
声を詰まらせたわたしに、背後から静かな声がかかった。
「天使の頭…撫でてごらん、お姉ちゃん」
わたしはそっと、天使の頭を撫でた。
遥か彼方の、天使の魔法を分けてもらうように。
もう一度、前を向くために。
――天使は、わたしに魔法をかけてくれたようだ。
もともと、カスカードというのがフランス語で滝という意味なのです。
なので、もじって(省いて?)カスカで滝を表してみました。




