16 風邪引きの流華
はぁ……。
ふぅ……。
はぁぁ……。
ようやく、一ヶ月に渡る臨時講師の役目が終わった。
わたしが王立大学を出て、速攻で王宮に戻って、自室のベッドにダイブしたのが数時間前。おしゃべりも授業も、なんだかんだ言って楽しかったなー、なんて思いながらぐっすり眠った。
そこまではいい。そこまでは。
どうやら、ずっと張りつめていた緊張の糸が切れたらしい。もう王立大学に行かなくていいんだー、当分は実験室と研究室に籠もらなきゃなー、なんて今後のことを呑気に考えて、とりあえず休憩休憩、って感じだったんだけど。
目を覚ましてみれば、視界がぼんやり、頭もぼんやり。体と顔が熱くて、少し起き上っただけでくらくらしてしまう。まだ夢の中にいるみたいだ。そう思ってほっぺたを叩いてみる。
ぺし。
全然痛くなかった。でも手が触れた感触はした。ひょっとして、あれかな? 手に力が入ってないだけかな? でもどうしてだろう。わたし、生まれてこの方箸しか持ったことありませんよ的なお嬢様じゃないんですが。にしても、頭が重い。全然動かない。天才と言われた流華=シャネリアがどうしたんだろう。
ぼーっとしていると、部屋の扉が開く音がした。視界が歪んでいる。誰か入ってきた。うーん……。かろうじてブラウンの髪と、宝石みたいな緑色の瞳が見えるような気がするから、汐音…かな?
「流華様、夕食をお持ちし――きゃあああ!」
突然汐音が叫んだ。プレートを取り落しそうになり、慌ててテーブルに置いている。何を慌てているのさ?
「お顔が、真っ赤でございます! 大丈夫ですかっ!?」
汐音の手が伸びてきて、ひんやりした感触が額に押し付けられる。
「し、おん……?」
あれぇ、舌が回らない。
「流華様っ! すごい熱です! お待ちください、すぐに氷を持って参ります!」
汐音の声が頭の中でうわんうわんと鳴り響く。なるほど、わたしは熱を出したという訳ね。どうりで、こんなにも……。
わたしはばったりと布団に倒れる。
そして、視界が一層強く歪んで――わたしの意識は突然途切れた。
唐突に意識が戻った。咄嗟に起き上がろうとして、体に力が入らない。体中が熱くて、頭だけが冷やされているのか冷たかった。
目を開けると、心配そうな顔の汐音と目が合った。微笑んでみせる。わたしはうまく笑えているだろうか。
「流華様……。良かった。体調はどうですか?」
「う~ん……」
わたしは考えを巡らす。わたし、熱出したんだよね。一ヶ月も頑張ったからかな。にしては代償が大きすぎる気がする。う~ん、不幸だ。でも体調はあの時ほど酷くない。頭は痛いし気分は悪いけど、視界ははっきりしている。
それを伝えると、汐音は安堵の溜息をついた。
「すごく頑張っていらっしゃいましたからね、ゆっくりお休みになってください」
「うん、そうするわ……」
小さく答えて、またわたしは目を閉じた。今度はゆっくりと、誘われるように――眠りに落ちた。
どれくらい時間がたったのだろう。
窓からは、斜めに夕日が差し込んでいた。
ふとテーブルを見ると、小さく切り分けたサンドイッチと、グラスに入った水が置いてあった。わたしは手を伸ばし、サンドイッチをひとつ手に取る。ゆっくりと咀嚼して、いつもの倍くらいの時間をかけて飲み込んだ。それからグラスを引き寄せ、一口だけ飲んだ。冷たかった。
額に手をやると、まだ熱かった。夜が近づいているからだろうか、体調もあまりよろしくない。もう一眠りしよう、と思ったとき、扉の向こうから控えめな声が聞こえた。
「流華様…? 起きていらっしゃいますか」
「ん……」
わたしが上体を起こし、髪を整えながら微かに返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。そこから汐音が顔を覗かせ、後ろを振り返って「どうぞ」と言う。
「うぅ……ん?」
入ってきた人物を見て、わたしは頭を捻った。なんでこの人がここに? 忙しくないのだろうか。いや、忙しいだろう。というかまず、なぜ一介の学者に過ぎないわたしのところに来てくれるのだろうか?
汐音が、「それではごゆっくり。用が済みましたらお声をお掛け下さい」とだけ言って静かに扉を閉めた。
入ってきた人が――祐樹様が、ベッドの脇に立って、わたしの顔を覗きこんだ。
「流華……。大丈夫、な訳ないよな。急に訪ねてごめん」
「いいえ……。だいじょうぶです。ソファーに、おかけください」
精一杯元気な声にしたつもりだったのに、全然大丈夫じゃなさそうな声になってしまった。それを聞いて、祐樹様はますます心配そうな顔になった。
わたしは質問をぶつける。
「ところで、どうして、いらしたん、ですか」
途切れ途切れに声を発すると、祐樹様は心外だというように首を振った。
「流華が心配だったからだ。――はい、これ。今は意味ないだろうけど、治ってきたら暇潰しに読んで」
言いながら、机の上に紙袋を置く。きっと何かの本が入っているのだろう。後で見てみよう。
にしても、疑問だ。何で、一介の学者でしかないわたしに親切にしてくれるんだろう? ただ心配ってだけで来てくれるの? その前に、ただの学者を心配するの? 回りきらない頭で考えてみるも、勿論答えは出てこない。
「でも、ユウキさま、いそがしいのに。わざわざきてくださらなくても……んっ!」
よかったのに。
そう言う前に、わたしの言葉が途切れた。
なぜなら、唇が塞がれたから。
――祐樹様の唇で。
わたしは目を瞠った。少しひんやりとした、柔らかな感触がありありと伝わってきて、爽やかな香りが鼻孔を掠める。
でもそれは一瞬のことで、すぐに唇は離れた。しかし顔はまだ目の前にあって、頬が一気に上気するのが自分でもわかった。熱が上がったんじゃないか。
わたしが何か言う前に、祐樹様が人差し指をわたしの唇に押し付けた。
「何、ただ流華が心配だったから来た――じゃダメなのか?」
何も言えずただ真っ赤になっているわたしに、祐樹様はにっこりと極上の笑みを向けた。
「じゃあな。早く元気になって図書館塔来いよ」
「え、あ、はい」
わたしが慌ててそう言うと、祐樹様はふっと笑って扉の向こうに消えた。
何だか、夢のような気がした。
というか、夢であってほしい!
それから、数十秒硬直。
オーケイ、一回整理してみよう。さっき、何かされたよね。されてないと思いたいんだけど。えっと、何て言うの? わたし恋愛経験値が限りなくゼロに近いから言うのも照れるけど、要するに、あれは、
「キスしてましたね」
「ギャーーーーーーーーッ!!!」
わたしは飛び上がった。視線の先には、部屋に入ってきて扉を閉めたばかりの汐音。
「ちょっ、ちょっ、ちょっとぉぉぉぉぉ!」
わたしは熱を出していることも忘れて叫んだ。その途端、自分の言葉が頭の中で響く。うっ、気分が。
「申し訳ございません。プライベートなことに首を突っ込んではいけないと思っていたんですけれど、やはり祐樹様が流華様に変なことをしないか心配で心配で。それで、一部始終をこっそり覗き見しておりました。申し訳ございません」
汐音はきっかり90度、腰を折って深々と頭を下げている。でもねぇ、反省の色が窺えませんな。あ、体がぷるぷる震えてる。まさか、笑ってるのか!
「汐音、次からは絶対にプライベートを覗かないこと! 覗き見も、聞き耳もダメだからね!」
わたしがピシッと指を差すと、汐音はまた腰を折ってしっかり頭を下げた。
「申し訳ございませんっ! この反省を生かし、次からは絶対にしませんっ!」
うん。まあこれ以上は可哀想だし、いいだろう。
思わず笑みを浮かべた瞬間、くらっとした。
ぼすっと音を立ててベッドに沈んだわたしに、汐音が慌てて駆け寄ってくる。
「る、流華様ぁ!」
「しんぱいしないで……ねるわ」
落ちてくる瞼に逆らわず、わたしは目を閉じた。
今度祐樹様に会ったら、貴方のせいで熱が上がったんですよ、と言おうと思いながら。
ついにヤってしまいました。こんなに早くキスする予定じゃなかったのになぁと思っている作者です。
次話は、「風邪引きの流華」の祐樹/汐音sideです。




