第7話 二重帳簿の夜
第7話 二重帳簿の夜
パパン!
お立ち会い! 幕府の冷酷なる監査という大いなる試練。しかし、我らが管領・上杉憲実は一歩も引かず、関東の富と主君の威信を守るために知恵を絞り尽くすのでございます!
公方様の御威光を傷つけることなく、幕府の目を欺く極秘の策。それは、筆と墨を駆使した神がかり的なる計数の妙!
まあ、当時の執務室には、徹夜で燃え続ける油皿の焦げた臭いと、冷や汗が和紙に染み込んだような酸っぱい臭いが充満し、まさに命を削る戦場のようであったに違いありませんなァ!(ここで講談師はふと扇子を釈台に置き、己の左の目尻を指の腹で強く揉む)
これぞ、筆を剣に変えた東国武士の忠義!
さあさあ、不折の管領、波乱の第七席でございます!
*
深夜の関東管領邸・執務室。
油皿の灯心から細く黒い煙が立ち上り、焦げた嫌な匂いが冷え切った空気に淀んでいる。
上杉憲実は、冷たい板の間に正座し、目の前に積まれた帳簿の山と向き合っていた。
手元で弾かれる木製の算木が、カチ、カチと乾いた音を立てる。
「管領殿。このままでは……数字が、どうにも合いませぬ」
向かいに座る金庫番の青木勘解由が、すり減った筆の先を震える唇で舐めながら、泣きそうな顔で帳簿を指差した。
青木の手元にあるのは、鎌倉府の「真実の数字」が記された赤字まみれの帳簿である。
対して、憲実の目の前にあるのは、幕府の監査役・満済へ提出するための、見せかけの利益が並んだ「青い帳簿」だった。
「先日の『大行軍』の打ち上げと称し、公方様が三日三晩催された宴の費用。さらに、舞の役者たちへばら撒かれたご祝儀。これだけで、相模国から上がる年貢の半年分が吹き飛んでおります」
青木の言葉に、憲実の胃の腑がギリリと音を立てて捻り上げられた。
先日の監査で、満済は「来季の秋までに税収を増やせ」という絶対的なノルマを突きつけて帰った。しかし、鎌倉府のトップである足利持氏の脳内には、「予算」という概念が存在しない。彼にとって、宴もご祝儀も、自身の「源氏の誇り」を示すための必要不可欠な儀式なのだ。
(誇りで、兵糧が買えるのか。儀式で、幕府の軍勢を止められるのか)
憲実は、膝の上で握りしめた拳の関節が白くなるのを隠し、冷徹なロジックのみで算木を動かした。
今ここで、幕府に本当の赤字帳簿を提出すれば、即座に「鎌倉府は経営破綻・謀反の兆しあり」とみなされ、討伐軍が差し向けられる。会社が潰れれば、ナンバー2である憲実の首も物理的に飛ぶ。
生き残るためには、この絶望的な数字を帳簿上で黒字に書き換えるしかない。完全なる粉飾決算――二重帳簿の作成である。
「青木。その宴の費用は、相模国の防塁修繕費から削れ。幕府提出用の帳簿には『石材購入および土木工事』と記載しろ」
「し、しかし管領殿! 防塁を直さねば、秋の台風で領地が水浸しに……」
「今は幕府の監査の目を欺くのが先だ。台風の心配は、我々の首が繋がった後にしろ」
一切の感情を排した、冷徹な指示だった。
青木が震える手で、筆をガリガリと走らせる。
「では、この『鶴岡八幡宮への黄金の太刀の奉納費』は……」
「民の安寧を祈願する農業投資名目にして、農政の予算から回せ。帳簿上は『ため池の拡張』だ」
狂ったような付け替え作業。数字という名のパズルを無理やりねじ込み、実体のない利益を紙の上に捏造していく。
その時、執務室の重い襖がギイと音を立てて開いた。
冷たい夜風と共に、山内上杉家家宰・長尾景仲が足音もなく入ってくる。
景仲の懐から、次々とクシャクシャになった紙が取り出され、憲実の机の上に並べられた。
「憲実様」
景仲は、徹夜で疲労困憊の組織のナンバー2を見ても、微塵も表情を変えない。
「公方様が、『京都の小童どもに対抗するため、名馬を新たに二十頭買い付けよ』と仰せです。すでに商人を手配いたしました」
ドン、と。
景仲が机の上に置いたのは、名馬購入の稟議書と、青銅製の重い「印章」だった。
憲実は、算木を弾く手を止め、左の目尻を指の腹で強く揉み込んだ。イグサの畳に額をこすりつけた痕が、まだ赤く残って痛む。
「……景仲。今、青木と共に幕府の監査をやり過ごすための数字を捏造しているところだ。これ以上、無駄な出費を増やせば、帳簿の辻褄が完全に崩壊するぞ」
「ええ。その崩壊した辻褄を、なんとしてでも合わせるのが我々の職分です」
景仲の冷徹な声が、執務室に響く。
「公方様の御機嫌を損ねれば、我々の首が物理的に飛びます。名馬の代金は、予備費をさらに削り、帳簿上は『軍馬の育成費』として計上を。……拒否権はありません」
憲実は、直垂の懐に手を入れた。そこにある麻の紙の「出家願」が、カサリと擦れる音がする。
「……こんな自転車操業、いつか必ず破綻する」
「はい。破綻するその日まで、一日でも長くこの鎌倉府を延命させるのです。あなたが坊主になろうが、その頭に管領の帽子を被せて、帳簿の前に座らせるだけです。明日の朝までに、全ての決裁にハンコを。さあ、墨をお擦りください」
逃げたい超有能と、逃がさない現実の悪魔。
二人の間に共感など一欠片もない。憲実は深く、長く息を吐き出し、冷え切った硯に墨を擦り始めた。
ガリ、ガリ、ガリ。
ガツン、ガツン。
焦げた油の臭いが充満する密室で、かすれた墨の音と、深夜の決裁書類にハンコを叩きつける音だけが、虚しく響き続けた。
紙の上の嘘が積み重なるほどに、憲実の命の数字は確実にすり減っていく。
*
パパン!
「おお、なんたる知略! 本社の冷酷なる監査の目を潜り抜け、見事に関東の財を死守した管領・憲実!
その筆さばきはまさに神仏の如く、公方様の御威光を傷つけることなく、巨大な幕府を見事に欺いてのけたのでございます! この裏には、忠臣・長尾景仲の揺るぎなき支えがあればこそ!
……まあ、深夜まで終わらぬ数字遊びに、管領殿の寿命はまた十年縮んだことでございましょうなァ!
さあ、危地を脱し、さらなる威信を手にした鎌倉府。この先いかなる難題が待ち受けるか、見事なる忠臣の知略がいかに歴史を動かすのか、次回を乞うご期待!」




