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プロローグ 

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カルラディア大陸のヴランディア王国、ロヴァルト魔導学院の第三講義室には、いつも不快な湿気と、焦げた鉱石の臭いが充満していた。


「――よって、竜血草から製造されるハイポーションの質は温度管理によって決定される。教科書の四十二ページを開きなさい」


黒板に向かってチョークを走らせるレン・ブラウンの背中に、耳障りな欠伸と、ひそやかな嘲笑が届く。


「錬金術なんて、魔法適性のない落ちこぼれがすがるおままごとだろ」


「魔法陣を使えない落ちこぼれだ」


レンはチョークを握る手に少しだけ力を込め、それから静かに息を吐いた。反論はしない。それがこの『ロヴァルト魔導学院』における錬金術の立ち位置であり、レン・ブラウンという五十歳のうだつの上がらない教師の日常だった。

派手な攻撃魔法を操る若手教師たちがもてはやされる傍らで、彼は三十年近く、地味な試薬の調合と鉱石の分類に人生を捧げてきた。錬金術には魔法陣を使うのが一般的だ。魔法陣に魔力を込め自分の代わりに温度管理や精製をやってもらったほうが楽だからだ。しかし、それには大量の魔力がいる。

自分には、時代を変えるほどの圧倒的な魔力はない。だが、物質の理を紐解く頭脳があった。……もっとも、そんなものはこの魔法至上主義の王国では一文の価値も生み出さなかったが。


「……本日の講義はここまで。課題のレポートは来週の火曜までに提出するように」


ベルが鳴ると同時に、生徒たちは目も合わせず教室を立ち去っていく。レンはひとり、使い古された実験器具を丁寧に拭き上げ、カバンに詰めた。

街に黄昏が訪れる頃、レンは郊外の小さな借家に足を踏み入れた。


「ただいま」


「おかえりなさい、あなた」


出迎えたのは、36歳の妻キャサリンだった。すらりと伸びた高い身長に、スレンダーな体躯。エプロン姿の彼女は相変わらず美しく、14歳も歳の離れた自分には勿体なさすぎるほどの妻だった。


「今日も遅かったのね。寒かったでしょう、すぐスープを温めるわ」


彼女は甲斐甲斐しく立ち回るが、その目元には隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいた。家計は常に窮屈だった。魔法学校のしがない講師の給料では、この王都で家族三人が暮らしていくのがやっとだ。時折、些細なことで甲高い声をあげてヒステリーを起こしてしまう彼女を、レンは一度たりとも責めたことはない。若い彼女に貧しい思いをさせているのは、他ならぬ自分自身なのだから。

奥のテーブルから、トントン、と小さなノック音が響いた。

娘のアリシアだった。 今年で十六歳になる彼女は、生まれたときから声帯に不具合があり、声を出すことができない。だが、整った顔立ちと澄んだ瞳を持つ、自慢の娘だった。

アリシアはレンの顔を見ると、胸の前で両手を交差させ、首をかしげるジェスチャーをした。


『お父さん、疲れてるの?』


「いや、大丈夫だよ、アリシア。今日の学校はどうだった?」


アリシアは笑みを浮かべ、喉の奥で「ん、ん」と小さく音を鳴らしながら、手振りで今日の出来事を教えてくれる。彼女の指先が描く不器用な物語だけが、レンの擦り切れた自尊心を優しく撫でてくれた。

自分が死んだら、この二人はどうなるのだろう。 頼れるあてもなく、喋れない娘と、世間知らずの若い妻。自分が遺せる蓄えなど、数ヶ月分の生活費にも満たない。

その胸の奥の重苦しい予感は、数日後、現実となってレンの頭上に突きつけられることになった。


「――結論から申し上げます、レン先生」


王立病院の個室。羊皮紙の診断書を見つめる治癒術師の顔は、酷く暗かった。


「あなたの体内で、『魔力結晶化症』が進行しています。魔力が体内で結晶化し、内臓の組織を内側から破壊している。……最先端の回復魔法でも、これを治癒することは困難です」


静寂が室内に満ちた。窓の外では、呑気な鳩が羽ばたく音が聞こえる。


「……余命は」


レンの声は、驚くほど冷静だった。どこか他人事のように聞こえていた。


「もって、一年。……施療院での緩和ケアをお勧めします。少しでも痛みを和らげるための……」


「費用は」


「え?」


「そのケアとやらに、いくらかかる」


治癒術師は気まずそうに目を逸らし、提示された金額は、一般人が一生をかけて稼ぐものだった。およそ150万デナール。

病院を出たレンは、石畳の道をあてもなく歩いた。 冷たい風が頬を打つ。五十年の人生。真面目に、誠実に、誰の邪魔もせず生きてきた。生徒からは見下され、同僚からは嗤われ、それでも錬金術の深淵を信じて研究を続けてきた。

その行き着いた先が、余命一年と、遺される家族への借金なのか。

キャサリンはどうなる? アリシアの未来は?

頭の中で算盤が弾ける。自分が死んだ後、二人が生きていくために必要な金。家を買い、アリシアが一生困らないだけの資産。……少なくとも、何十万デナールという膨大な富が必要だ。

教員の給料では、絶対に届かない。 正当な手段では、逆立ちしても手に入らない。

レンは立ち止まり、自分の震える手を見つめた。 その手は、あらゆる薬品の調合を知っている。王国中のどの錬金術師よりも、正確に、高純度で、物質を生成する術を知っている。

ふと、彼の頭の中に、悪魔のような閃きが掠めた。

世界を変えるような魔法は使えない。だが……俺の錬金術なら

空を見上げたレンの瞳から、冴えない中年教師の温和な光が、ゆっくりと消え去ろうとしていた。


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