92.雪道の奔走と毛布の中身
小さな籠の毛布をそっとめくったまま、俺はその場で完全に凍り付いていた。
周囲で雪遊びをしてはしゃいでいた子どもたちの笑い声が、まるでウソのようにスッと消え去る。ルナ姉ちゃんやアン、そしてフィリップやカイが足音を立てて駆け寄り、その小さな籠の中を覗き込んだ。
「……うそ……」
誰かの息が、冷たい冬の空気に白く溶けて消える。
ここにいる年少組の子供たちは、ほとんど親の顔を知らない。
自分がどうやってこの孤児院にやってきたのか、その経緯の記憶の有無を問わず、誰もがこうして親元から取り残された境遇を持っている。だからこそ、目の前にある「置き去りにされた赤ん坊」という現実が持つ重みを、誰よりも痛いほど理解していた。
「……っ! 早く、院長先生を呼んでくる!」
固まった空気を切り裂くようにフィリップが叫び、足元を雪に取られながらも猛ダッシュで孤児院の建物へと駆け出していく。
俺たちは震える手で赤ん坊を抱え上げ、急いで温かな食堂へと戻った。
「とにかく、一刻も早く体を温めないと凍えちゃうわ……!」
アンが青ざめた顔でそう声を上げると、トム兄ちゃんが即座に動いた。倉庫から、ちょうど手頃な大きさの空いた木箱を慌てて抱えて持ってくる。
俺たちは孤児院の清潔な毛布をその木箱の内側に敷き詰め、赤ん坊を包んでいた毛布ごとそっと寝かせた。そして、暖炉の火が最も優しく当たる、でも熱すぎない絶妙な距離へとそれを移動させる。
「そうだ……!」
俺は震える指先に全魔力を集中させ、木箱に向けて金色の文字で『温』と小さな魔法陣を描いた。微かに発光した魔法陣から優しい熱が放たれ、木箱の底がほんのりと心地よい温もりを帯びるのを確認してホッと息を吐いた。
そこへ、フィリップに手を引かれ、杖をついた孤児院の院長先生がよろめきながらやって来た。
高齢の院長先生はゆっくりと木箱に歩み寄り、シワだらけのカサついた手で、赤ん坊の冷え切った頬をそっと優しく撫でた。
それに反応するように、赤ん坊が小さく身じろぎをし、かすかな泣き声をあげる。その様子を確認した瞬間、院長先生はハッとした顔をして顔を上げた。
「……誰か、使いに行ってくれるか。町の西のはずれに、ヤギを飼っている産婆の婆さんが居るはずじゃ。
あそこに頼んで、赤ん坊に飲ませるヤギのミルクを分けて貰って来てくれんか」
「牛のミルクじゃダメなんですか?」と、カイが不安そうに割って入る。
「……ダメだ。こんなに小さな赤子には、牛の乳は消化できん。乳をやるなら、ヤギのミルクでなければ命に関わる」
院長先生の言葉を聞き、俺は口を開いた。
「薬屋のロンダ婆さんだよね!?なら知ってるから俺、行ってくる!!」
「そうじゃ。あそこの裏手でヤギを飼っとる。急いでくれ!」
院長先生が頷くやいなや、俺は自分の部屋からいつもの鞄を引ったくり、分厚い外套を引っ掛け、先ほどルナ姉ちゃんから貰ったばかりの赤いマフラーを首にぐるぐると巻き付けて玄関へと飛び出した。
「気をつけてね!!」
誰かがそう言ってくれたけど、俺は返事もせずに走り出した。
外に出ると、本格的な冬の寒さと膝下まで深く積もった雪が、容赦なく俺の足首を掴んで離さない。
(くそっ……! 日が暮れる前に戻らないと、一気に冷え込む……!)
焦る気持ちを抑え込み、雪を力任せにかき分けながら一目散に駆け抜ける。星祭りという特別な休みのせいで、普段は活気にあふれているはずの商店街や市場の通りはどこも閑散としており、明るい時間帯であるにも関わらず人の往来は疎らで、不気味なほどに静まり返っていた。
息を切らし、ようやく目的の場所へたどり着いた俺は、ロンダ婆さんの薬屋の固く閉ざされた木の扉を何度も激しく叩いた。
「なんだい、星祭りだってのに、こんな時間に……!」
不機嫌そうなぼやき声と共に、カチャリと鍵の音がして重い扉が開く。
眉間に深い皺を寄せたロンダ婆さんは、目の前に息をゼェゼェと切らせて立っているのが俺だと気づくと、一層顔を険しく歪めた。
「なんだい、エル坊じゃないか。こんな雪の日に、何の用だい?」
「はぁ、はぁ……っ、ロンダ婆さん! 孤児院の前に、赤ん坊が捨てられてたんだ……! ヤギのミルクを、少し分けてください!」
俺の必死な叫びを聞いた瞬間、ロンダ婆さんは目を丸くし、それからすぐに表情を引き締めた。
「……こんな雪の日にかいっ! 早く中に入りな!」
店内に招き入れられ、慌てて待っていると、婆さんは小さな小樽と、見慣れない奇妙な木製の食器のようなものを手に持って戻ってきた。
それは、蓋のない小さな急須のような、注ぎ口のついた奇妙な容器だった。
「これは『吸い飲み』って言ってね、急須の口から温めたミルクを少しずつ流し込んで、赤子に飲ませるための道具だ。ミルクは必ず湯煎して人肌に温めな。熱すぎたら火傷するし、冷たすぎても腹を壊すよ」
ロンダ婆さんは手際よくそれを布に包みながら、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「本当なら、あたしもすぐにでも赤子の様子を見に行きたいところだがね……あの孤児院までの丘を、この深雪の中を登るのはこの足じゃあちと厳しい。
……赤ん坊がしっかりミルクを飲んで、自分で泣き声を上げるぐらいの体力がついたら、あたしのところに連れておいで。
……だがね、もし明日の朝になっても一度も泣かず、息が弱るようなことがあったら……すぐに教えに来な。あたしが様子を見に行くからね」
「わかった! ありがとうございます、ロンダ婆さん!」
小樽と吸い飲みを落とさないよう大切に抱え込み、俺は再び薬屋を飛び出した。
空を見上げると、いつの間にか冬の冷たい太陽は西の空へと傾きかけ、うっすらと赤みがかった夕暮れの光が雪景色を薄暗く染め始めている。
その急速に落ちていく夕日に急かされるようにして、俺は全速力で雪道を戻り、ようやく孤児院の重い扉を開けた。
「ふぅ……、ただいま! ヤギのミルクを貰ってきたぞ……!」
息を切らせて食堂に飛び込んだ俺は、しかし、そこで言葉を失った。
普段なら洗濯に使うはずの大きなタライが食堂の隅に持ち込まれ、中にはお湯が張られていて、もうもうと湯気が立ち上っている。
(――もしかして、体を温めるためにお風呂に入れようとしているのか……?)
そう思いながらみんなの顔を見た瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
アン姉ちゃんも、ルナ姉ちゃんも、そしてトム兄ちゃんやいつも賑やかなフィリップまでもが、全員顔を真っ青にして、息を呑んだまま一言も喋らずに、ただじっとその場に座り込んでいた。
誰も何も言わない。重苦しい沈黙の中、みんなの視線は暖炉の前の木箱に注がれていた。
胸騒ぎを抑えきれず、俺は濡れた足を引きずるようにして赤ん坊の眠る木箱へと近づいた。
そこでは、赤ん坊の体を包んでいた厚手の毛布がすっかりめくられ、小さな下半身までが剥き出しの状態になっていた。
――布おむつの下の足元を見て、俺は自分の喉の奥から声にならない息が漏れるのを感じた。
赤ん坊の左足は、小さくスヤスヤと眠るその小さな体に似合う、ミニチュアのような可愛らしい足だった。
しかしその反対側――右の足首から下は、最初から何もなかったかのように、ぽっかりと窄まって消えていた。
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次回週明け水曜、18時頃投稿予定です
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