75.黒い麦の正体
ノートを片手に、俺は全速力で駆け抜けた。
向かう先は、あの爺さんの麦畑だ。
頭の中には、さっき作業場の木箱で掴んだ『鑑』の感覚が鮮明に残っている。前世の知識とこの世界の魔法がカチリと噛み合った手応えを忘れないように、俺は足の裏の痛みすら忘れて駆けた。
「はぁ、はぁっ……!」
荒い息を吐きながら畑にたどり着くと、やはり異様な光景が広がっていた。
爺さんは、収穫したばかりのライ麦を二つの山に分けて干している。
一つはいつもの黄金色を帯びた健康な麦。そしてもう一つは、全体がどんよりと黒ずみ、おぞましい粉を纏った束たちだ。
やっぱり…。あれが、トム兄ちゃんや町中の人々を病に倒した元凶だ。
俺は足をもつれさせながら黒ずんだ麦束の前に歩み寄り、震える右手を突き出した。
(頼む……! 何か手掛かりを……!)
指先に魔力を集中させ、空中に一文字を描く。
――『鑑』。
瞬間、目の前に眩い金色の光が弾け、柔らかい金色の文字の羅列が浮かび上がった。
【《泥麦病》に感染した《ライ麦》】
やはり文字の綴りはこの世界の文字だったが、その意味がダイレクトに流れ込んでくる。
見据えた文字の端が、銀色にぼんやりと輝いている。
俺は迷わず、その銀色の【泥麦病】の文字に指先で触れた。
パッと視界が広がり、詳細なデータがまるで辞書のページをめくるように展開される。
【泥麦病】
概要:ハエなどの虫を媒介として発生するライ麦特有の真菌感染症。小麦や大麦など他の麦へは発生せず、《ライ麦》にのみ特異的に発生する。
特徴:宿主の生育を遅らせ、出穂すると黒いカビのような胞子を麦穂に発生させる。
〈主な症状・リスク〉
胞子を口や鼻から吸い込んだり、汚染された麦を摂取することで、《泥麦中毒》を発症する。
〈対処法〉
■感染が確認され次第、速やかにその周辺の麦の苗を刈り取り、焼却処分を行うこと。
■刈り取る際は胞子を吸い込まないよう、鼻や口を布などで覆って作業を行う。
補足:乾燥した状態では風に胞子が舞いやすいため、穂が濡れた状態(雨天や早朝など)で行うのが望ましい。
「これだ……!」
トム兄ちゃんがなぜあんなに黒い粉まみれになって倒れたのか、その理由がすべて腑に落ちた。トム兄ちゃんは乾ききった最悪の状態で、あの胞子を大量に吸い込んでしまったのだ。
さらに俺は震える指先で、もう一度銀色の文字列の中にあった別の項目――《泥麦中毒》の文字に指を押し当てた。
《泥麦中毒》
胞子を吸入したり、汚染された麦を食べることで引き起こされる中毒症状。
主な症状:発熱、激しい嘔吐、下痢など。
重篤な症状:妊婦が摂取した場合、胎児の育成を深刻に阻害し、胎児の四肢の欠損や麻痺などを引き起こすことがある。
致死率:毒素そのものによる即死の危険性は低いが、繰り返す嘔吐や下痢による《脱水症状》を原因とする死者が発生する。
対処法:《アボリーリー》の木の実を煎じて飲ませることで、吐き気などの諸症状は快方に向かう。
「っ……!」
息が止まりそうになった。
発熱、嘔吐、下痢。ここまではトム兄ちゃんや町の人々の症状と完全に一致している。だが、その下にある一文が、俺の背筋を凍らせた。
――『妊婦が摂取した場合、胎児の育成を深刻に阻害し、胎児の四肢の欠損や麻痺などを引き起こすことがある』
頭の中で、雷に打たれたような衝撃が走った。
作業場で仕事をしてくれる職人の中にはお腹の大きな妊婦さんも何人か居る。
もし彼女たちが中毒に侵されているとしたら……
「エルちゃん……っ!」
ぐるぐるとした思考の海から引き戻されるように、背後から荒々しい声が飛んできた。
振り返ると、ドレスの裾を泥まみれにし、息を切らせたカストルさんがすごい勢いで走ってくるところだった。普段の優雅な姿はどこにもなく、気迫に満ちた顔で俺に詰め寄る。
「あんた、いきなり飛び出して……
何か分かったのね……」
「カストルさん……っ!」
俺は目の前の黒い麦を指差した。
「これを見てよ……! ただの不作なんかじゃない。
ハエを媒介して広がる『泥麦病』っていう病気だって!
この黒い粉を吸ったり麦を食べたりすると、高熱と激しい下痢、嘔吐を引き起こす……!」
カストルさんは、俺の顔と、目の前に広がる黒ずんだ麦の山を交互に見つめ、表情を険しくさせた。
「…… それは…本当なのね……?」
「本当だ。それだけじゃない……この麦は、妊婦が口にすると、お腹の子の体に障害を残すんだ。町中で寝込んでる人たちも、みんなこれにやられてるんだよ!」
俺の必死の訴えを聞いたカストルさんは、わずかに目を見開いたあと、ふっと息を吐き出し、鋭い眼光をギルドの方向に向けた。
――ピューイッ――!
鋭い指笛が、乾いた空気を切り裂くように響いた。
その音が合図にギルドの方向から、地響きのような蹄の音が聞こえてきた。
――ドドドドドッ――!
砂埃を巻き上げながら走ってきたのは、カストルさんの漆黒の毛並みを持つ巨大な馬だった。
手綱を口に咥えて、まるで主人の意図を完全に理解しているかのように、馬は俺たちの目の前でピタリと見事に停止した。
「行くわよ、エルちゃん!」
カストルさんは汚れたドレスの裾を片手でバサッと豪快に翻すと、軽やかな身のこなしで一気に馬の背へと飛び乗った。
「えっ……!?」
戸惑う暇すら与えず、カストルさんは馬の上から力強く手を差し伸べてきた。
「ぼさっとしてんじゃない! 町中の状況を確かめるぞっ!」
「はいっ!」
俺はその手を取って勢いよく飛びつき、カストルさんの背中にしがみつくようにして馬の背に跨った。
「行くぞっ、おらっ!」
カストルさんの低く力強い掛け声とともに、巨大な馬がどんどん加速して地を蹴った。
風が耳元でゴーゴーと唸りを上げ、景色が凄まじい勢いで後ろへと流れていく。
「しっかり捕まってなきゃ振り落とされるよ!」というカストルさんの声に頷きながら、俺たちは町を囲むように点在する他の麦畑へと馬を走らせた。
一箇所目、二箇所目、三箇所目――。
馬の上から飛び降り、俺が片っ端から『鑑』を発動させていく。
その結果は、あまりにも残酷で、そして確実だった。
どの畑も、どの農家の軒先で干されている麦も、あの黒い胞子を纏ったものは、『泥麦病』に冒されていた。町の穀倉地帯のほとんどが、侵食し尽くされていた。
「全部だ……全部、泥麦病にやられてる……!」
俺は見えた情報を必死にノートに書き殴りながら、唇をぎゅっと噛み締めた。
このままでは、トム兄ちゃんだけでなく、町中の人々の命が危うい。そして、これから生まれてくる命まで、取り返しのつかない事になってしまう。
「カストルさん、みんなに…みんなに知らせなきゃ!!」
頷くカストルさんに再度馬にのせられ、ギルドに向けて走り出す。
馬の疾走する風圧を受けながら、俺はトム兄ちゃんを思い浮かべて、握りしめた拳にぐっと力を込めた。
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