1.思い出の残り香と長い名前
俺の一番古い記憶は、父さんの背中だ。
酷く汚れた外套。 右の袖は風に揺れていて、左脚を引きずるようにして杖をついて歩くその背中。
振り返ることもなく、父さんは俺を孤児院の門の前に置いていった。
「エル。ここで待っていなさい。必ず迎えが来る。」
それが、最後だった。
そこから3回の夏と3回の冬を迎えた。
その間俺は、ほとんどの時間を孤児院の門の前で過ごした。
暇つぶしに地面に木の枝で何かを描きながら。
泥の上の、ぐにゃぐにゃとした線。 意味なんてない。ただ、そうやって手先を動かしていないと、
父さんの帰りを待つのが退屈だっただけだ。
「エル またそこに座ってるの?」
俺より少し年上のアンは小枝を集めながら問いかけた。
アンの作るスープは父さんの作るスープよりおいしいけど、俺はあの少し塩辛い干し肉のスープが好
きだった。そんなことを考えながらまた地面に向き合った。
「父さんいつ来るかな…?」
アンは何も言わない。ただ黙ってポケットから硬いパンを取り出して半分に割ってよこした。
俺は黙ってそのパンを受け取り、汚れた手のまま口に運んだ。
くる日もくる日も、そうやって父さんの帰りを待ち続けた。
4回目の冬が明けたある日の朝、そわそわとした空気の中で院長先生に名前を呼ばれた。
「エル。こちらへおいで」
向かうと院長先生は俺の首に麻紐がついた錫製のプレートを掛けてくれた。
「お前のお父さんが残してくれたものだよ。これがお前の名前だ。なんでも、母さんと爺さんの名前
が入っているらしい。この孤児院のエンゴナシンの名前も入っているから長くなってしまったがな。
エルはエルじゃ。」
そういって掛けてくれた不格好な冷たいプレートには、長い呪文のような名前が彫られている。
ほかの子供たちも同様に首に金属のプレートを掛けられていった。
それから同い年の孤児院の子供たちと教会に向かった。
今年7歳になる子供たちは教会で洗礼式というのを受けるらしい。
「どうしてそんなにわくわくしているの?」
隣を歩くフィリップに俺は問いかけた。
「そりゃエル。今日の洗礼で魔法が使えるか決まるんだ。男は風、女は糸の魔法が使えりゃ一生安
泰。食うには困らないんだから。孤児よりはよっぽどましな生活ができるだろ。」
「逆に今日明日あたりから仲間が増えるかもな。水魔法すら使えない出来損ないは要らないって」
今度は反対側を歩くカイが、親と一緒に教会に向かっている子供たちを見つめながら言った。
「それ、ルナ姉ちゃん達の前で言うなよ。」フィリップは少しだけ真剣そうな顔で窘めた。
ルナ姉ちゃんというのは俺らの4つ上の孤児院の姉ちゃんだ。
お針子の家に生まれたのに糸魔法が使えなくて、孤児院に預けられたらしい。
そんな話をしていたら教会の前に到着した。
町の同い年が集まっているだけあり、それなりの賑わいを見せていた。
聖堂の冷たい石造りの椅子に腰掛けると色とりどりの光が窓から差し込んでいる。
前方の女神様の像の前には箱型の石の彫刻があった。しばらくして司祭様がなんだか難しいことを朗々と語り始めた。
わくわくした顔で聞いているフィリップと少し眠そうなカイを横目にその話を聞いていた。 するとと、前に座っている子供たちから順番に司祭様がいる像の前に進んでいく。
名前を読み上げて首にかけた金属プレートに司祭様が触るとそのプレートが光の粒になって体に入っ
ていった。そうして首の金属プレートが消えると洗礼が終わるらしい。
ひとつ前のフィリップの番の時、俺は女神様の像をぼんやりと眺めていた。
そして足元の箱型の彫刻には角ばった模様が彫られている。それを見た時、俺の奥底の記憶の澱みのような場所が、さらさらと崩れ落ちた。
箱に彫られた『漢字辞典』という文字。それを見た瞬間、俺の意識に濁流のような情報が流れ込んで
くる。
――オフィス、パソコン、納期、伝票
カタカタとキーボードを打ち込む指先の感覚と、鳴り止まない電話。長時間ブルーライトを浴び続け
た事による慢性的な目の奥の痛み。
無理矢理脳を覚醒させる為に飲んだ、苦いだけの安い缶コーヒーの味。
ああ、あれは日本だ。いわゆる前世というものなのか、転生というものか。
どうやって死んだか、名前すら思い出せないが光景と、感覚だけは目に浮かんで甦ってきた。
にしてもなんで漢字辞典が彫刻にまでなってこんな所に?マイナーなゲームの世界にでも飛ばされた
のか?
「おーい、エル。ぼーっとすんな。次お前だぞ」
カイの声で引き戻された俺の目の前にはすでに司祭様がいた。
「どれどれ…まあなんと奇怪な名前か。」そう言いながら司祭様が名前を読み上げながら指先で
『定』と漢字で描いていく。
【エルナトアルデバラン・トーラス・エンゴナシン】
ふわりと温かな光の粒になって名前を刻んだネームプレートが消えていき、呆然としたまま俺に名前が定められた。




