会計士は数字で語る
その女が門の前に現れたのは、魔素炉を起動してから三日後のことだった。
「ヴァルデン領のカイル・ヴェルムント様に面会を求めます。私はフィーネ・ラウシェンバッハ。元ドナルト商会筆頭会計士です」
名乗りを聞いたとき、俺は思わず書きかけの設計図から顔を上げた。
眼鏡の奥に黒い瞳。細身の体に几帳面に整えられた服。右手にペン、左手に分厚い帳簿。見た目は地味だが、背筋がまっすぐで視線に迷いがない。追放されたにしては堂々としすぎている。
「どうぞ」と俺は言った。「立ち話もなんですし、中へ」
ゴルドが「ったく、また変な客が来やがった」と呟いたのが聞こえた。
開発中の中央広場に設置した仮設テーブルで、俺たちは向かい合って座った。
フィーネは一度も余計な視線を動かさなかった。廃墟になりかけた建物も、走り回る子供たちも、まだ焦げ跡が残る地面も、すべてを素早くスキャンして、数字に変換しているようだった。
「単刀直入に聞きます」彼女は帳簿を開かずに言った。「この領地の年間収支はどれくらいですか」
「現時点ではマイナスです」俺は答えた。「ただし、三ヶ月後からは黒字に転換できる試算が出ています」
「根拠は?」
「魔素炉の運用コスト試算と、交易路復活の見込みです。数字を見ますか」
俺が設計図の裏に走り書きしたメモを差し出すと、フィーネはそれを受け取り、三秒で読んだ。
「……採算が取れません」
即答だった。
「魔素炉の初期投資コスト、人件費、食料調達費。現在の人口規模では、黒字転換まで少なくとも一年以上かかります。三ヶ月というのは楽観的すぎる見積もりです」
「そうですね」俺は頷いた。「そのメモは、従来の魔術コスト体系を使った場合の試算です」
フィーネの眉が少し動いた。
「従来の、ということは?」
「今の魔素炉の運用コストを見てください」
俺は新しい紙を取り出し、数字を並べた。魔素炉の燃料は外部魔素——つまり大気中に充満しているタダの資源だ。王都で使われる魔術式照明は専用の魔石を消費するが、俺の設計では魔石をほぼ使わない。維持費は従来比で約十二分の一。出力は理論値の三倍。
「……」
フィーネは黙った。ペンを取り出して、素早く何かを計算し始めた。
俺は口を挟まなかった。
数字の話は数字にやらせればいい。
「魔素炉一基で、何世帯分の動力を供給できますか」
「現時点で約五十世帯。追加建設すれば拡張可能です」
「拡張コストは?」
「設計図は既に完成しています。資材は地下鉱脈から調達可能。外部調達コストは従来の三分の一以下に抑えられます」
フィーネはまた計算した。今度は少し時間がかかった。
俺はその間に茶を淹れた。彼女は受け取ったが、飲んでいなかった。
「……」
しばらくして、フィーネがペンを置いた。
「この収支計画、美しいですね」
初めて感情が声に滲んだ。事務的な丁寧語は変わらないが、微かに、確かに。
「ありがとうございます」
「ただし」彼女は眼鏡を押し上げた。「交易路の復活という前提が崩れた場合のリスクヘッジが不十分です。バックアッププランを三パターン作るべきです。あと、人材調達コストを現在の試算の一・五倍で計算しないと、現場が回りません」
「人材調達が難しい理由を、何か知っていますか?」
「この領地が魔素汚染地帯という評判を長年持ち続けているからです」フィーネは淡々と言った。「ただ、その認識は今後変わります。変えられます。魔素炉の稼働実績が外部に伝われば、物珍しさから人が集まる。最初の半年が正念場です」
……この人は、数字だけじゃなくて情報の流れ方も読んでいる。
「フィーネさん」俺は言った。「今、仕事を探していますか」
「それを聞くために来ました」
彼女は真っ直ぐに俺を見た。
「ドナルト商会の内部不正を上部に告発しました。証拠を揃えて、書面にして、正式な手続きを踏んで。それでも揉み消されました。商会の幹部は王都の有力貴族と繋がっていましたから」
「追放は?」
「証拠書類ごと焼かれて、今後いかなる商会にも雇用されないよう手が回されました」フィーネは一切の感情を乗せずに言った。「普通なら終わりです。ただ、私が出入り禁止にされていない場所が一つだけありました」
「ここ、ですか」
「帝国との交易路が復活する可能性があるとすれば、ヴァルデン領を経由する旧東街道しかありません。ドナルト商会が手を伸ばせない、数少ない空白地帯です」
交易路の話が出た。
帝国との東街道。それは俺もずっと気になっていた。古代都市の設計図に、明らかに大規模な物流拠点の痕跡があった。この地が魔素汚染で廃れる前、ヴァルデンはグランツ王国と帝国を繋ぐ要衝だったはずだ。
「交易路を復活させられますか?」
フィーネの声に、初めて熱が宿った。
「試算が正しければ、できます」俺は答えた。「ただ、俺一人の手には余ります」
「私一人でも足りません」
「二人なら?」
少しの間があった。
「……やってみましょう」
フィーネ・ラウシェンバッハはそう言って、ペンを帳簿に挟んだ。
ヴァルデン領の経済担当が決まった瞬間だった。
その夜、ゴルドと三人で酒を飲んだ。
「ったく、追放者ばかり集まりやがって」ゴルドが盃を傾けながら言った。「俺もそうだがな」
「あなたも追放ですか」フィーネが帳簿を閉じながら聞いた。
「ドワーフの里を出たのは自分の意思だが、居場所をなくしたって意味じゃ同じだ」ゴルドは鼻を鳴らした。「若、お前は?」
「追放です、一応」俺は苦笑した。「でも、まあ」
広場に設置した魔素炉の明かりが、夜のヴァルデンをぼんやりと照らしていた。廃墟の石壁に光が落ちて、影が踊る。人口三十二人の、辺境の、消えかけた土地。
「俺は好きですよ、ここが」
ゴルドが何も言わずに頷いた。フィーネは帳簿を開いて、すぐに何かを書き始めた。
それが彼女の、返事だったと思う。
翌朝、フィーネは夜明けよりも早く起きていた。
俺が広場に出ると、テーブルの上に三種類の収支計画書が整然と並んでいた。楽観シナリオ、基本シナリオ、悲観シナリオ。それぞれに数十項目の試算。
「いつ作ったんですか」俺は目を瞬かせた。
「昨夜です」フィーネは眼鏡を押し上げた。「バックアッププランが不十分と言いましたから、まず自分で作りました」
「……全部?」
「計算は得意です」
俺は設計図を広げていたが、しばらくその計画書から目が離せなかった。
「美しい」俺は思わず言った。
フィーネが、ほんの少し、照れた顔をした。
その日の午後、ゴルドが外壁の補修をしながら呟いた。
「妙なもんだな。ここには帰る場所をなくした奴しか来ねぇ」
……ああ、なるほどな。
追放された者たちが集まる土地。それが今のヴァルデンだ。でも、それが悪いとは思わなかった。むしろ逆で——帰る場所をなくした人間は、強い。守る場所を自分で作ろうとするから。
翌朝、フィーネが俺のところに計算書を持ってきた。
「カイル様、一つ確認させてください」彼女は真剣な顔で言った。「ドナルト商会の名前を、どこかで聞いたことはありますか」
「ないですね」
「そうですか」フィーネは小さく頷いた。「……いずれ、聞くことになるかもしれません」
その言葉の意味を、俺はまだ理解していなかった。




