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化物とモノノ怪の宴  作者: 石上あさ
4/6

百眼__4


「佐藤先輩めっちゃちやほやされてたね」

「そりゃあそうでしょう、あのひと仕事しかできないんだから」

「絵に描いたキャリアウーマンって感じよね」

「そんなかっこいい感じでもないでしょ、あの人は。

それより見た?佐藤先輩のあのモノノ怪についての記事」

「見た見た。

たしかこの社会の中にも変な力を持ってる人間だかなんだかが

うろついてるかもしれないってのでしょ」

「そうそう。妖怪はあんただっつーのって話よ。

この前橋本さんが社交辞令で挨拶してたのにも冷たくしてたのよ、妖怪仕事おばさん」

「ひっどいあだ名つけるねー。てかなんだかんだ橋本さんが――」


 彼女は一層、身を縮こまらせた。

息をするのさえ必死にこらえた。

それほどまでに過敏になっていた。

自分のことが話題にのぼるだけで逃げ出してしまいたくなった。

この姿を誰にも見られるわけにはいかない。

そうなれば最後だ。

あの程度の陰口ではすまされない。

世の中から社会すべてから迫害され、

よくて実験室か何かで科学のためにモルモットとして貢献するくらい。

悪ければーー


 --悪ければどうなってしまうんだろう。


 暗い空想はどこまでも落ちて行って、底がないように思われた。

まさか自分がこんな秘密を抱えることになるとは思ってもみなかった。

これほどまでに惨めにおびえなければならなくなるなどとはただの一度も考えなかった。


 やっとのことで気を落ち着かせた彼女は、仕事に戻ろうと考えた。

それを彼女はこれっぽっちも馬鹿げているなどとは考えなかった。

いつまでもここにいるのは不自然だ。

家にいても何もしていなかったらそこに不安が滑り込んでくる。

恐怖がまといつく。仕事だ。仕事をして手を動かして、気を紛らわそう。

そうだそうするのが一番いい。

これといって趣味もなく、打ち明けた話をできるほど人に

心を許せない彼女が脆い心のよりどころとしてきたのは,いつだって仕事だった。


 これで自分は生きていくのだと血気迫る覚悟で佐藤は重い腰を上げて、

 震えをこらえながら化粧室を後にした。


 「おかえりなさい――、あら、佐藤さん大丈夫ですか?」


 デスクに戻るなり隣の社員が気遣った表情を見せた。


「ありがとう、でも大丈夫。最近ちょっと根つめすぎちゃっただけ」

「そう、ですか。それならいいですけど、顔色悪いですよ」

「そうね、今日の仕事が終わったら病院行ってみようかしら」


 佐藤はそれで話題を切り抜けたと思ったが、そうではなかった。

隣の女性社員は好奇の目でこちらを見てくる。

それは佐藤を怯えさせるに余りあるものだった。佐藤は不吉な予感が背筋にほとばしるのを感じた。


「そうですよ、おめでたい報告があったら教えてくださいよ」


 ーーは?


 と一瞬本気で口にもらしそうになった。

どうやら彼女の顔色の悪さと病院という単語を安易に結びつけて浅はかな連想をこしらえたようだった。

あきれ果てながらもしたり、と思った。

こういう手合いは騙しやすいから助かる。


「もう、そんなんじゃないってば」


 普段作らない愛想笑いまでおまけした。

それでようやく心の余裕を少しだけ取り戻した。

そうだ。私はこれまで私がすっぱ抜いてきた奴らとは違う。

そう簡単にボロは見せない。この程度簡単に切り抜けられる。


 佐藤は己の観察眼と人間に対する理解を過信していた。

なによりも己を過大評価してそれに溺れていた。

それでも心が落ち着きを取り戻すにつれて、周囲のことが視界に入るようになってきた。

働き蟻のようにせわしなく動いている人間たち。

その中で、またもあの人物が目に留まった。


 それはもちろんあの橋本だった。

 橋本は、今日は違うデスクの、佐藤と同じくらいの年の社員に話しかけていた。

その様子を眺めるとまた脳の注意が橋本と、府の感情にばかり吸い込まれていった。

彼は相手によって器用に被る猫を使い分けることができるらしい。

なんだあいつ、誰にだって。

 そんなことは考えても仕方がない。はやく仕事に戻ろう。

誰にだってってのは本当だったんだな。こりゃあの田中も遊び相手の一人ーー

 違う、仕事をしよう。仕事をしなければ。


 佐藤は理屈で自分を丸め込もうとすればするほど深みにはまる悪循環には気づかなかった。

臨機応変に対処する柔軟さも欠けていた。

とうとう仕事そっちのけで、聴覚を橋本たちの会話に集中させてしまった。

またいかにも思わせぶりな会話を交わしながら通路へと消えていくようだった。

佐藤はそれをすっぱ抜きたい衝動に駆られた。

佐藤は愚かしくもそれをジャーナリストの職業病だと勘違いした。

ゴシップ記事にして社内にまき散らしてやったらどれだけ爽快だろう。

人の悪行を天下に知らしめ正義が行われるのを見るのはなんと心地いいんだろう。


 佐藤はもはや衝動の奴隷と化していた。

己の内側から湧き上がったものに支配されるままに身を任せた。


 そのときだった。


 いきなり彼女の下腹部の、あの裂けたあたりがもぞもぞし始めた。

気づいたときにはもう手遅れだった。

あの気味悪い目玉がひとりでに飛び出し宙に浮かび、

通路へと消える橋本たちを追いかけ始めた。


 佐藤はたまらす叫んだ。

 終わったと思った。社内の人間の注目がこちらに集まった。もう見られてしまった。

 いよいよここまでか。

 周囲がざわつきはじめた。奇異の視線が痛いほどに刺さった。


 佐藤はなすすべもなく項垂れるほかなかった。

己を保っていた虚しいプライドの全てを失った彼女は自暴自棄な気分になった。

もうなにもかもがどうでもよくなっていたのだ。

自身に対する冷笑が口角を醜くゆがませた。


 「佐藤さん、大丈夫ですか。どうしちゃったんですか」


 隣のデスクの社員が話しかけてくれる。佐藤は力なく目線だけでそちらを見た。

 ああ、こいつか。こいつと会うことももうないのか。

佐藤はそんなことに構うだけの余裕がなかった。現実逃避的な自己防衛に必死だった。

おいおいどうした、仕事のしすぎだろ、そんな声が耳に入ってくる。

 はあこんな職場ともやっとお別れか、せいせいする。

いまだ自分の殻に閉じこもっている佐藤だったが、その心に滑り込んでくる疑問がひとつだけあった。


 みんな、目玉のことを口にしていない――?


 おかしな話だ。

 あんなものが社内を飛んでいたらそれがたとえ誰かのイタヅラに過ぎないとしても大騒ぎになる。

そして見つかり次第首謀者は、それこそ大目玉を食うことになる。

通路からも悲鳴が起こってはいない。どういうことか。これは、つまり、つまり――


 自分の幻覚に過ぎない?


 彼女はもう一度あの目玉があったあたりをさすってみた。

あのしこりがなくなっている。

 あれ?と思ってもう一度、そして何度も繰り返してみる。

やはりない。そうとしか思われない。彼女はもう一度あたりを見た。

視線はすべて自分に向けられている。

早い人間は緊急事態でないと判断して仕事に戻っているものもある。

疑問が確信にかわった。これはいける。

どういう仕組みか知らないが、まだアレは見られていない。隠し通せる。

そもそも存在自体がまやかしだった可能性すらある。

何はともあれこの場は切り抜けられる。


「あ、ははは、すみません、ゴキブリがいたものですから」


 すると小さく、怯えるような声があがった。無論女子社員のものだ。

中には傍らの男性社員に上目遣いをするものまである。

佐藤は、しかし驚くほど安らかにそれらを無視することができた。

自身を縛り付ける恐怖から逃れられた安堵のほうが大きかった。

安心は人を幸福にする。些細な苛立ちも妬みも包まれ溶けて消えてしまう。


 佐藤は大きな仕事を終えた人のように椅子に背中を預けた。

するとゆっくり目を閉じて大きく息を吐き出したとき、

彼女の瞼の裏――比喩ではなく本当に瞼の裏としか思われない――になにかの映像が映った。


 これは……。ありふれた、というより見慣れたオフィスの給湯室。

 スーツを着た男女が絡み合っている。男の方はすらっとした好青年。

橋本に似ている、どころか橋本だった。女のほうはさきほど一緒に出て行った女だ。

そこを第三者視点で眺めている。こんなに距離が近いのに二人は気付いていない。

佐藤は意識を凝らしてもっとよく見ようとした。

するとそれに反応するように視点も接近した。


 声は入らない。触覚も嗅覚情報もない。ただ映像のみ入る。

佐藤が事態を飲み込むのに要したのは数秒程度だった。

佐藤はその第三者を操って壁にぶつけてみた。

二人が物音に気付いてこちらをみる。次にあたりを見回す。気味悪がっている様子だった。

佐藤はニヤつくのをこらえるのに必死だった。そうかそうか次第にわかってきた。

 

 実態はあるものの、私以外の人の目には映らない。

あらゆる光学情報をもたない完璧なステルス偵察機。

壁をすりぬけることはできないが、目玉ほどの大きさがあればどこへでも忍び込むことができる。


しばらく二人を気味悪がらせて満足した佐藤はゆっくりと瞼を開いた。

いつもどおり、自分の「本体」から見える景色。


 そう考えたことは、佐藤がすでに己だけでない「分身」を手にし、

かつそれを利用する気構えがあることを示していた。


 佐藤は考えた。いや、極めて浅はかな悪だくみを始めた。

実態があるというのは一見不便に思えるが、見ようによってはこれは使える。 


 彼女は尾行に回していた目玉を呼び戻して、気にくわない同僚のペン立てをこづいた。

同僚はいきなりペン立てが倒れたことに驚きつつ、

一度仕事を中断して散らばったペンを拾い集めなければならなかった。

彼女は愉快になった。するとそこへさきほどの橋本が歩み寄っていって拾うのを手伝った。

佐藤の愉快はすぐに不愉快へ急転直下した。あの好色スケベ猿め。


 けれども佐藤には今までにない気持ちがあった。

 本人はそれを余裕と思い込んでるらしかった。


 何よりの欠点は現場をいくら抑えても証拠にならないことだった。

証拠を保存する能力が欠落している。音声も聞こえない。

あの目玉を仕事に役立てるには工夫を要した。

だが、たとえば秘密の現場を目撃したとして、

時刻、場所、服装、人相、周囲の事細かな情報は全て手に入ることには違いないから、

秘密さえ握ってしまえば、それをネタにして相手を揺すってほかのネタの証拠を引き出す、

ということは少なくとも可能に見えた。


 そんなヤグザな妄想は佐藤の体に活力をみなぎらせた。

なんてスリル!やっと退屈な日々から逃れられる。

ありふれた仕事漬けの毎日がサスペンスな日々へと変貌するのだ。

いくつもの駆け引き、命がけの取引。


 彼女は自分が求めてやまなかった、自分に相応しいスリルに満ちた日々がやっと

手に入ったと感じた。


 毎日がつまらないのはほかならぬ自分自身がつまらないせいなどとは

つゆほども考えなかった。



 


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