百眼__5
〇 〇 〇
それから彼女はあらゆる謀略に身を投じていった。
汚職にまみれる政治家に正義の鉄槌を下し、
彼女が応援していた俳優と結婚した有名女優は世論による魔女裁判にかけた。
何人かの人間が自ら命を落とした。
彼女にとってそれは退屈を紛らわせるスパイスでしかなかった。
彼女は人が流れの激しい川に飛び込む、その瞬間さえ目撃したことがあった。
それは四年半もの間苦楽を共にした同期だった。
彼女は部屋でそれを見ながら笑い転げた。人間はなんて面白いんだろうと思った。
すべての秘密は掌の上。自分はいかようにでも人を支配し操ることができる。
さながらあの目玉のように。
彼女は思った。人生はなんて脆い。
たかだか秘密の一つ二つで人の仕事を奪うことも命を落とさせることもできる。
情報社会、電波の通じるすべての場所はその人が落とした首のさらし場になりうる。
彼女は目に見えて業績を上げていった。
とり憑かれたように仕事にのめり込んでいったし、
実際彼女は途方もない執着にとり憑かれていた。
そのころにはもう、社内のだれもが彼女に恐れを抱いていた。
まともに対等に接することはできなくなっていた。
彼女の機嫌を損ねたものはみな、不幸な末路を辿って行ったからだ。
その誰もが秘密を暴かれ、常に監視されているような不安に苛まれ、
やがて会社を去っていくものが後を絶たなかった。
人々は彼女の耳に入るのを恐れながら噂しあった。
「ありゃあ『モノノ怪』だよ、間違いなく」
実際彼女には人間らしからぬところがあった。
人を人とも思わない冷酷さだけではない。
その場に居ながらにして、突然海外のネタを手に入れたり、
証拠もないのにスクープを前もって予言したりすることがあった。
その予言は全て必中だった。また、だんだん皮膚の色さえ黒くなっていった。
何日もぶっ続けで睡眠も食事もとらないで仕事を続けているのに疲れた様子を見せなかった。
社内の人間は、あの人は人の秘密や噂を食べているんだよと噂しあった。
冗談が生んだ言葉であったが、それはどこか本質をえぐる鋭さをもって響いた。
心から冗談だと笑えるものはいなかった。
次第に人々は彼女を遠ざけ始めた。
そのころ、彼女の体中に生える目玉の数は増える一方だった。
いくつもの目玉が彼女の体を覆った。
彼女にしてみれば監視の「目」が増えることは喜びでしかなかった。
けれどもあるとき厄介なことが起こった。彼女の口のところにまで目玉が生えてきた。
彼女はやむなく仕事をやめた。まともに話すことが不可能になったからだ。
それでも彼女は悲観しなかった。仕事をするのに口はいらない。
目と手さえあればメールでやりとりができる。出社しなくてもここから仕事はできる。
そうして彼女は自宅に引きこもるようになった。
それでも生活に支障はなかった。
口を失ったことにより、彼女は物を食べることができなくなったが、
不思議と空腹は感じなかった。
その代わりにより多くの秘密を貪るようになった。
彼女は人の評価を落としうる秘密を求めてやまなかった。
生活するのに食べ物などいらない。鼻も失った。呼吸もできなくなった。
彼女の生活にはなんの変化もなかった。生きるのに空気などいらない。
やがて、目玉は顔中を覆い隠した。耳までも失った。
彼女はそれらの変化に注意を向けなかった。
人目に曝されない彼女には意味のないことだった。
彼女は来る日も来る日もスクープを求めた。そしてそれを公表することを糧とした。
それが生活のすべてだった。ほかに何一つとしてしたいこともするべきことも見当たらなかった。
魚が泳ぐように、鳥が空を飛ぶように、人間が考えるのと同じように秘密を漁りつづけた。
この日も町中に目玉を飛び回らせてネタを探していた。
すると、目玉の一つがとある窓の隙間をとらえた。
そこはとある高級マンションの最上階だった。大したご身分の人に違いない。
目玉は迷いなく遮光カーテンを暖簾のようにくぐっていった。
どうやら引きこもりが住んでいるらしい。
部屋は真っ暗で、その中にパソコンの画面だけがぼんやりと光っている。
その光景は真夜中の自動販売機を思わせた。
パソコンは三つの画面があって、よほどの金額をここにつぎ込んでいるように思われた。
カタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。ディスプレイに文字が溢れていく。
よほどの長文をよほどの長文を綴っているらしい。
そのとき、違和感がよぎった。
なんとなく、心が乱れ始めた。
違和感は不安を呼び、不安は焦りを生み出した。そしてすぐに気づいた。
部屋の中には人間がいない。
キーボードを叩いてるはずの人間がいない。
そんなことには気づいていないかのように当たり前にタイプされるごとに文字が生まれていく。
これは、透明人間というやつだろうか。その存在を考えなかったわけではない。
なにせこの目玉だって人の目には映らない。
それどころか動力なしに浮かび、飛ぶことができる。
科学への冒涜など彼女にとっては日常の一部でしかなかった。
彼女は透明人間の存在を割とたやすく受け入れた。これはこれでいい記事になると思った。
どこかにいるには違いないと思っていたが、実際に目のあたりにするのはこれが初めてだった。
同胞を見つけたとは思わなかった。彼女の辞書にそんな言葉はなかった。
また新しいネタを手に入れた快楽だけがあった。
どう書いてやろうかと捕まえた動物の料理方法を考える猟師のような顔つきになった。
この瞬間が一番愉快だった。
そのときある疑問が湧いてきた。
目玉が目に映らないというなら、口も耳も失ってしない、
全身目玉と化した自分はどう映るんだろう。
それはごく単純な疑問でもっと早く気付くべきことではあるものの、
他人を噂することを楽しむのに対し自分が噂の種になることを何よりも不快に感じる彼女が、
他人を観察したがるのに比べて自分を顧みないことは、当たり前といえば当たり前だった。
彼女は何日かぶりに椅子から腰を上げて鏡の前に立ってみた。
そして驚くべきものを目の当たりにした。
そこには誰も映っていなかった。
ありえない。そんなわけはない。
こんなにも目立つ化物が、異形のものが、はっきりと自分の目には映っているのに。
真っ黒い肌。全身を蝕む目玉。掌にも手の甲にも、口にも耳にも。
そのすべてが人の弱みを求めてきょろきょろと、せわしない。
彼女はしばし立ち尽くした。あの目玉は人の目には映らない。
そして自分の身体の一部ですら映らないということは、
自分の全身はすべてこれ目玉と化してしまったということだ。
彼女はもう一度鏡をじっくり眺めてみた。
やはり、なにもない。
もともとあったあの両目でさえ、映ってはいない。
自分は唯一残るかもしれなかった昔の身体の名残さえ失ってしまった。
自分の身体は全て丸ごと変わり果てた。
もう、自分はどこにも人間らしいところがない。
事実彼女はもはや人間でなかった。
ましてや「佐藤沙穂」であるわけがなかった。
・・・・・・・・・・・・私は、『モノノ怪』になってしまったのか。
今までどんな変化をも受け流してきた彼女はここにきて初めて、立ち止まってしまった。
自分が自分でないのなら、何のために生きればいいのだろう。
だって私はもう「佐藤沙穂」ですらない。人間ですらない。
じゃあ死ぬのか?死んで何になるのか。
じゃあ生きるのか?生きてなんになる。いかにして生きればいい。
そんなことを考えているうちにも「腹が減る」。
つまり彼女はまたも暴露を求めていた。彼女の身体がではない。
彼女の存在そのものがである。
その衝動に身を任せ理性を捨てたからこそ彼女はかような姿に変わり果てた。
ゆえに彼女にあらがうことなどできようわけもなかった。
本体たる「佐藤沙穂」が目玉を操っているものと信じていた彼女はここにきて初めて思い知った。
彼女の意志や思考とは関係なく、目玉が町中を飛び回っている。
いまや主導権は目玉にある。
目玉はさながら寄生虫のように自分の身体にとり憑いて内側から彼女を蝕んでいった。
そしてついには宿主を食い破り、そのすべてを自らの支配下に置いたのだ。
その糧としたものは何だ?
まぎれもなくそれは不安と恐怖だった。
古い伝承、都市伝説、迷信、宗教それらのすべては、
人の弱さとそれゆえの惑いによって培養されてきた。
そしてそれが、人から生まれたものに人が吸い取られてしまった結果これだ。
加えて同僚たちの抱いた彼女への不安と恐怖、
さらには後ろめたい人間のもつ、報道されることへの、いやそれだけですらないかもしれない。
この情報社会と銘打たれた監視社会の中における不安と恐怖、
それら社会に霧散していたものが雲が雨粒となるようにひとつの形を結んだものがこれだとしたら。
そんな思索をよそに身体がひとりでに動いてキーボードを叩く。
目を皿にしてディスプレイを食い入るように見つめる。
どこにある。
この空腹を満たしうる秘密はないのか。
町中をうろつく目玉からの情報も入ってくる。
噂する人。噂する人を噂する人。盗撮する人。それをまた盗撮する人。
際限のないやりとり。無意味な行動。
次第に自我が薄れていく。
余計な思考が抑制され、自分のもてる全てを探すことに傾けるよう「本体」から強制される。
再び衝動が湧き上がってきた。奔流となり彼女を飲み込んだ
。頭の中が苛立ちと劣等感でいっぱいになった。
他人を貶めるための秘密を余計に求めた。
それこそが、彼女の生きる目的でもあり、生きる手段でもあった。
彼女はそれらの中に溺れて沈んでいった。何をしても無駄に思えた。
彼女は現実から、そして己自身の真実から目を背けるために余計に観察にのめりこんだ。
さきほどの透明人間のことはもう、放っておくことにした。
なんだかひどく息が詰まった。
こんな感覚は久しぶりだった。
彼女はもう何週間ぶりになるのか、窓を開けた。
そしてーーしまったと思った。
この瞬間、彼女の脳裏にあるのはさきほどの「透明人間」だった。
あそこは遮光カーテンがしてあった。普段なら外から中を窺い知ることはできない。
けれども偶然そこが開いていたからこそ目玉はあの中に入ることができた。
これが意味することは明確だった。
この瞬間に外で待ち構えていた目玉が入ってきたかもしれない。
彼女は慌てて窓を閉めた。それでも落ち着かなかった。
もし本当に目玉が既に入ってきてしまっているのなら、
むしろ閉じ込めてしまったことにさえなる。彼女は室内を睨みまわした。
無論何もない。あったところで見えはしない。
彼女はそばにあった毛布を手にして部屋中をはたき回った。
見えなくても実態はあるはずなのだ。ならば覆い隠すなり撃ち落とすなりしてしまえばいい。
そうした考えから彼女はひとりきりの自室で暴れ散らかした。
奇声さえあげることができなかった。
口をなくした彼女にできるのはくぐもったうめきをあげることだけだった。
無機質なディスプレイの明かりがそれを冷たく照らしていた。
彼女はあるとき、急に動きを止めた。こんな様子が監視者に伝わってしまったら。
自分はいい物笑いの種だ。お笑い草だ。
自分がこれまで秘密を暴いて民衆に提供してきたその嘲笑されるべき立場に、
今度は自分が立っている。
彼女はもう一度室内を見た。
猜疑心だけが急速に、際限なく膨らんでいった。
彼女の脳に浮かんだのはいくつものぬるぬるした目玉に埋め尽くされた自分の部屋だった。
そしてそれを通じて不特定多数の人間に冷笑されている自分自身だった。
彼女はもはや人でなくなったのに、良心などとうの昔に捨て去ってしまったのに、
疑い苦しむ心だけは残っていた。
そのことを恨めしく思った。
いつからだ。
いったいいつから自分は監視されている。
根拠のない不安は彼女にとって真実だった。
彼女は自ら生み出した不安という化け物によって
自らが苦しめられているのだとはつゆほども考えなかった。
妄想は加速していった。
もしかしたら、仮に遮蔽物があったところで、
千里眼だとか何だかでこの部屋の中を見通すものがあるかもしれない。
いや、そもそもあんな化け物が窓を開け放しにしておくこと自体がおかしかった。
あれはこちらの疑念を煽り、閉塞感を植え付け息苦しくなった自分に
窓を開けさせるための罠だったのだ。
なんてことだ。まんまと向こうの策に嵌ってしまった。
歯止めをなくした思考は虚しい空回りを続け、
その分だけ彼女は真実から遠さかり、苦しみを深くした。
この世に異形のいることを知っているがゆえに説得力が増すように思われた。
そうでなくとも科学の力を使えば盗聴、盗撮はいとも簡単に行うことができる。
もはや安全と考えるほうが難しい。いったいそいつは誰だ。心当たりなら山ほどあった。
自分が陥れてきた人間。自分を妬ましく思っている同業者。数え上げればきりがなかった。
彼女が積み上げてきたものは他人からの恨みだけのように思えた。
彼女は、もう発狂してしまいそうだった。
狂してしまいそうなのにそうなりきれないのが悔しかった。
正常でいることがなによりも辛いと、彼女は考えていた。
とっくに狂いきっているとは露程も考えなかった。
それでも彼女は気の散る地獄のような幻の注視を浴び続けながらも
それまでと同じ日課に明け暮れた。しかし紡がれる時間はまるで違った。
彼女の心はこれ以上ないほどの苦しみに苛まれ続けた。
打ち明けることも助けを求めることも許されなかった。
そしてある日、部屋に呼び鈴の音が飛び込んできた。




