表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/14

第14話 田舎カフェは今日も静かに忙しい


 朝の空気は、少しだけ冷たかった。


 店の前の砂利を踏む音が、自分の足だけだと分かる静けさ。


 都会にいた頃、朝は音から始まっていた。電車、クラクション、急ぎ足、コンビニの自動ドア、会社の自動ドア、上司のため息。


 ここでは違う。


 最初に聞こえるのは、鳥だ。


 それから風。


 最後に、俺がシャッターを開ける音。


 五年前、株式会社アーク・サポートを辞めた時、まさか本当に店をやるとは思っていなかった。


 思っていなかったが、気づけばここにいる。


 山と田んぼのあいだみたいな場所で、小さなカフェをやっている。


 店の名前は、風待ち珈琲。


 名前の由来は特に深い意味はない。


 ただ、この土地に来て最初に思ったのが、風が通る場所だな、だったからだ。


 シャッターを上げる。


 木の扉を開ける。


 店内はまだ静かで、木のテーブルと椅子が朝の光を受けている。


 席は十二。


 それ以上増やさなかった。


 増やせば売上は伸びるかもしれない。


 でも、その分忙しくなる。


 忙しくなると、人は急ぐ。


 急ぐと、コーヒーはうまくなくなる。


 これは五年かけて学んだ、俺なりの真理だ。


 カウンターの奥でコーヒーミルを回す。


 豆を挽く音が、小さく店内に広がる。


 この音が好きだ。


 会社員だった頃、朝はパソコンの起動音で始まっていた。


 あれはあれで文明の音だが、コーヒーミルの音のほうが、体には優しい。


 ドアの鈴が鳴る。


 まだ開店時間の十五分前だ。


 振り向くと、常連の農家のおじさんが立っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「早い?」


「いつも通りですよ」


「じゃあ座る」


 おじさんは、もう慣れた顔で窓際の席へ座る。


 五年前なら、開店前の客なんて完全に想定外だった。


 今は違う。


 田舎カフェは、だいたいこうやって始まる。


 開店時間より少し前から、人が来る。


 そして、だいたい帰る時間はゆっくりだ。


「今日は寒いな」


「少しだけ」


「ホット」


「ブレンドですね」


 おじさんはうなずく。


 もう注文を言わない客の領域に入っている。


 俺はカウンターでコーヒーを淹れる。


 湯を落とす。


 香りが上がる。


 窓の外では、畑の上を風が通っていた。


 いい朝だ。


 それから十五分もしないうちに、客が増え始める。


 観光の夫婦。


 近所の主婦二人。


 犬の散歩帰りの人。


 そして、地元の高校生が二人。


 この高校生たちは、だいたい毎週土曜に来る。


 理由は簡単だ。


 店のケーキがでかいから。


「店長」


 高校生の片方が言う。


「はい」


「今日のチーズケーキ、まだあります?」


「あります」


「やった」


 なぜか拍手された。


 店長という呼び方は、いまだに少し慣れない。


 会社員の頃、俺はだいたい白石さんか、たまにおい、だった。


 店長は響きがいい。


 だが同時に、ちょっとくすぐったい。


 カウンターの奥で注文を整理していると、またドアの鈴が鳴った。


 振り向く。


 見覚えのある顔が立っていた。


「よう」


 黒田だった。


 相変わらず、飄々とした顔をしている。


 スーツではない。


 カジュアルなジャケットに、なぜかやたら大きいカメラを持っている。


「何だそれ?」


「取材」


「何の?」


「ブラック企業から生還してカフェ店主になった男」


「やめろ」


 黒田は笑いながらカウンターに座った。


「繁盛してんじゃん」


「おかげさまで」


「いや、俺は何もしてない」


「店の噂、会社の連中に広めただろ?」


「それはした」


 黒田はメニューを見る。


「おすすめ」


「ブレンド」


「それしか言わないな」


「店だからな」


 コーヒーを淹れる。


 黒田は店内を見回した。


 木のテーブル。


 窓の外の畑。


 高校生がケーキを取り合っている。


 主婦たちが静かに話している。


「……いい店だな」


「そうか」


「うん」


 黒田はコーヒーを一口飲む。


「うまい」


「だろ」


「ちょっと悔しい」


「何で」


「会社にいた頃のおまえより、今のおまえのほうが顔がいい」


 それは最近よく言われる。


 真帆にも言われた。


 常連のおばちゃんにも言われた。


 鏡を見ても、少しだけ分かる。


 会社員の頃、俺はずっと眉間に力が入っていた。


 今は、そこが緩んでいる。


「なあ」


 黒田が言う。


「ん」


「後悔してない?」


 その質問は、五年前にも誰かにされた気がする。


 その時は、答えがぼんやりしていた。


 今は違う。


 俺は店内を見た。


 窓の外の風。


 コーヒーの香り。


 客の声。


 カウンターの上のカップ。


「してない」


 そう答える。


 黒田は少しだけ笑った。


「だろうな」


 その時、ドアの鈴がまた鳴った。


 今度は、見覚えのない客だった。


 スーツ姿の男性。


 少し疲れた顔。


 店の中を見回し、ゆっくり席へ座る。


「いらっしゃいませ」


 俺が言う。


 男はメニューを見てから言った。


「ブレンド、お願いします」


「はい」


 コーヒーを淹れる。


 湯を落とす。


 香りが上がる。


 カップを運ぶと、男は少し驚いた顔をした。


「いい香りですね」


「ありがとうございます」


 男はコーヒーを飲む。


 そして、少しだけ肩の力を抜いた。


「……落ち着きますね」


「そう言ってもらえると嬉しいです」


 その一言を聞いた瞬間、俺は少しだけ思った。


 ああ、これでいいんだな、と。


 会社にいた頃、俺の仕事はだいたい、誰かのミスを回収することだった。


 怒りを鎮めること。


 トラブルをなかったことにすること。


 夜遅くまで、何かが止まらないようにすること。


 今は違う。


 今の仕事は、コーヒーを出すことだ。


 ただ、それだけ。


 でも、その一杯で誰かが少し落ち着くなら、それで十分だと思う。


 カウンターへ戻ると、黒田が小声で言った。


「完全に店主の顔してるな」


「そうか」


「うん」


「会社員の顔よりいいか」


「だいぶ」


 黒田は笑った。


 外では風が吹いていた。


 田んぼの向こうで、鳥が飛ぶ。


 店の中では、コーヒーミルが回る。


 カップが置かれる音。


 客の小さな声。


 忙しい。


 でも、静かだ。


 この店で今日も、風を待ちながらコーヒーを淹れている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
文体がロス・マクドナルドのリュー・アーチャーシリーズみたいだな、と思いました。淡々としてる。けれど、軽くない。すごく面白いと言うと語弊がありますが、静かに残るものがある気がします。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ