第14話 田舎カフェは今日も静かに忙しい
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
店の前の砂利を踏む音が、自分の足だけだと分かる静けさ。
都会にいた頃、朝は音から始まっていた。電車、クラクション、急ぎ足、コンビニの自動ドア、会社の自動ドア、上司のため息。
ここでは違う。
最初に聞こえるのは、鳥だ。
それから風。
最後に、俺がシャッターを開ける音。
五年前、株式会社アーク・サポートを辞めた時、まさか本当に店をやるとは思っていなかった。
思っていなかったが、気づけばここにいる。
山と田んぼのあいだみたいな場所で、小さなカフェをやっている。
店の名前は、風待ち珈琲。
名前の由来は特に深い意味はない。
ただ、この土地に来て最初に思ったのが、風が通る場所だな、だったからだ。
シャッターを上げる。
木の扉を開ける。
店内はまだ静かで、木のテーブルと椅子が朝の光を受けている。
席は十二。
それ以上増やさなかった。
増やせば売上は伸びるかもしれない。
でも、その分忙しくなる。
忙しくなると、人は急ぐ。
急ぐと、コーヒーはうまくなくなる。
これは五年かけて学んだ、俺なりの真理だ。
カウンターの奥でコーヒーミルを回す。
豆を挽く音が、小さく店内に広がる。
この音が好きだ。
会社員だった頃、朝はパソコンの起動音で始まっていた。
あれはあれで文明の音だが、コーヒーミルの音のほうが、体には優しい。
ドアの鈴が鳴る。
まだ開店時間の十五分前だ。
振り向くと、常連の農家のおじさんが立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早い?」
「いつも通りですよ」
「じゃあ座る」
おじさんは、もう慣れた顔で窓際の席へ座る。
五年前なら、開店前の客なんて完全に想定外だった。
今は違う。
田舎カフェは、だいたいこうやって始まる。
開店時間より少し前から、人が来る。
そして、だいたい帰る時間はゆっくりだ。
「今日は寒いな」
「少しだけ」
「ホット」
「ブレンドですね」
おじさんはうなずく。
もう注文を言わない客の領域に入っている。
俺はカウンターでコーヒーを淹れる。
湯を落とす。
香りが上がる。
窓の外では、畑の上を風が通っていた。
いい朝だ。
それから十五分もしないうちに、客が増え始める。
観光の夫婦。
近所の主婦二人。
犬の散歩帰りの人。
そして、地元の高校生が二人。
この高校生たちは、だいたい毎週土曜に来る。
理由は簡単だ。
店のケーキがでかいから。
「店長」
高校生の片方が言う。
「はい」
「今日のチーズケーキ、まだあります?」
「あります」
「やった」
なぜか拍手された。
店長という呼び方は、いまだに少し慣れない。
会社員の頃、俺はだいたい白石さんか、たまにおい、だった。
店長は響きがいい。
だが同時に、ちょっとくすぐったい。
カウンターの奥で注文を整理していると、またドアの鈴が鳴った。
振り向く。
見覚えのある顔が立っていた。
「よう」
黒田だった。
相変わらず、飄々とした顔をしている。
スーツではない。
カジュアルなジャケットに、なぜかやたら大きいカメラを持っている。
「何だそれ?」
「取材」
「何の?」
「ブラック企業から生還してカフェ店主になった男」
「やめろ」
黒田は笑いながらカウンターに座った。
「繁盛してんじゃん」
「おかげさまで」
「いや、俺は何もしてない」
「店の噂、会社の連中に広めただろ?」
「それはした」
黒田はメニューを見る。
「おすすめ」
「ブレンド」
「それしか言わないな」
「店だからな」
コーヒーを淹れる。
黒田は店内を見回した。
木のテーブル。
窓の外の畑。
高校生がケーキを取り合っている。
主婦たちが静かに話している。
「……いい店だな」
「そうか」
「うん」
黒田はコーヒーを一口飲む。
「うまい」
「だろ」
「ちょっと悔しい」
「何で」
「会社にいた頃のおまえより、今のおまえのほうが顔がいい」
それは最近よく言われる。
真帆にも言われた。
常連のおばちゃんにも言われた。
鏡を見ても、少しだけ分かる。
会社員の頃、俺はずっと眉間に力が入っていた。
今は、そこが緩んでいる。
「なあ」
黒田が言う。
「ん」
「後悔してない?」
その質問は、五年前にも誰かにされた気がする。
その時は、答えがぼんやりしていた。
今は違う。
俺は店内を見た。
窓の外の風。
コーヒーの香り。
客の声。
カウンターの上のカップ。
「してない」
そう答える。
黒田は少しだけ笑った。
「だろうな」
その時、ドアの鈴がまた鳴った。
今度は、見覚えのない客だった。
スーツ姿の男性。
少し疲れた顔。
店の中を見回し、ゆっくり席へ座る。
「いらっしゃいませ」
俺が言う。
男はメニューを見てから言った。
「ブレンド、お願いします」
「はい」
コーヒーを淹れる。
湯を落とす。
香りが上がる。
カップを運ぶと、男は少し驚いた顔をした。
「いい香りですね」
「ありがとうございます」
男はコーヒーを飲む。
そして、少しだけ肩の力を抜いた。
「……落ち着きますね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
その一言を聞いた瞬間、俺は少しだけ思った。
ああ、これでいいんだな、と。
会社にいた頃、俺の仕事はだいたい、誰かのミスを回収することだった。
怒りを鎮めること。
トラブルをなかったことにすること。
夜遅くまで、何かが止まらないようにすること。
今は違う。
今の仕事は、コーヒーを出すことだ。
ただ、それだけ。
でも、その一杯で誰かが少し落ち着くなら、それで十分だと思う。
カウンターへ戻ると、黒田が小声で言った。
「完全に店主の顔してるな」
「そうか」
「うん」
「会社員の顔よりいいか」
「だいぶ」
黒田は笑った。
外では風が吹いていた。
田んぼの向こうで、鳥が飛ぶ。
店の中では、コーヒーミルが回る。
カップが置かれる音。
客の小さな声。
忙しい。
でも、静かだ。
この店で今日も、風を待ちながらコーヒーを淹れている。




