14-積もる不信
防水扉を開けて地上に戻ったナナとスイは、駐車場の向こうの張り詰めた冷たい空気に目を向けた。
「まだ降ってるわね」
「何処まで積もるんだ……」
四角く切り抜かれた景色の中で雪は降り続き、既に地面が薄く灰色に覆われている。溶ける気配のない雪の粒は積まれる一方だ。
「階段を探さないと」
ナナは白い息を吐き、さっさと現状を受け入れて先へ進む。立ち止まっていても腹は膨れない。
駐車場には車は殆ど無かった。視界に入る分だけだと三台のみだ。マンションの殆どの住人は旧時代の混乱の中、逃げようと出て行った。何処へ逃げようとしたかはわからない。
「階段ならあっちだ。上に行ったことはないけど、場所はわかる」
「そ」
指差す方へ方向を変え、ナナは階段を見つけた。スイを信用しているわけではなく、譬えそこに階段が無くても彼女は怒ったりしない。無ければまた探せば良いだけだ。行商機で覗かれていたことに比べれば瑣事だ。
駐車場の入口近くにある石の階段を適当に上がり、五階で一度廊下に出る。適当に近くのドアノブを握ろうとし、すぐに手を引いた。
「ドアノブが無い」
立ち尽くす彼女に、スイは呆れたように声を掛けた。
「入らないのか?」
「ドアノブが無いって言ったでしょ」
「俺は鍵を開けられる」
「ピッキングするの? 機械管理されたドアは工具で足掻いても開かないわよ」
「工具で開けるわけじゃない」
壊れた旧時代の街には幾つかの面倒な鍵がある。鍵を鍵穴に差して回せば開くドアは殆ど存在しない。鍵番号を打ち込んで開く物や、指紋や虹彩など生体認証で開く物など、通電していないと開く権利すら与えられない鍵が多い。
普段は建物の外観から推測して開けられそうなドアが付いている建物に入るが、今回は選べない。目の前のドアには、横に機械のパネルが付いている。厄介なタイプだ。
「ドアノブが無いドアは横開きの自動ドアだ。すぐに開く」
「へぇ。ドアに何かぶっ刺して、それをノブにして引くの?」
「野蛮な発想だな」
スイは鞄を下ろし、掌ほどの大きさの厚い板を取り出す。板と言ってもマッチ箱のような厚さだ。薄い蓋を開き、細い線をドアの横のパネルに繋げた。
ナナは彼の後ろから覗き込み、手元を見る。厚い板には小さなボタンがたくさん付いている。
「修理は難しいけど、通電させるだけなら簡単だ」
金具が付いた線を緑色の電気石に取り付け、電気を流す。
「できるの?」
「できる。閉じる指示のまま止まってるから、開くよう機械を騙して――」
慣れた様子で小さなボタンを叩く彼が何をしているのかナナにはさっぱりわからなかったが、腕力で開かないドアが簡単に開くのなら見てみたい。
数分の時間は要したが、スイが最後のボタンを押すと、沈黙していたドアが息を吹き返したように素直に横に開いた。
「な、簡単だろ?」
「機械を動かせるの?」
淡白な問いに、スイは得意げな顔になった。自慢とは、人間相手に語って初めて成立する。
「動かせる。俺が使ったこの操作機械は寄せ集めだから時間は掛かるけど、時間さえあれば何でも動かせる」
「何でもは言い過ぎじゃない?」
「う……でも何でも動かせるかもしれないだろ。擬似空を管理してた機械だって……」
「それを動かしたいの?」
淡白で端的な問いを続ける彼女に、スイは次第に気圧されていく。まるで犯罪の尋問を受けているようだ。
「夢……ではある。でもその場所は誰にもわからない。こうやって機械を動かす練習をして、出会った時にちゃんと動かせるように……って、お前にこんなことを語る義理は無い!」
夢まで語るつもりはなかったのに、尋問に答えてしまった。人と会話をするなど久し振りなのだ。口を開くとつい尻尾を振ってしまう。
「ほぼ全部語ったんじゃない? 聞いてほしかったのね」
ナナは乾いた笑みを漏らし、開いた玄関に入る。スイもパネルから線を抜き、鞄を担いで後に続いた。
鍵が締まっていただけあって、中は荒らされた形跡が無い。
「これで食料をたんまり備蓄してくれてれば最高なんだけど」
「台所は……こっちだな」
家族で住めるような大きな家だ。廊下にドアが幾つもある。もし食料があるなら家族分の収穫が見込める。
スイは早速台所に踏み込み、膝を突いて足元の戸棚に手を伸ばした。
「!」
その喉元に、鈍く輝く刃が滑り込んできた。背後から音も無く、空気の一部とでも言うように、気付いた時にはそれが喉元にあった。
「私……汚れ仕事は得意なの」
感情の籠らない声が頭上から降りてくる。スイは唾を呑み、振り返ることもできず息を殺した。元々物騒な女だとは思っていたが、仮にも服や武器を与えた恩人に対して刃を向けるとは思わなかった。鼓動が一気に速くなる。スイには彼女に抗えるだけの身体能力がない。
「は……汚れ仕事って……俺を殺すのか……?」
「そうね。お前は一度、浮かれた足を地面に付けなさい」
「え……?」
「お前は私達のことを覗いてよく知ってるかもしれないけど、こっちはお前のことを何も知らないのよ。初対面ってことを忘れないで。初対面でいきなりセイのファンだの覗いてただの……セイは事を荒立てないよう冷静に会話してたけど、心の中では引いてるわよ。最初に言った『気持ち悪い』が全て」
「それは……星火さんを覗いてたことは謝る……でもお前が合流してたこととかニナのことは全く知らないんだぞ。つまり、ずっと覗いてたわけじゃない!」
「短時間であろうと覗いてたことに変わりないのよ。言い訳なんて見苦しいわ。セイは奏者であることを隠したいのにお前はペラペラとご機嫌に舌を回すし、名前も呼び放題。迷惑なのよ」
「え? そ、それは初耳だけど!? 奏者なんて万人に誇れるだろ……?」
「あちこち覗いてるなら、奏者が鴨にされて襲われることも知ってるでしょ?」
「でも奏者は……」
「お前は自分の意見を他人に押し付けて駄々を捏ねてるの。これ以上迷惑を掛けるなら、ここでお前の首を落とす。セイとニナには魚にでも食べられたって言っておくわ」
「お前達は……星火さんを『セイ』って渾名で呼んで仲良くしてると思ってたんだけど……。鴨にする奴ばかりじゃない……」
「名前を呼ばれると奏者だとバレるからって、セイに頼まれてるのよ。なのにお前は、近くに人がいるかもしれない開けた場所でペラペラと」
「そんな……」
「二人を危険な目に遭わせるなら、私が狩る。お前は奏者に近付く欲深い人間と同じ」
冷眼を細め、絞めればすぐに折れてしまうだろう首に鋭利な刃を食い込ませる。首の皮一枚どころではない、血が首を伝った。
殺される――スイは跳ねるように呼吸が浅く短くなる。首を動かさないよう震えを静める。言葉を間違えば斬られる。この女は本気だ。痛いと喚けば斬る。
「……俺が浮かれて……確かに、怪しかった。軽率だった……」
否定ばかりではナナを納得させられない。星火から見るとスイは不審者だ。
「でも……じゃあ、どうやったら俺が無害だって信じてもらえるんだ?」
「信用するかどうかの話をしてるんじゃないの。迷惑なの」
「お、俺ももう名前を呼ばない! お前らみたいにセイさんって……」
「馴れ馴れしいわよ」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「行商機はお爺さんが作ったって言ってたわよね。お前の証人になれるかしら?」
「無理だ……爺ちゃんはもう死んだ。年だったからな」
「それじゃあ、親は? 親ならお前の行動も見てるかしら?」
「それも無理だ。母親は俺が物心つく前に死んだって聞かされた。父親は魚に食われた。俺の腕と一緒に」
「証人はいないのね。なら、お前も死んでおく?」
「本当に野蛮だな……殺すことしか頭にないのかよ。……行商機なら潔白を証明できるかもしれない」
「信じられるわけないじゃない。さっきお前は機械を騙してドアを開けた。行商機もお前の意志で操作できるんでしょ?」
「……何で……折角憧れの星火さんに会えたのに、何で野蛮な女付きなんだよ! あ――くそ、星火さんと旅したかった……」
悔しくなり大声で零す彼を、ナナは憐れみを込めた目で見下ろす。憐れむと言うより呆れている。
「何でそんなに星火がいいのよ」
「星火さんは……たぶん、俺を助けてくれた」
「何? さっきはそんなこと言ってなかったじゃない。急に話を作らないで」
「本人の前はちょっと……心の準備と言うか、ちょっと照れると言うか」
ぼそぼそと小声になる。あれだけ星火に執着を見せてペラペラと喋っていたのに、突然照れられても意味がわからない。ナナは眉を顰めた。
「星火はお前のことを知らないって言ってたわよ」
「俺も姿は見てない。必死だったし……。ただ笛の音が遠くから聞こえたんだ。水面を叩く音にも負けない澄んだ音が聞こえて……だから俺は腕だけで助かったんだ!」
「姿を見てないのに、何で星火だと思うのよ。奏者は星火一人じゃないのよ」
「あの澄んだ音は星火さんに間違いない。……まあ……星火さんの家族……お兄さんとかも似た音を出すならもう誰の音がわからないけど……」
「星火の音……」
ナナは水溜りで聴いた彼の音を思い出す。確かに遠くまで届く、冬の空気のように澄んだ音だ。他の奏者の音も聴いたが、星火ほどの音色を奏でる者はいなかった。
「……はあ、じゃあ一旦保留にしておくわ。星火に確認した方がいいわね」
「!」
大きな溜息と共に、食い込んでいた刃が下げられる。スイは漸く満足に呼吸ができ、大きく息を吸って酸欠に陥りそうだった頭を擡げる。首に刃を薄っすらと入れられたことを思い出し、傷口を手で押さえた。
「どっと疲れた……」
「もし私に遣り返そうとしても無駄よ。私に触れる前にお前を殺す」
「こわ……」
はったりではないことはわかっている。刀を自身の体の一部のように嫋やかに扱う所は行商機で何度も見ていた。最初は刀に振り回されているだけだった幼い子供が、ここまで成長するなんて思わなかった。
「背後に立たれてると落ち着かないから取り敢えず離れてくれ」
「はいはい」
スイは冷静を取り繕うが、内心はまだ心臓が跳ね回っている。命を取ることに躊躇いの無い彼女を常に視界に入れて警戒しておく。逃げ出したい気持ちはあったが折角会えた星火を置いて行くことはできず、息を潜めることを選ぶ。台所の物色どころではなくなったが、地下集落で待つ星火のために食料は必要だ。
二人は閉口して物色を始める。台所の戸棚を開け、中に調理器具しかないことを確認して閉める。また別の戸棚を開け、袋詰めのレトルト食品の山を見つけた。
「未開封の物は全部食べられたらいいのにな」
「缶詰は無いの?」
「袋のレトルト……インスタント……だけだな。缶詰は無い」
缶詰ではないそれらも旧時代の中では消費期限が長い方だ。緊急時の備蓄として選択する人間はいる。二人もよく見つけている。だが何百年も変質しない物は無い。
「……ああ、乾パンがある」
「乾パンが好きなのかしら。何個?」
「……二個?」
「少ないわね。既に食べた残りかしら」
近くのゴミ箱の蓋を開けて確認する。食料の袋の他に乾パンの空き缶が二つあった。
「二個でも食料はありがたい。星火さんに持って行く」
鞄に缶詰を入れ、手ぶらでは戻らず済んだことにスイは胸を撫で下ろす。星火に顔向けできる。
冷蔵庫の中にも缶詰を入れる人が稀にいるため、冷蔵庫も開けてみる。
「うわあ!?」
突然悲鳴を上げたスイに、食器棚を見ていたナナは振り返る。その視界に冷蔵庫の中身が映った。
「……あら」
冷蔵庫に入れられていたのは食品ではなく人骨だった。頭蓋骨の大きさと腕や脚などの長さからして幼い子供だろう。
「……このパターンは、先に子供が死んで、直視できなかった人が保存のために冷蔵庫に入れたんだろうな……」
「保存? 死体を保存してどうするの? 食べるの?」
「怖いこと言うなよ。未練があるからだろ。別れたくないんだ」
「未練? よくわからない感情ね。他の部屋も見てみましょ。親の骨が出て来るかも」
「人の骨は何度見ても慣れないな……鳥は何ともないのに」
「それはわかるわ。人の骨は自分と同じだからでしょ。自分の中にもそれがあるから、剥き出しになってる骨が怖く感じる」
「お前は怖くないのか?」
「私はもう見慣れたわ」
素っ気なく言い、ナナは次の部屋へ行く。スイも冷蔵庫をそっと閉め、距離を取りながら無感動な彼女を追った。
* * *
地下集落でまずはニナの薬を探し始めた星火とニナだったが、最初に入った家で早くも見つかった。汚染抑制薬は現代の生命線だ。譬え地上に出ない人であろうと、万が一ということはある。念のために持っている人は多い。
「子供用の薬は少し小さい。これで合ってるはずだ。全部貰っておこう」
物色している間も外から物音はしない。この集落の住人は全滅だ。死体は薬を欲しない。
ニナの鞄に薬の入った袋を入れ、一粒だけ彼女に呑ませておく。
「薬の成分は大人用と同じだと思うんだが、詳しいことは知らないからな。前に呑んだ薬の効果が落ち着いた所だが、念のために呑んで」
「もう眠くならない?」
「子供用の容量だから大丈夫だ。大人用は鞄から抜いておく」
「ん」
薬の丸呑みにまだ慣れないニナは、その必要はないのに目を閉じて薬を喉の奥へ送る。気合が必要だ。
星火は大人用の薬を自分の鞄に戻しておく。半分渡してしまったので少々心許なかったが、戻って来て安心した。
「子供用の薬が他にも見つかったら貰っておこう。もう少し持っていた方が安心だ」
「うむ」
「地下集落の物色は慣れないな……何処からか住人が出て来て怒られそうで」
例外はあったが旧時代の人間はもういないので地上の家の物色には何も思わないが、地下集落は現代人が住む場所だ。存在の近さが、躊躇を生む。
「ここ以外に誰もいない集落に行ったことある?」
「一度見たことがある。そこはここみたいに死体は転がっていなかった。自然消滅みたいだった」
「人が自然に消える?」
「子供が生まれなくなったら人はいなくなるだろ? 元々集落の人数が少ないと陥り易い」
「成程。私が住んでた所は人がいっぱいいた。悪い人が好きな人がいっぱい」
「意外といるものだな」
隣家へと移動し、そこでも棚や引き出しを開ける。やはり食料は無い。
「もう一度、畑を見に行ってみよう」
「うん。食べられる草が残ってるかもしれないもんね」
「それもだが、凶作の原因もわかればいいんだが」
「解明するの?」
「わかりやすい原因があるなら、それを教訓にできる」
「新しい畑を作るの?」
「作らないが」
二人は居住区を出て農園へ向かう。
スイが案内してくれた農園は少しも変わらず存在していた。暗い開けた空間に土だけが広がっている。枯れたり萎れたり、収穫できそうな野菜は残っていない。
星火は萎れた野菜の前に蹲み、触れずに目視で観察する。
「病気……とかか? 僕もそういうのは詳しくないからな……。家でも集落でも農作業には関わらなかった」
「私もわからないけど、あそこに光る物がある」
「?」
顔を上げ、ニナが指差す方向に目を遣る。目を細めても星火には見えず、少し腰を上げてニナと同じ目線の高さでもう一度見る。
「ああ……確かに。何だ?」
カンテラの光を反射する角度があるようだ。二人は枯れた野菜を避けて土を踏み、光を確認に行く。
「…………」
光る物は掌ほどの薄くて円い物だった。
「これ何? 野菜? 硝子?」
「……嫌な予感がする」
言うや否や離れた場所で突然、畑に穴が空いた。最初は小さな穴だったが、地面が罅割れ、土の中からぼちゃんと音がした。
「! この畑の下……水だ! ニナ、逃げ……」
小さな穴が一気に大きくなり、水飛沫と共に大きな赤い物が下から飛び出した。
「さか……魚!?」
「わああああ!!」
穴から飛び出した物は確かに鰭や尾がある大きな赤い魚だった。大きな金色の目がぎょろりと虚空を見ている。そこまでは普通の魚だ。だがその魚はそれに加えて、腹部に逞しい二本の脚が生えていた。人の脚に似ている。
大きな魚に対する恐怖と言うより、未知の脚が生えた魚にニナは絶叫した。
星火はニナを抱え、一目散に逃げ去る。畑の落ちていた薄くて円い物は魚の鱗だ。魚なら銀笛が効くはずだが、果たして脚が生えたそれは魚なのか。蟹も魚に分類している現代なら魚と呼べそうだが、何せ見たことも聞いたことも無い脚だ。二足歩行をする生物など人か鳥類くらいだろう。
「セイ、笛は!?」
「近過ぎる! もう少し距離を取らないと奏でる前に遣られる!」
「あれも蟹かな!? 地面を歩……走ってる!」
「蟹はもっと脚が多い! それにあれは一般的な魚類の顔をしてる! 何で水から出て生きてるんだ!?」
農園を飛び出すが、魚の速度は変わらず明確に二人を追っている。足の速さは辛うじて星火に軍配が上がるが、あの魚の体力が如何程かは不明だ。
「ニナ、二手に分かれて走れるか? ニナを抱えていたら笛が吹けない。僕の方に来るよう誘導するから隠れていろ」
「走りながら吹けるんだっけ!?」
「難しいが、吹かないと死ぬ」
「頑張って吹いて!」
「万一笛が効かなかったら、機を見て上に行け。ナナなら斬れる」
「星火ぁ……」
「手を離すよ。向こうの居住区へ行って」
「う、うん……」
一瞬の迷いが命取りになる。ニナは迷いを振り払い、地面に着地した。少し蹌踉めいたが、指示通り居住区へと振り返らずに走った。
だがそう上手くはいかなかった。幾ら大きな物音を立てても、魚は星火の方を向かなかった。
「何でだ……?」
一度狙った獲物からは目を逸らさない性質でもあるのだろうか。星火は鞄から銀笛を抜き、魚を追って口元に構えた。
「いやあああ! 追ってきてるよ星火あ!?」
走ると上下の揺れが激しく笛が口から離れそうになるが、脇を締めて集中する。
「うわあああ食べられたくないよおぉ!」
ニナの叫びが笛の音を掻き消してしまいそうなので、なるべく大きな音を出すよう心懸ける。肺が悲鳴を上げている。酸素を吸う余裕が無い。
「お、追いつかっ……」
叫びながら走り続ける体力はニナには無い。足に体力を回し、喉は全力で呼吸をする。
澄んだ音色は狭い集落に反響し、魚にも届いた。
(止まらない……!?)
いつもなら音色を聴いた魚が動きを鈍くして水底に帰っていくはずの時間を過ぎても、走る魚の動きは鈍くなる気配すら感じられない。粘って吹き続けるが、全く反応が無い。
(こんな魚、初めてだ……鯨にさえ効いたのに!)
酸素を吸うためにも演奏は一旦止め、銀笛を鞄に差す。
足元に転がっていた木の棒を拾い、走る魚を追う。
「――ぎゃっ」
体力が尽きて足が縺れたニナは派手に転んだ。受け身も殆ど取れず、地面に叩き付けられるように転がる。
変な魚に食べられて死ぬ――こんな死に方など考えたことがなかった。ニナは顔を上げる余力も無く、起き上がれず動けない。
星火は全速力で駆けながら木の棒を構え、魚の脚を目掛けて思い切り振り抜いた。両手にじんと衝撃が伝わる。
魚も体勢を崩し、どうと倒れて勢いのまま地面を滑った。
「ニナ! 動けるか!?」
「うぅ……」
魚は起き上がれないのか、びちびちと跳ねている。急に魚らしい動きをする。
魚に警戒しつつ、星火はニナに駆け寄った。
「もう大丈夫だから、そのまま休んでいろ」
地面に伏せたままのニナの肩に手を置く。全身で息をしている。
星火は木の棒を構え、びちびちと跳ねている脚の生えた魚に向き直った。
(何度か殴れば死ぬよな……?)
「セイ、ニナ――ペンギン拾っ……」
覚悟を決めた星火の耳に、自棄に場違いな明るい声が響いた。
「殺す?」
その明るさを一瞬で消し、上から戻って来たナナは抱いていた白黒の生物を背後のスイに押し付けて刀を抜いた。
「ナナ! 良かった……この生き物は何だ?」
「脚が生えた魚……? 知らないわ。気持ち悪いわね」
「ナナにもわからないか……。笛が効かないから直接殴るしかなくて」
「笛が……? そこらの貧弱な奏者ならともかく、セイが追い払えない魚なんているの?」
「僕も驚いた」
「だったら私が殺すしかないわね。下がってて。今日のご飯が決まったわ」
さすがに星火は人のような脚が生えた魚を食べるのは躊躇する。だが話は後だ。
「ちょ、ちょっと星火さ……せっ、セイさん。その魚の脚、腹をぶち抜いてませんか? 別の生物なんじゃ……」
びちびちと動いていて付け根がよく見えない。ナナは躊躇いなく接近し、勢い良くその脚を踏み付けて止めた。
「……確かに、腹をぶち抜いてるように見えるわ。何が出て来るか、慎重に掻っ捌いてみましょ」
動かないよう足で押さえたまま、腹に鋒をほんの少し差し込む。中に何があるかわからないので、可能な限り中を傷付けないようにする。
頭の方から尾の方へ鋒を走らせ、足で魚の身を蹴り裂いて開く。中は半分ほど空洞で、大きな物が滑り出てきた。
「あああああっ……はあ、はあ……外……外だ!」
それは無精髭を生やした、がたいの良い人間の男だった。素っ裸である。
「元気なおじさんが産まれたわ」
「オジサンって名前の魚がいるらしいな」
「おい、服……何か羽織る物はないか? 僕の上着は貸したくない」
「セイさん! こっちの箪笥にありました!」
スイは素早く近くの家から丈の長い上着を取って戻り、全裸の髭男に掛けた。
「何て気遣いのできる優しい人なんだ……助けてくれてありがとう」
「いや……女性の前で裸は不味いだろ。幸いニナは顔も上げられないが」
「私への気遣いよ。おじさんは黙ってて。それより、これはどういう趣味?」
脚が動いていたのだから生きている想像はできたが、無事に人間が丸ごと出て来るなんて思わない。魚は多くが噛み千切って小さくしてから人を食べるが、大きな魚だと丸呑みするものもいる。それでも呑まれて無事だとは俄かに信じ難い。
「……ん? ヒスイ……? ヒスイじゃないか!」
息を整えながらも髭男は叫び、星火とナナは怪訝な顔をする。
「ヒスイ?」
髭男の視線の先にはスイがいる。スイは少し照れながら小声で注釈を入れた。
「……本名を名乗るのは嫌だったんで、咄嗟につい」
スイは水を表す。それを知られたくなくて嘘を吐いた。集落の人間全てに名乗ったわけではないが、数少ない名乗った相手が魚から飛び出してきた。
「宝石の翡翠か?」
「まあそんな感じです。似た名前だったので。似合わないですけど、水よりマシなんで」
「知り合いか?」
「ここに立ち寄った時に少し話した程度ですよ。何年も前に一言二言話した程度なのによく覚えてるな……」
髭男はふやけた体を起こし、地面に胡座をかいて座った。
「ここに住んでる人達の顔は皆覚えてるからな。見たことのない顔が出て来たらそりゃ覚えるだろ」
「そうか?」
「何から話すべきか……最初から話す方が理解できる」
「いいわよ。話して」
髭男は漸く息が整い、一つ深呼吸をしてから話し始めた。
「まず畑が……侵蝕に遭ったんだ」
「侵蝕?」
ナナは首を傾げる。彼女はそれを聞いたことがなかった。
「畑の下に水があったんだ。それが徐々に水位を上げて、畑に迫り上がった」
「へぇ。水による侵蝕、ね」
「水に浸かった根は腐り、作物はおじゃんだ。食料が無くなるってんで、残ってる食料を奪い合い、皆は争うようになった。あんなに仲が良かったのに……」
「極限状態で人は本性が出るものよ。化けの皮が剥がれたのね。余裕を見せられるのは平穏な時だけ、ってことよ」
「……。そこでオレは……いやオレ達は、侵蝕を食い止めるために畑の下に潜ることにした。元々下は生活用の水路だったんだ。それを汲み上げて使ってたから、下に汲みに行くことはなかった。大きな魚が来ないよう柵を立てて、安全を保ってた。だから魚の心配なんてせずに下に行ったんだ……」
ニナ以外の三人は、腹を開かれた大きな魚を見る。先が読めた。
「水位が上がったのは異常だ。もっと警戒すべきだった。柵が破られてたんだ。オレ達は巨大な魚に襲われた。最初は仲間が食い千切られた。オレは呑み込まれ、他の皆がどうなったかはわからない。そして……オレは再び外に出られた」
「急に飛んだな」
冷静にスイは指摘する。一番聞きたい部分が省略されてしまった。
「魚に呑まれて何で無事なんだ?」
星火も詳細を催促する。今後魚に呑まれることがあれば、生き延びる参考になるかもしれない。
髭男は若人達の真剣な目に頷き、何があったのか神妙に詳細を語った。
「魚に呑まれたオレは死んだと思った。だが体が切られたわけじゃない。このまま死んでたまるか、オレには美人の妻が待ってるんだ! それを動力に、オレは魚の中を食い千切った。何日も腹の中にいた気がする……だが食ったお陰で腹は満たされていた。魚なんて食べられると思わなかった……だが汚染された毒物だ。魚から出てもオレはすぐに死ぬかもしれない……でも妻に自分で別れくらいは告げたいじゃないか! そしてオレは負けずに魚を食い荒らしたんだ」
「要はお刺身を食べてただけよね? 何で脚を出したの? 気持ち悪い」
「外に出ようとしたんだ。ひたすら蹴ってたら、身を食べて薄くなった腹を突き破ったみたいだ。そこから先は支えて出なかった」
「理解できたわ。しぶといってことが」
刃を丁寧に布で拭き、ナナは刀を鞘に納めた。武器を下げられ、髭男も安心する。
屈強な精神と肉体で奇跡的に魚の体内で生きていたようだ。参考にはできないが、称賛には値する。
「それは理解できたが、何でこの子を追ったんだ? 僕の方は見向きもしなかった」
星火は未だ地面に伏せたまま動かないニナを目で指す。
「誰を追ってたのかオレにはわからなかった。何せオレの顔は魚の中だ。見えてない。足音が聞こえたから追ったんだ。兄ちゃん、足が速いだろ。その子の方が音が大きくて遅くて追い易いと思ったんだ」
「ああ……」
走り慣れていないニナは走る時にばたばたと騒々しく地面を叩く。今後静かに走るよう走り方を教えた方が良いかもしれない。
「……で、だ。家の周りでこんなに騒がしくしてたら誰かが覗きに来ると思ったが……来ないな。もしや今は夜か?」
三人は様子を窺うように横目で視線を送り合う。この集落を訪れてから生者を一人も見ていない。
「……僕達がここに来てから、死体しか見ていない。まだ全部を見回ったわけじゃないが……物音は聞こえない。人がいそうな場所に心当たりがあるなら、自分の足で捜した方がいい」
気休めの嘘を言っても虚しいだけだ。星火は正直に話した。髭男は目を見開いて酷く怯えた表情をし、膝の上で拳を握り締めた。
「……わかった。オレは随分長く魚の腹ん中にいたんだな……まずオレの家を見て、食料庫を確認する。食料の残量を見れば、大体の推測はできる。君達は……集落では見ない顔だな。ヒスイと一緒に外から来たんだよな? 外に出て大丈夫なのか? 近くに集落があるのか?」
絶望が声の端々に滲む。疲れて掠れた声だ。何日も魚の腹の中にいた所為もあるだろうが、先程までとは明らかに声が沈んでいる。
髭男の空っぽの問いには、この集落へ案内したスイが答えた。
「この近くにここ以外の集落は無いと思う……。俺達は外から来た。雪が降ってきて、避難しようと思ったんだ。外は雪が積もってて、今出ると危険だ」
「ゆき……? はは……外は何だかよくわからない物が降ってくるんだな。確かに危なそうだ。そういうことなら幾らでも避難するといい。ただ、オレ達の食料は出せない」
「わかってる」
「はあ……もし助けを必要としてる人がいれば、おちおち休んでいられない。オレは行く」
「おう」
大きな背中は静かに哀愁が漂っている。このまま進んでも、彼が目にするのは妻の死体かもしれない。自分が死ぬことを伝えたかった相手が既に死んでいたとしたら。彼の絶望は計り知れない。
とぼとぼという表現が最も正確だろう。髭男の背中を見送る。
「もし皆死んでいたとして、もし食料が残ってたら分けてくれるかしら?」
「お前な……血も涙もない奴だな」
「血や涙で満腹になるのかしら? 死体に食べ物を供えても、死体はそれを食べない。生きてる人が死体に食料を譲ってどうするの? 私達はそんな甘い世界で生きてるんじゃないの」
「それは……でも、もう少し時間が経ってからとか……」
スイはちらちらと星火の方を見る。この女に何とか言ってやってくださいよ、という目である。
「それに関しては僕もナナと同意見だ。死者を尊ぶのはいいが、生きている人を空腹で倒れさせるのは違うだろ」
「勿論ですセイさん。セイさんの言う通りです」
「掌を返すのが早いわよ」
ナナは溜息を吐き、本題に戻す。随分と長く逸れていた。スイに預けていたペンギンを最初のように抱き上げる。そして倒れているニナの顔の横に置いた。
「見てニナ。これがペンギンよ。ニナより少し小さいかしら?」
「ペンギンって……大きいんだな。一メートル以上ありそうだ」
ニナが顔を上げるより先に、星火が声を上げた。ナナがそれを抱えて走って来てからずっと気になっていた。
「この子はアデリーペンギンだと思うわ。旧時代ではここまで大きくなかったはず」
アデリーペンギンに一メートルを超えるものはいない。このペンギンは特徴はアデリーペンギンだが、大きさだけならペンギンの中では最大のコウテイペンギンのようだ。
「典型的な汚染の影響だな。魚以外の動物だと珍しいが」
「それより見て、可愛い」
捕らえられたペンギンはきょろきょろと黒い頭を動かしているが、逃げようとはしない。ナナの刀からは逃れられないと諦めているのかもしれない。
「外にいたのか?」
「マンションで物色してる時に窓から見えたの。灰色の雪に黒いのが動いてたから目立ってた。この覗き野郎が弓を構えようとするから突き飛ばしたわ」
「突き飛ばされて壁に叩き付けられました。食料を探してる時に鳥肉が歩いて来たんですよ? 当然、射ちますよね」
「最初から無かった好感度が底無し沼に落ちたわ」
「二人共。喧嘩をするなら少し離れてくれ。ニナは限界を超えてこの有様なんだ。あの魚に追われて……道理で笛が効かないはずだ」
走っていたのは人間の足だ。人間は銀笛の音色では止まらない。
「可愛い……」
ぼそりと覇気の無い弱々しい声が地面から上がる。動くことを止めていたニナが漸く首を動かせるほど回復した。顔のすぐ近くに鎮座する白くて丸い腹を見上げ、ペンギンも白い縁取りのある円らな瞳で見下ろす。そしてペンギンはぱたぱたと小さな翼を上下に振った。
「私も……頑張って起きる……」
ニナは両手を地面に突き、ゆっくりと体を起こす。支える手が震えている。星火は手を貸そうとしたが、一人で頑張ろうとしている彼女に水を差すのはやめた。
まるで生まれて初めて体を起こした動物のようにゆっくりと、ぺたんと地面に座る。背筋は伸ばせないが、ニナは勝ち誇ったように顔を上げた。
「っ――」
その直後に小さな湿った音が響いた。翼を振っていたペンギンがその翼でニナの頭を叩いた。
「何だこいつ、喧嘩売ったぞ」
「激励よ。よく頑張ったね、さあ背筋を伸ばして、って言ってるわ」
「偶々当たっただけじゃないか?」
三人は各々の推測を述べ、ニナはきょとんと口を半開きにして頭を摩った。痛くはないが、戯れているのか嫌われたのかは知りたい。
「上に帰りたい……とかじゃないのかなぁ……」
三人は無言で言葉を咀嚼する。一番有り得そうだ。この中では一番小柄でペンギンと大きさの近い彼女が、ただ標的にされただけかもしれない。
取り敢えず星火は、走ったニナに労いとして飲み水の入った竹の水筒を渡した。




