賭けの報酬
季節の移ろいは早いもので、11月になると寒さも感じる様になる。
店ではそろそろ鍋物の季節がやって来る。
鍋と言ったらやはり「寄せ鍋」だ。
色々なやり方があるが、ウチの店では白菜を大きな葉のまま茹でて、水に晒して冷やした白菜の葉を簀巻きで葉を何枚も重ねて巻いて白菜の海苔巻状に巻く。
これを四等分くらいに円柱状に切り、これを土鍋の底に並べるのだ。
後は蛤、白身の魚、海老、肉団子、蟹、の具を入れて、更にしめじ、椎茸、えのき等きのこ類を入れる。そして仕上げに葱と春菊を入れて完成する。
出汁は煮方の由さんが味をつけるのだ。
今言った仕込みは本来、盛り付けの飛鳥の仕事だ。
まあ簀巻きの使い方さえ覚えれば訳は無いのだ。
俺の時もそうだったが、飛鳥も圭吾を使っている。
これは、やらせておかないとイザと言う時本人が困るからだ。
飛鳥は中々厳しくしている。圭吾は飛鳥より不器用なので、飛鳥は多少苛ついてるみたいだ。
だが、俺と同じで調理師学校を卒業してこの仕事に就いた俺たちと違って圭吾は全くの未経験でこの道に入ったのだ。長い目で見てやらないといけない。
俺は、その事を飛鳥に忠告するのだった。
飛鳥も「そうなんですよね。でも見てるとなんか、苛立っちゃって」
そう言って笑ってる。
それからは多少優しくなったみたいだ。
俺と言えば、実はそろそろ、刺身を引ける練習をしないとならない。
未だまだ先だが、「焼き方」を卒業すれば「煮方」だ。
出汁のとり方は盛り付けの頃にやっていたが、「煮方」になるともっと高度な技が要求される。
それに「煮方」は一応一人前扱いされるから、刺身も引けないとならない。
それには、「柳刃」と云われる庖丁を買わないとならない。
実は調理師学校で買わされたのだが、薄刃と呼ばれる野菜用の庖丁。これは桂むきに使う。
そして出刃包丁、そして柳刃である。
それに洋食用の牛刀とペティナイフと一応は持ってるのだが、牛刀とペティナイフは別としても、柳刃や薄刃はプロが使う様なものではない。だから薄刃は買ったのだ。
出刃はなんとか使えるシロモノなのだが……
だから今度の給料が出たら、浅草の河童橋に買いに行こうと思ってるのだ。
次の日が店が休みと言う日、珍しく柴崎さんが遅くまで残って飲んでいた。
若い編集者を連れて来て、色々と話をしていた。
やがてお勘定をして帰って行ったのだが、少しして戻って来た。
そして、調理場を覗ける所に立ち止まると
「正くん、ちょっと」と呼ばれた。
「はい、なんでしょう、忘れ物ですか?」
そう言う俺に柴崎さんは「まあ、忘れものと言ったらそうかな? 明日店休みだろう、用事あるのかい?」
そう意味ありげな言葉を口にした。
「用事、と言うかその……」
俺が口ごもったので柴崎さんは判ったらしく
「彼女か? ふうん、やるじゃないか! まあ彼女連れでも良いから少しの間、俺に付き合わないか?」
柴崎さんは恩人だ。その人の誘いなら断れない。
「あ、じゃあ、そっちは断りますから」
そう俺が言うと柴崎さんは、笑って
「いや、いいよ。一緒の方が好都合かも知れない。真面目に付き合ってるなら尚更だ」
そう言って約束させられてしまった。
12時に出版社の前と言う事になった。
次の日、12時に俺と真理ちゃんは、柴崎さんの務める出版社の前にいた。
会社の中を見ていると、中から柴崎さんがやって来た。
「やあ、お待たせ」そう言って真理ちゃんを見ると
「うん? 君は以前店で働いていた子だな。中々隅におけんな。でもいい娘と付き合ってるな。
確かこの娘はお店の中でも他の娘とは動きが違っていたからな……うん」
そう言って笑ってる。
真理ちゃんもなんか恐縮してしまって面白い。
「飯食いに行こう。寿司は嫌いか?」
とんでも無い!この世に寿司が嫌いな人間なんて居ないですよ柴崎さん。
「じゃあ、付いてきな」
そう言って柴崎さんは俺達を裏道へと連れて行った。
どこをどう通ったかは知らないが、俺達はある寿司屋さんの前に来ていた。
「朝、電話で予約したから大丈夫だと思うがな」
そう言って柴崎さんは引き戸を引いて入口を開いた。
「いらっしゃい!」
そう生きの良い声に迎えられて店に入る。
見ると、親方と思しき職人さん一人しか居なかった。
カウンターに座ると熱いおしぼりと熱いお茶がが出て来る。」
「親方、任せるからなんか握って」
柴崎さんがそう言うと親方は
「へ、判りました。じゃあシバさんの好きなのからね」
そう言って、何かを握り出した。
「はいお待ち」
出されたのは白身の魚の握りだった。俺はもしかしたら平目かもしれないと思った。
「さあほら食べた、食べた!」
柴崎さんに促されて食べると、シャリが口の中で自然と解凍するように崩れて行く。
平目の蛋白ながらもそれでいて、ある種の海の濃厚さを感じる混布締めの身もシャリとのバランスが取れていて、両者が合わさって得も言えぬ満足感が襲って来る。
「美味しい~こんなお寿司食べたの私初めて」
思わず真理ちゃんが口をつく。
俺は、余りの事に言葉さえ思いつかない。
「どうだ、俺が思う東京で一番の親方の寿司の味は」
そう柴崎さんが言ってくれなかったら、恐らく俺は言葉を発せなかったかも知れない。
「想像の上を行くと人間って話せ無くなるものなのですね。素晴らしいです」
それを聞いて柴崎さんは嬉しそうに鼻で笑っている。
「シバちゃん。何時も大げさなんだから」
「いや、大げさじゃ無いよ。正くん、そりゃ銀座なんかには有名な店があるし、確かに良いネタを使ってる。だがお客の心を無視している。そんな店は私に云わせれば失格だよ。
見てごらん、この店は普通と違うだろう? 判るかい?」
云われて俺は店の中を見回すが分からない、真理ちゃんが
「もしかして、ビールクーラーが無いとか?」
「そうだ!良く判ったね。さすがホール経験者だ。そうこの店はビールは売らないんだ。
昼間は酒も売らない。夜だけ、しかも一人2合までだ」
「なんでなのですか?」
俺は親方に訊いてみた。
「まあ、ビールを飲むとあれ刺激が強いでしょう? その後に繊細な魚の旨味が判るかどうかと思いましてね。酒に関しては昼間から飲むのは言語道断です。夜だって一人2合を超えると味覚が可笑しくなります。そんな理由ですね」
親方はそう言って笑って説明してくれた。
確かに、ここの握りはそれだけの価値があると俺は思った。
それからも、俺達は親方の腕を堪能して店を出た。
「今日は本当に有難うございました。俺だけじゃなく連れまでご馳走になって」
そう俺が礼を言うと柴崎さんは
「礼なんかいいよ。それよりもう少し時間あるか?」
「はい、大丈夫ですけれど……」
「そうか、それは良い」そう柴崎さんは短く言うとタクシーを止めた。
「さあ、乗って」
その声に3人で後ろの席に乗りこむと柴崎さんは
「河童橋、河童橋通りのあたりで」
そう運転手に言った。
河童橋に行ってどうするのだろうか?
そう思ってるうちに車は河童橋に着いてしまった。
車から降りて連れてこられたのは「鍔屋」と書かれた庖丁専門店だった。
「いるかい?」
そう声を掛けて柴崎さんは中に入って行く。
「やあ、いらっしゃい。今日はどうしたの?」
店の親方はなっこい笑顔を見せて尋ねる。
「いやね。今度初めて柳を持つんだけど、ふさわしいのがあるかと思ってね。いや良い物で無くても良いんだ」
そう言います。俺の事でした。
親方はそれを訊いて俺の体を見て、何本かの柳刃を出してくれた。
「こんな処ですかねえ」
柴崎さんはそれを見て更に2本に絞りこみ
「正くん。どちらが良いか持ってご覧」
そう云われて俺はそれぞれを持って振って見る。
柳刃はその庖丁の重みで刺身を切るのだが、余り重いと疲れてしまったり、身の柔らかい魚は身を崩してしまう。その程度は自分でないと分からないのだ。
俺は考えて刃渡り40センチのやや軽めの柳刃を選んだ。
「ほう、そっちを選んだか!」
「はい、これが自分にはバランスが取れていて、使って疲れない様な感じがしました」
「よし、親方これを包んでくれ」
柴崎さんはそう言うと勘定をして、俺に箱に収まった柳刃を渡してくれた。
「柴崎さん……これは……」
「ああ、いつかの賭けの報酬だよ」
「だってあれは……」
「お前さんは見事に俺のメガネに叶ったんだ。今度はその柳で俺に上手い刺身を食べさせてくれ。だから今日、あそこに連れて行ったんだ」
そうだったのか……俺はそんな事も知らなかった。
俺が何も言えないでいると真理ちゃんが柴崎さんにお礼を言ってくれた。
それを聴いた柴崎さんは真理ちゃんに
「こいつはこんな奴だけど、見捨てないでやってね」
そう言うのだった。
「柴崎さん!俺、俺必ず旨い刺身を食べさせます」
「ああ、待ってるからな」
それを聴いた真理ちゃん、俺、柴崎さんはお互いの顔を見て笑ったのだった。