修行とは
「馬鹿野郎!こんなの使える訳が無いだろう!」
そう言って親方は刺身の妻が入ったザルを俺の頭に投げつけた。
「すいません……」
俺は侘びを入れて、辺りに散らかった大根の切れ端を掃除する。
「全部捨てるなよ。後で見せてやるから」
親方はそう言って俺が塵取りで集めた大根のクズを捨てるのを止めさせた。俺は自分の持って来たビニール袋にそれを入れて調理場の隅に置いた。
俺達、料理の世界の一番下っ端は、他の人より早く店に出る。庖丁なんか持たせて貰えないから、大根おろしを作ったり、わさびを摺り下ろしたりする。ちなみに、この世界では「下ろす」とは言わず、「当たる」という。「大根当たってくれ」とか言うのだ。
俺がこの道に入ったのは、死んだ親父が板前だったからだ。小さかったが店を持っていた。料理が評判良くて、結構繁盛していた。お袋と二人で切り盛りしていた。俺と、妹はそんな環境で育った。でも親父もお袋も俺を大学へ行かせたがっていた。
「こんなの、親子でやるもんじゃない」
それが親父の口癖だった。
繁盛していた店だったが、親父が友達の借金の連帯保証人になっていたせいで、全て失ってしまった。
親父もお袋も以前のツテを頼って他所の料理屋で働き出した。二人とも夜遅くまで働いていた。そうしないと借金が残っていたからだ。
だがそれで終わらなかった。親父が交通事故で亡くなってしまったのだ。皮肉にも事故で入って来た保険金と相手からの賠償金で残っていた借金は返せた。
その残りでお袋は前よりももっと小さな小料理屋を始めた。大した料理は出さなかったが、酒は吟味していいものを出したので、酒に煩い客がついた。
俺はお袋の働く姿を見て大学へ行く事を断念して板前になる事に決めたのだ。それまでは、こんな商売は真っ平御免だった。
朝は仕入れで早いし、夜は深夜まで働く。毎日たいした収入がある訳で無し、割にあわないと思ったからだ。
でもお袋の姿を見て考えが変わった。俺も板前になってお袋を楽にさせてやるんだ……それが動機だった。
自分の仕事をしながら注意深く周りの事に気を配る。親方や先輩が手助けを必要としたら、直ぐに手伝わないとならないからだ。
やがて、親方が俺を呼ぶ。行ってみると、見事な妻が出来ている。
「さっきのお前のと比べてみな」
比べ無くてもハッキリと判るレベルだ。
「判ったか?」
「はい、すいませんでした」
「せめて使えるレベルになってくれよな」
「申し訳ありませんでした」
何回も謝り、自分の所へ戻る。やがて洗い場に先輩や親方の使った鍋やボール等が山の様に貯まるので、それを一つ一つ丁寧に迅速に洗う。これが俺の本来の仕事だ。
うちの親方は仕事には本当に厳しい。ヘマをすると口より手が先に出る。直接殴ると手を痛めるので、庖丁の峰で頭を叩くのだ。
また、金属の菜箸や真魚箸で叩く事もある。でも他所の親方だと火に掛かってる鍋をそのまま投げつけられるそうだ。
うちの親方はさすがにそう言う事はしないが理由を訊いたら
「俺は道具は大事にするんだ」そう言っていた。
だから、仕事中は皆先輩も本当に緊張している。調理場にはピーンと張った空気が流れている。俺も親方や先輩の声を聞き漏らさない様に緊張して無駄口は開かない。
ふと見ると先輩の担当の盛り付けが忙しそうだ。こういう時は、言われるより早く自分から言わないといけない。
「先輩!良かったら手伝わして下さい!」
そう言って先輩に訊くのだ。
「おう、手伝え!」
そう云われて、先輩の持ち場に行って、先輩の身振り手振りを見て同じように盛り付けをしていく。
「お前、筋がいいな」
なんて云われたらもう最高だ。
俺は絶対、板前になってやるんだ!客が幾ら払っても、「また食べたい」と思う様な料理を作れる板前になるんだ……。
先輩の盛り付けを手伝いながら、明日は今日より1本多く大根を買って、今日より1時間早く店に入って、桂むきの練習をしよう。そして絶対今日より細い整った妻を作ってやるんだ! 俺はそう誓った。
俺ら板前の世界は、皿洗いから始まって、盛り付け、焼き方、(それから揚げ方というのがここに入る様になる所もある)そして煮方、それから向板、花板となる。花板とは板長の事だ。
大体、煮方になると板前としてなんとか認めて貰える。俺らの頃でもここまで10年と云われていた。
昼の休み時間は午後の2時から4時までと決まっている。その間に昼飯を食べて、休んで、練習するやつは練習をする。そんな毎日……。
俺も本当は大根買って桂むきの練習をしなくちゃならないのだけど、たまには先輩から
「コーヒーでも飲まないか?」
と誘いが掛かる。嫌とは言えないので「有難うございます」と言って先輩の後を付いて行く。俺らみたいな上下関係に厳しい世界はこういうのは先輩の奢りだ。
店の傍にある大手の喫茶チェーン店に入って「ブレンド二つ」と先輩が頼んでくれる。
ウエイトレスの女の子が持って来てくれたコーヒーをすすりながら、ウエイトレスの娘のミニスカートを気にしていると先輩が
「お前さあ、この世界に疑問持った事無いか?」
いきなり訊いてきた。
「疑問ですか……そりゃいえば沢山ありますけど、言ってもしょうがないから……」
先輩は俺の言う事を鼻先で笑って
「お前のは先輩には絶対服従とか先回りして受け答えしなきゃならないとか、そんなだろう!」
その通りだった。
「そうじゃ無くてさ……なんて言うのかな、俺らの仕事って、人が家に帰る頃からが本番だろう? そりゃさ、ランチタイムもあるけどさ、本番は夜だろう?」
「ええ、まあそうですね」
俺は何と言って良いのか判らず。適当な答えをする。
「なんか疑問感じちゃってさ。今の仕事の形態に……」
「疑問ですか?」
「ああ、人ってさ、朝、お日様と一緒に起きてさ、働いてさ、夕方には家に帰って休む。それが本来の人間の暮しだと思うんだよな」
「普通の仕事はそうですねえ」
「だけどさ、俺らは人が休もうとする頃から働き出すだろう?」
「ええ、そうですね」
「それがさ、なんか違うんじゃ無いかとさ……思ってさ……」
「そうなんですか? 俺には未だ良く判りません。それにここが始めての店ですから」
そこまで言うと先輩は懐から煙草を取り出し火を点けた。
「親方には言うなよ」
そう言いながら煙をくゆらす。
「そう、俺は2件目でさ。前の店が潰れてさ、そこの親方の紹介で今の店を世話して貰ったのさ」
「前の店はなんで潰れたのですか?」
俺の問に先輩は煙草を消しながら
「うん、前の親方はそれは凄い腕だったよ。今の親方より上だったろうな」
「ならば何故?」
「ああ、それはな、腕は良かったんだが人が良すぎた。下の者に今の親方の様にビシッと言えないんだな。注意はするが優しい言い方なんだな」
「それは良いじゃ無いですか?」
「お前、本当にそう思うか? そんな状態だと、人は100%でなくちゃイケナイ処を95%にしてしまう。皆が5%削ってみろ、4人いれば80%になってしまうだろう?」
そうか、そう言う事なのか。
「そう言う事さ……」
「俺は、いっそ昼中心の店にでも移ろうかと思ってるんだ。朝は早くても良い。その代わり夕方には上がって家に帰れる様な店に移ろうかと考えているんだ」
俺はそれには何にも言えなかった。それは先輩の人生だから俺が言う問題では無かったからだ。ただ、俺はそういう事にはならないと思うだけだった。
翌月、先輩が店を辞めた。俺は聞いていたので、驚きは無かった。しかし、それによりとんでもない事が起きたのだ。親方は俺を呼び
「お前、今日から盛り付けやれ!出来るな?」
いいえなんて言えない。こういう時の為に先輩の仕事をちゃんと見ていたのだから。
「はい、出来ます。有難う御座います。でも洗い方は……」
「それなら今日からバイトが入るから、教えてやれ!」
「判りました!」
さあ大変な事になった。今まで先輩の仕事は見ていたし、手伝ってもいた。だがやってみると思いの外仕事が多いのだ。
営業中にオーダーされた料理のうち簡単に盛りつけだけで出せるものは全て自分の担当だ。庖丁も持っても良い。但しそれは漬物を切ったり、野菜をカットして盛り付ける時だけ使えるのだが……。
漬物と言えば、漬物の管理も自分の仕事となった。店で出す漬物すべての管理だ。これは想像以上に大変な事だった。糠漬け、一夜漬け、等自分で漬けるものや、高菜や沢庵等買って来る物の管理だ。出来過ぎ無い様に、漬物が早く無い様に管理していく。しかも店で出る量が計算出来ないので、一層大変だった。
皿洗いは長い店で2年、早くても1年はさせられる。それはそれだけの期間仕事をしないと、次の仕事が出来ないからだ。
俺みたいに未だ1年弱で、こういう仕事が廻って来たのはチャンスだが試練でもあると言う事を俺は嫌という程味わっていた。
おまけに、皿洗いのバイトの子が入り、女の子だったのでこれは!、と思っていたら、ホールのバイトの大学生に持っていかれてしまった。まあ、昔から女子には縁が無いから良いのだけれどね……。
兎に角、俺は今は余裕など無い、という事なんだ。
だが何時かは、必ず花板になってやるとひたすら思うのだ……