想い
いきなり盛り付けをやれと言われて何とかこなしてる俺だけど仕事の量は今までよりかなり増えている。
と言うのも皿洗いはバイトの娘がやってくれる様になったが洗い方の仕事は他にもあり、
それらは結局俺の仕事だからだ。
営業時間が終わりお客さんが帰ると俺はまかないの支度をしながら調理場を掃除する。隅から隅までピカピカに洗いあげる。それが終わると、まかないのおかずをテーブルに並べる。この店はホールの娘(正社員)と一緒に食べる。
食べ終わると先輩は「お先に!」と言って帰ってしまう。俺はそうはいかない。皆の食器を片づけ、洗って棚にしまい。テーブルの上をピカピカに磨きあげる。ガス台も同じにする。
それが終わるとやっと自分の時間が持てる。それは庖丁の手入れだ。庖丁を毎日手入れするのは当たり前だが、刃を研ぐと金気が抜けるまで一晩置かないとならない。研いですぐ使うと切られたものが金臭くなるのだ。こんなのはお客さんには出せない。だから、親方始め先輩も皆自分の仕事が終わると庖丁を研ぐのだ。
心を込めて研いで行く。この研ぐのにも当然上手い下手はある。親方に言わせる俺の研ぎ方は「なってない」のだそうだ。だから俺が使ってる庖丁は安ものだ。だが何時かは良い包丁に見合う腕になってやるのだ。そう思い庖丁を研いで行く。
深夜の誰もいない店で俺だけの儀式だ。俺は店長から合鍵を渡されているので、何時でも店に入れる。最もあんまり深夜だとセキュリティーが掛かって警備保障の人が駆けつけて来るのだが……。
ふと、人の気配を感じる。初めは気のせいか、と思っていたのだが、どうやらそうでは無いらしい。暗い中を店の入口の方へ歩いて行くと、調理場の隅にバイトの真理ちゃんが立っていた。
真理ちゃんというのは俺が盛りつけになったので新しく入った皿洗いのバイトの娘だ。背が小さく少しぽっちゃりしている娘だ。焼き方の先輩に言わせると
「あんな田舎臭いのは俺の趣味に合わない」のだそうだ。
でも俺はちょっとかわいいと思ってしまった。でも、ホールのバイト大学生(しかも慶応ボーイ)と仲良くなり、何時も一緒にいるのだった。
「どうしたの? 忘れ物かい」
俺は、まかないを食べる前に二人で帰った姿を見ていたので、忘れ物だと思ったのだ。俺の問い掛けに真理ちゃんは俯いて答えない。
俺 は傍により、肩に触りもう一度「どうしたんだい?」と再び訊いてみると、いきなり俺の胸に抱きついて来たのだ。
これは驚きます、正直言って真理ちゃんとはそう言う関係では無いので、ひたすら驚くしか無いのだ。俺が真理ちゃんについて知ってる事は、彼女はあるデザイナーのお針子さんで、とても給料が安く、それだけでは食べていけないのでウチの店にバイトに来たのだと言う事ぐらいで、あとは、あの慶応生と仲良くしてると言うぐらいだ。正直、こんな事される思いは全く無いのだ。
俺はもう一度「どうしたの?」と訊き返す。すると、やっと真理ちゃんは口を開いた。
「すいません。いきなり抱きついてしまって。でも、まささん(俺の名、正也から来てる)
なら許してくれると思って……」
「なんかあったの?……もしかして、あいつと別れたとか?」
まあ、ありえない事を言うのがこの場合定石だよね。ところが、彼女の答えは俺の想像の斜め上を行くものだった。
「わたし、さっき一緒に帰ってその途中で別れを言われたんです。わたし、遊ばれたみたいです。馬鹿ですよね。今まで男の人に言い寄られた事が無いから嬉しくて……」
なんだ、あの慶応野郎、真理ちゃんを持て遊んだのか……。
「あの人、今日でバイト終わりだから、僕達の関係も終わりにしようって……君とぼくでは環境が違いすぎるからって……」
真理ちゃんは俺の前で涙を流しながら、今日あった事を話してる。
「悲しくて気がついたらお店の前にいて、明かりがついていたから、きっと、まささん居ると思って……」
「座ろうよ」
俺は真理ちゃんの肩を抱いてホールの椅子に座らせる。氷水をグラスに作って真理ちゃんに飲ませてやる。少し落ち着いたみたいだ……。
「わたしみたいなチビでブスがあんな慶応の人と仲良くなれるなんて無いんですよね。きっと何にかの気まぐれだったんですよね。わたし、始めてだったから調子に乗っちゃって……」
俺はただ、黙って聞いていた。正直言うとそろそろ終電が気になる時刻だったが、今日はそれどころでは無いと考え直した。
「なあ、ものは考え様だよ。そんな奴に何時までも関わらなくて正解じゃ無いか。そう考え様よ」
俺の言葉に真理ちゃんは
「まささん優しいですね。仕事でもちゃんと厳しくても丁寧に教えて下さって、わたし、ああ、この人見かけより良い人なんだな。と思ったんです」
「見かけはそんなに悪かったか?」
「ちょっと……すいません」最後は僅かに笑っていた。
「よし!明日は日曜だ、お針子の仕事は休みかい?」
俺の問に真理ちゃんは
「はい、明日は休みです」
「そうか、じゃあ俺が奢るから焼け酒を飲みに行こう!」
「でもわたしあんまり飲めませんが……」
「最近は女の子様に作られた飲み物もあるから」
そう言って俺は強引に真理ちゃんを連れだした。ぼやぼやしてるとセキュリティーシステムの作動時間になってしまう。
俺がたまに行く居酒屋に連れて行った。驚いた事にこういう店も始めてだそうだ。俺は酎杯で真理ちゃんにはメロン杯を頼んだ。
「取り敢えず、最低の男と別れられた事にカンパーイ」
グラスを合わせて飲み始める。もう終電の事は考えない事にした。明日は俺も休みだ。歩いて帰っても良い。兎に角、この真里ちゃんの機嫌を直して置かないと、来週から俺が扱い難くなる。
結論から言うと彼女は俺より強かった。俺がかなり来ているのに真里ちゃんは平気な顔してる。
「色々甘くて美味しい飲み物があるんですね。わたしお酒と言うと苦いと思っていました」
いい気持ちで帰り道を歩く。時計をみるとすでに終電は行ってしまっていた。
「真理ちゃんは家は何処だい」
「はいこの先の女子寮です」
そうか、お針子さんの為の寮なのか
「じゃあ、ここでお別れだな」
俺がそう言うと真理ちゃんは
「わたし、今夜まささんの部屋に泊まってもいいですよ……」
そう小さな声でつぶやいた。違う!この娘は勘違いしている。
「なあ、真理ちゃん。俺は今日そう言うつもりで誘った訳じゃ無いんだ。純粋にあの慶応野郎に振られた真里ちゃんを元気づけたかったのさ。ただそれだけさ」
「わ、わたし変な勘違いしていて……男の人はそう言うものだと思っていて……」
「あの野郎がそうだったのかい。きっと真理ちゃんの身体が目当てだったんだな」
俺がそう言うと真理ちゃんは
「そうみたいですね。馬鹿でした、わたし」
そう言って俺を見上げる。
「正直言うとさ。真里ちゃん俺の好みだしさ、胸大きいからさ、正直抱きたいさ。でも、でも俺には一人前の板前になるって目標があるんだ。だから今真理ちゃんを抱いてしまうと、それが崩れてしまう様な気がするんだ。カッコ付けなんだけど、今は俺は抱けないんだ」
言ってしまった。隠しも何もしない俺の本音。真理ちゃんの胸を気にしながら仕事をしていたのも事実だし。真理ちゃんが慶応野郎にやられとのを悔しがったのも事実だった。でも最後の気持ちは本当の本物なんだ。
真理ちゃんは、俺の顔をまじまじと見ていたが
「判りました。じゃあわたしも、お針子の世界で頑張って、ゆくゆくは一人前のデザイナーになります。そうしたら抱いてくれますね」
言うじゃ無いか、真里ちゃん。
「ああ、そうなったら思い切り抱かせて貰うよ」
俺ってやっぱりカッコ付けかな?
「でも今日はどうするんですか?」
「ああ、もうじきお日様が昇るだろう?家まで歩いて帰るさ」
「大丈夫ですか?」
「俺は男の子だから平気さ、それよりも月曜から頑張れよ」
「はい!それじゃ失礼します」
「おう!」
そう言って別れたが、やはり勿体無かったかな?据え膳食わぬは男の恥とか言うのはこの事だったのかな?まあ。もう遅い! その分格好付けさせて貰ったからな。さあ帰って寝るかな。何だか酔いが覚めて来た感じだ。
結局、俺と真理ちゃんとのあいだには何も無かった。ありようはずも無いのだ、あの日は酒が言わせたのかも知れない。
だが、仕事では前よりコミュニケーションが良くなり、真理ちゃんも皿洗いの仕事が暇な時は俺の仕事をたまにだが手伝ってくれるようになった。それからも真理ちゃんとは、たまに酒を飲むと言うそれだけの関係が続いた。
そんな事で半年が過ぎ、季節は春になろうとしていた。親方と店長が
「明日から板場の新人が入る。正也、しっかり洗い方の仕事教えてやれ」
そう言われた。そうか、新人が入るんだと思うと何だか嬉しくなった。しかも俺の出た調理師学校出だと言う。正真正銘の後輩じゃ無いか!その晩は嬉しくて寝られ無かった。真理ちゃんも帰りに「良かったね」と一言言ってくれた。だが、この浮かれた気持ちで俺は大失敗する事になる。
次の日、調理場に出てみて驚いた。調理場の隅に白衣を着て前掛けを締めた女の子が居る。
髪は短く借り上げていて、およそ女の子らしくは無いが、見れば判るこいつは女子だ。
そりゃ、女子の板前が実際に居るという事は知っていたが、まだ少数派だし、それに親方はそんなのを入れないと勝手に思っていた。調理場の隅で小さくなって立っていた。やがて親方が
「今日から洗い方に入って貰う、田中飛鳥くんだ」
そう紹介する。親方以下、向板の善さん、煮方の由さん、それに焼き方の健さんが自己紹介する。俺も自己紹介をすると
「宜しくお願い致します!」
と身体の割にデカイ声で挨拶をした。親方は俺に
「正、教えてやれ」
そう短く言うと自分の持ち場に帰って行った。いい忘れたがウチでは揚げ物があった時は向板の善さんがやるのだ。
女と判って一時は落ち込んだ俺だが、仕事を教えてみると意外とやるのだ。もちろん技術的な事など何も無いのだが、少なくともやる気だけは伺えた。それに、「先輩、先輩」と言われるのも悪くは無い。
そんな調子だったからだろう、つい余計な事までしてやっていたのかも知れない。傍から見ればニヤついていたのだろう。余計な事まで口にしていたのかも知れない。自分では全く気がつかないだけで……。
ある日、昼飯が終わって皆が休憩で、居なくなるちょっと前に、親方に呼ばれた。
「はい、なんでしょうか?」
俺が親方の前に顔を出すと
「バカヤロー」
と言って思い切り拳固で殴られた。手では殴らない親方の本気だった。思い切り飛ばされて壁に叩きつけられた。歯が折れ無かったのが奇跡だったが口の中は切っていた。
「何で殴られたのか判るか?」
俺は左右に首を振る。思い当たる事がない。自分の仕事はちゃんとやってるし、先輩の仕事も手伝ってるし、後輩の飛鳥だってちゃんと教えてる。
「判りません」
そう言うしか無かった。
親父さんは俺の目をみながら
「それじゃ何で俺が真剣に思いきり殴ったか教えてやろう」
そう言って親父さんは俺を誰も居なくなったホールに連れて行き座らせた。
「あのな、お前自分が飛鳥に仕事を教えてて、浮ついていただろう? 後輩が出来たんで浮かれていたろう」
何も言えなかった……その通りだった。
「何でもハイハイと言う事を聞く可愛い後輩だ。ああ、そうだったろう?」
全てそうだった。親方は俺の心なんぞお見通しだったんだ。
「ちょっと考えると、何処が悪い? と思うだろう。だがな、お前、自分の時の事思い出してみな」
俺は一年と少し前の事を思い出した。何も判らないで只一日ぼーっと過ごした初日。
誰も何も教えてはくれない……自分で見つけて必死で覚えた日々。
そうか……俺は親切心で教えてやった積りで、そうじゃ無かったんだ。
「俺、あいつをダメにしかかっていたんですね?」
「まあな、誰でも最初は後輩が出来れば嬉しいものだよ。色々と手取り足取り教えたくなる。それに飛鳥は女の子だからな、一層そう思うだろう」
「そそんな事は……」
「無かったか?」
まったく無かったとは言えない……多少は尊敬されたかった、そしてその先は……。
親方はそこまでお見通しだったんだ……
「すいませんでした。自分が浅はかでした。もっと厳しく接します!」
「いや、判ればいいんだ。仕事とは自分で見つけて必死で覚えたものは決して忘れはしない。それが自分の財産になるんだ。余計な手助けは要らないんだよ」
そう言う親方の目はもう怒って無く優しい目をしていた。
それから、俺は俺なりに厳しくなったと思う。相変わらず「先輩、先輩」とまとわり付いて来るが
「そのくらい自分で考えろ!どうしても考えても判らなかったら、ヒントぐらいは教えてやる」
「あーんケチですよそれ!」
「お前の為だ。俺は教わん無くても出来た!」
そう言って突き放す。何とか慣れて来た処だ。
ある日、真理ちゃんが
「あのね、この前向板の善さんと板長さんと話していたんだけど、善さんが『危うく大事な若者二人駄目にしてしまう処でしたね』って言ってて、板長さんが『殴った時は手が痛かったよ』そう言ってたよ」
そう教えてくれた。俺は改めて親方に感謝するのだった。




