2.彼と彼女と彼の事情。
予鈴が鳴り、ドアから杖が覗いた。ガクガクプルプルしているそれは、ゆっくりと、本当~にゆっくりと、ゆっくりと、杖の持ち主と共に現れる。産毛のようにしか残っていない頭髪に、枯れ木のようなシワシワの細い全身。ガクガクプルプルと、見るものをハラハラさせながら、担任が現れた。
杖の端から、全貌が見えるまでにかかったその時間、なんと五分。その時間に全員が目を見張る。
――なんて素早いんだっ!! 今日の先生はやる気に満ち溢れているっ!?
いつもの半分以下の時間で教室に入れた担任の姿に感激し、スタンディングオベーションが沸き起こる。おじいちゃん先生はどこか誇らしげである。
ガクンッ! 生徒に向かって手を上げた途端、おじいちゃん先生の足の力がなくなってしまった。
いけない! このままでは、倒れた衝撃で骨折した上に、もしかしたらお漏らししてしまうかもしれない! 悲惨な未来を回避するために立ち上がる者、ただ目を覆い泣き崩れる者。教室の中は一気に阿鼻叫喚の図になった。
ふわり。
そこへ、まるで羽が舞うかのごとく、後から入って来た見知らぬ少年が、軽やかにおじいちゃん先生を支えた。
いきなり現れた少年の顔を知っている者は、教室には二人しかいない。見知らぬ少年、だが端整な顔立ちの彼を見て、女子は見惚れ絶句し、男子はイケメン死ね! という思いで絶句した。
様々な思いが巡り教室が静まり返った中、少年は後光が差しているかのように爽やかに微笑む。
「大丈夫ですか? 先生」
おじいちゃん先生の頬に朱が差す。そして、そっと少年の胸にしなだれかかった。教室に激震が走る。
――あの鬼神をオトした!!?
少年が、男子生徒までをも虜にした瞬間であった。
そんな中、学院一のクールガイは無言で銀縁眼鏡をくいっと上げて、そして思った。
――なんだ、この茶番は。
ごもっともである。しかし、妙なテンションに支配された教室ではツッコムだけ無駄というもの。事の成り行きを静かに見守るしかできはしない。
おじいちゃん先生を横抱きにした少年が教壇に立ち、先生が口を開く。
「ひょうふぁふぁ、みにゃふぉにゃひゃみゃふぃふぁるにょいんふぁ!!」
「今日から皆さんと共に学ばせて頂く事になりました、ノイン=ウォンです。よろしく」
先生をフォローするがごとく挨拶をする、そのさりげない心遣いにキュンキュンする音が教室中から聞こえてくるようだ。
そこへ、眉間に皺を深く切り刻んだままのジンを先生が指差し、ノインに何かを言っている。彼はにこやかに頷き、先生を教壇の横にある椅子に座らせてから、ジンの方へと歩み寄り、手を差し出した。
「先生に、分からない事があればキミに聞くようにと言われた。よろしく、ジン=バース君」
そう爽やかに微笑む彼の歯が光る幻覚をジンは見た。
自信の現れかのように額を大きく開けて前髪を流しているその色は透けるような金色。青にも緑にも見える不思議な輝きをした瞳は優しげに細められている。
きめ細やかな肌、中性的なものを感じさせながらも、フェロモンが漂っているかのように男らしさを滲ませて、背の高い方であるジンよりもやや高い背は丸まる事なくピンと伸びている。
隙がない美青年。そんな彼を見て、ジンの眉間の皺がより深くなりかけたが、元生徒自治会会長としてのプライドがそれを阻止して、滅多に笑わない顔に笑みを貼り付ける。
「よろしく。僕にできる事があれば力になるよ」
クラスメート達が絶句してしまうほど、近年稀に見る爽やかな笑顔でジンはノインとガッチリと握手を交わす。
ただし、シエルには近づくなよ。という副声音付きであるが。
ここで、空気を読めない少女が頬を紅潮させて勢いよく立ち上がる。心なしか、背筋がピンと伸びている。
「わ、私も!!」
嬉しそうに手を差し出すのはシエル。その空色の瞳の中には、期待という名の星が物凄い勢いで煌めいている。
そんな彼女の手を、ノインは微笑ましげに包んだ。
「元気な子って可愛いよね。よろしく」
手を取られ言葉をかけられた瞬間、シエルの瞳の中のお星様はスッと姿を消した。しかし、眼鏡を曇らせたままのジンはそれに気づく事はなかった。
今のジンの目を直視できる者はいないだろう。それほどまでに、彼は憤怒の炎で眼鏡を光らせていたのだ。
――なんだ、そんなにそのイケメンと握手したかったのか。この俺の目の前でよくもそんな事ができるな。そんなにイケメンが好きか。そうか。それならずっとそのイケメンと一緒にいればいい。
恋は盲目とはよく言ったものである。嫉妬のあまり、今ジンの目の前で迷惑そうに手を離そうと引っ張っているシエルの姿は彼の目には映っていない。
ここで、シエルが何故立ち上がったのかを説明しよう。
ジンが笑う事など本当に稀な事であった。友人に対しては柔らかい表情をする事はあっても、シエルに対しては蔑みの目線、眉間に深い皺がデフォルトである。この二年でジンに笑顔を向けられた事など、片手で足りるほど。
それなのに、だ。会ったばかりの相手に、クラスメートでさえ絶句するほどの輝く笑顔(シエル目線)を向けたのだ。シエルにとっては天地がひっくり返るほどの衝撃であった。
シエルの聡明な頭脳が高速で稼働する。何故ノインと名乗る彼は、ジンにあんな素敵笑顔を向けられたのか。何が原因でジンのあのワンダホースマイルを引き出せたのか。原因究明のため、ノインの言動を反芻する。
まず、皆が大好きおじいちゃん先生を助けた。これは高評価である。それのおかげでジンに良い心象を持たれたのか。いや、ジンはそこまでおじいちゃん先生に心酔していない。だからそれは無いはずだ。
その後に、なんか光ってる感じの笑顔で、よろしくと言って手を差し出した。背筋も凄いピンと伸びている。
――それだ!!
シエルは閃いた。そうだ、よく彼は言っていたではないか。机に埋もれるようにして嫌々勉強をしているシエルに対して、「心は体を表す。その逆もまた然り。姿勢を正せば、自ずと心もついてくる。だから背筋を伸ばせ!」と。
きっと、ノインの背筋の良さに関心したのだ!!
そう結論づけて、その笑顔を私にも向けて!! という一心で立ち上がったのである。背筋を伸ばして。
悲しいかな、その予想は事実とは遥か遠くの位置に座していた訳だが。更にはジンに破局間近の勘違いをさせてしまった。
しかし、シエルのその後の態度で、破局は免れる。
「キミ、名前はなんて言うの?」
「え? シエル=リーン。それよりも、手を離し……」
「シエルさん? 可愛い名前だね。良かったら放課後、学院内を案内して欲しいな」
「やだ」
「えっ……? ど、どうして?」
まさか断られるとは思っていなかったイケメンが冷や汗を掻いている。その様を見たジンの眉間の皺が僅かながら薄れる。
「だって、ジンと一緒に帰るんだもん」
皺がなくなった。単純な男である。
「そ、それなら!! ジン君も一緒だから大丈夫!!」
「はぁ? いつそんな話に……」
「ジン君にできる事なら、力になってくれるんだろう?」
爽やかさの裏に、どことなく黒いものを滲ませてノインは言う。その言葉を、ジンは“挑戦”として受け取った。
――どんな覚悟があって、シエルにちょっかいをかけようとしているのかは知らない。しかし、その野生動物を御せるのは俺しかいないのを分からせてやる!!
「ああ、じゃあ三人で学院を回ろうか」
眼鏡を光らせながら、にこやかにジンは言い切った。
かくして、クラスメート達とおじいちゃん先生がまさかの展開に固唾を呑んで見守る中、シエル争奪戦らしきものが始まったのである。
ちなみに、ジンとノインが黒い火花を散らしている時にシエルの頭の中はというと、またジンがワンダホースマイルをした!! という喜びだけで占められていた。
放課後。三人が学院を周り、それをクラスメート全員と、新聞部がストーキングするという図があった。
シエルに事あるごとにボディタッチをしたがるノインに、それをにこやかな笑顔でさりげなく間に入って阻止するジン。
そのにこやかさにご機嫌なシエルに、イケメンと一緒なのがそんなに嬉しいのかと誤解するジン。
何も無い所で躓いたシエルをノインが支え、それを見たジンの不自然な笑顔が深まり、更にそれを見たノインが黒い笑顔でよりシエルを抱き締め、また深まるジンの笑顔。
タチが悪いのは、その過程を見たシエルが、ノインに抱き締められるとジンが何故かワンダホースマイルを向けてくれる、と勘違いした事であった。
嬉しそうにノインに抱き締められているのを見たジンが、眼鏡が割れそうになるくらい苛立ちを募らせている。
その勘違いの連鎖に、それを見守る人間たちの腹筋は崩壊寸前であった。新聞部ですら、カメラを持つ手が震えて激写チャンスを何回も見逃すほど、それはそれは滑稽な様だったという(ジンが)。
「冷静に見れば、シエルちゃん、ジン君しか見てないの分かるのにね」
「仕方ねぇよ。アイツ、シエルさんの事になると正常な判断ができねぇからな」
「あっはは! 確かにぃ~! 普段がクールだから、余計に滑稽よねぇ~!」
そんな風にクラスメートたちの笑いの種にされているとは露知らず、ジンの眼鏡は曇っていく一方であった。
一通り学院内を周り、正面玄関へと到着する一行。
そこには溢れる満足感を隠そうともしないシエルに、爽やかな笑顔がちっとも崩れていないノイン。そして、眼鏡をくいくいする指が見えないほど高速になっているジンの姿。
誰がどう見ても、ジンの惨敗であった。
新聞部は、良いネタをありがとうと遠目に拝んでから、明日の号外新聞を刷るために部室へと急行する。見出しは、『まさかの三角関係!? クールガイの眼鏡が割れる瞬間!!』で決まりである。
「それじゃあ、今日はありがとう。シエルさん、また明日」
「うん、ばいば~い!!」
「…………」
あからさまにジンを無視してシエルに熱い目線を送った後に去って行くノインに、ジンの笑顔をいっぱい見せてもらってありがとうという感謝の意を込めて満面の笑みで見送るシエル。横でジンが黒い炎を燃え上がらせている事など気づかずに、シエルは彼の腕に絡みつく。
「じゃあ、ジン。私たちも帰ろっか!」
「離せよ」
外で抱きつくと、いつも赤面するジンの様子がおかしい事に、シエルは首を傾げる。疑問で腕の力が弱まった隙に、ジンはシエルの腕を乱暴に振り払って無言で背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「うるせぇ」
向けられた視線に、シエルは血の気が引いた。
幼い頃、ジンがシエルから離れてしまった時と、同じような目付き。
少しは成長した今だからこそ分かる、彼の当時の心境。彼はシエルの力に嫉妬し、それが抑えられず嫌悪となってシエルを遠ざけていた。
今度は、何に嫉妬? 何が原因で?
考えてみてもシエルに分かるはずもなく、ただ、またジンが自分から離れていってしまうかもしれないという恐怖に身を震わせた。
「や……、やだ!!」
シエルはジンの腰にめがけてタックルした。気持ちを全身で表したその勢いは、ジンの視界をブレさせ、内蔵が飛び出す寸前の衝撃に耐えられず、顔から地面に追突した。
「~~~っ……!! 何してんだ!? ぅわ、眼鏡にヒビ入ったじゃねぇか!!」
「やだやだやだやだやだ!!」
半身を起こし、シエルを剥がそうと頭をぐいぐいと押すが、シエルの力は更に強くなってジンの内蔵を圧迫する。
「ぐっ……! は、離せよ!」
心なしか、ジンの顔色が青くなってきている。ジンの気が遠くなりかけたまさにその時、シエルが泣き出した。
「やだ! 絶対に離さない!! やだやだやだ!! 私から離れちゃやだーーー!! うわああああん!!」
――それなら、イケメンにいい顔してんじゃねぇよ馬鹿。
シエルの泣き顔を脳裏に焼き付かせながら、ジンの世界は暗転した。
◇ ◇ ◇
暗い部屋。必要最低限のものしか置かれていない無機質な部屋で、彼は誰かと遠話器に向かって話している。
『どうだった?』
「ん~、そうですねぇ。恋人がいるようで、彼がいる限り誘いには乗ってこなさそうです」
『引き離せ。無理そうなら始末しろ』
「ふふ、分かってますよ。彼の方は少し揺さぶればいけそうですから、穏便に済ませてみせます」
『失敗しなければ穏便でもなんでもいい』
それだけ言い捨てると、通信が切られた。金払いはいいが、雇い主のこういう粗野な所が彼は気に入らなかった。彼は気づかれる事なく、かついたぶるように楽しみたいのだ。
一見冷静そうな眼鏡の少年を思い出し、彼の口元が冷笑を浮かべる。
彼は強い人間が好きだった。物理的な強さも然り。精神的な強さも然り。
そして、強い人間をいたぶり、崩れていく様を見るのが何よりも好きだった。
「キミは、どれだけ僕を楽しませてくれるのかな――、ジン君」
今日は滑稽なほど取り乱してはいたが、芯の強さを隠そうとしないジンの眼差しを思い出し、ノインは嗤った。
【おじいちゃん先生】
様々な武勇伝を各地に残す、伝説の戦士。
年齢は不詳で、百年前の世界大戦当時から既にがくがくぷるぷるしていたとか。
しかし、ひとたび戦場に出ると、はちきれんばかりの筋肉が盛り上がり、咆哮一つで敵を吹き飛ばすとか。
学院では主に実践を受け持ち、その鬼神のごとく勇ましい姿に皆が心酔している。