1.彼と彼女の日常。
ジンは午前五時に起床する。それから顔を洗い、歯を磨き、ランニングに行く。六時頃に戻り、シャワーを浴びてから軽く朝食を取り、七時頃に学校に着いて、予習復習をするという修行僧のようながらも平穏な朝を十五歳まで過ごしていた。
しかし、シエルと付き合い出してからのこの二年は、彼に更なる試練が与えられる時間になってしまった。
まず朝起きれば、何故か隣にはシエル。だいたいが薄着なので、シエルの顕になっている肌に朝の猛りが爆発しそうになるのを堪えて、ベランダに放り出す。
ランニングから戻りシャワーを浴びて出れば、何故かブーメランパンツ(パッションピンク)を持って待ち構えているシエル。「旦那様に履かせてあげるのも妻の役目だからぁ」と言っているのを横目に、心を無にして自分で服を着て出る。
そして母が作ってくれる朝食を当たり前のように隣で食べるシエル。その際、「はい、あ~ん」と言いながら目にも止まらぬ速さでオカズを突っ込んでくるので、これまた目にも止まらぬ速さで避けながら朝食を食べるという特技を身につけた。
それから家を出るのだが、当然のように腕を組んでこようとするので、それを阻止するために家を出た瞬間全力ダッシュで学校まで駆け抜けるのだ。シエルの脳内で「あはは捕まえてごらん☆」「待ってよぅ☆もう、イジワル~☆」というお花畑な展開になっている事には気づかずに。
今日も今日とて、二人はきゃっきゃうふふ(シエル視点)しながら校門前に着く。
よし! 今日も俺の勝ちだ! と、何に勝ったのか分からない勝利にジンが酔いしれていると、後ろから「きゃっ」とシエルが小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。
何事かとジンが振り返り見ると、精神的な衝撃の強さに眼鏡が割れかけてしまった。
「大丈夫?」
「え? あ、ごめんなさい……」
なんと、シエルが金髪碧眼のイケメンに抱き込まれているではないか。
至近距離で見つめ合う美少女とイケメンという絵はあまりにも様になりすぎていて、ジンは疎外感どころではなく、生まれてきてごめんなさいと謝罪してしまいそうな惨めな気分にさせられた。
何よりも、シエルがまじまじとイケメンを見つめているのが気に食わない。
「それじゃあ、僕は失礼するね」
爽やかな笑顔で颯爽と去って行くイケメン。その後ろ姿を無言で見つめるシエル。
「……おい」
「え、何?」
ジンの事など眼中に無かったかのような反応のシエルに、ジンは更に苛立ちを募らせた。
「そんなにアイツが気になるなら着いてけば?」
別にそこまで気になる訳でもない。そう言おうとしたが、ジンはシエルの応えなど聞くつもりもないとばかりに背を向けてさっさか校舎に入って行った。
シエルは首を傾げる。ただ彼女は、ジンとのきゃっきゃうふふな時間を妨げられないように、走っている間何かに当たっても全力で弾くような魔術を自分にかけていたのだ。生物に当たれば死後の世界が垣間見えちゃうかもね、という自重した方がいいほどの。
それなのに、先ほどの少年はそのイケメン面を欠片も崩れさせる事なく、シエルを抱きとめた。シエルの全力を止められるのは、生徒の中ではジンを含めたひと握りの人間だけだ。
だから、こんな人いたっけ? と思い眺めていただけだった。しかし、ジンにはただシエルがイケメンに見惚れていただけのように見えて、その眼鏡を曇らせてしまったのだ。
これが、今回の事件の初めの勘違いだった。
ジンは教室に着くと参考書とノートを取り出し、国際魔術師資格五級を取るための勉強をしようと机に向かった。しかし、眼鏡を曇らせたままの彼は、その行為すらも苛立たしく思えて仕方がなかった。
そもそも資格にあまり興味が無かった彼が何故資格を取ろうと思ったのか。
コイツは野放しにしておくと甚大な被害が出るから、というのがジンのツンの部分。だから俺が手綱を掴んでおかないと、というのがデレの部分。
ぶっちゃけ、とにかく一緒にいたいという訳だ。
それなのに、だ。当のお相手は、イケメンにメロメロになっていた。そんな相手のために頑張るというのも馬鹿みたいな話だ。
「ちっ! 今日はやめだ!!」
鉛筆を投げ捨て、気分を変えようと窓を開ける。
窓の向こうでは、いつものコントのような悲劇が繰り広げられていた。
中庭に、澄んだ声が響く。
「彼女の悪口を言うなんて最低だよ! 彼女が一体どれだけあなたに尽くしているのか全然分かってない!!」
彼女の事を知らない人間がそれだけを聞けば、酷い男に捕まった友達のために怒っているのだろうと思うだろう。
「シ、シエルさん……!! 誤解だ!! 俺は何もしてない!! お願いだから命だけは……!!」
「言い訳するなんて、男らしくないよ! さあ! ジャン=ジャックに今すぐ泣いて土下座しなさい!!」
そう言って差し出した彼女の手の中には、丸まったティッシュ。
時は春。花粉の厳しい季節である。
謝れと迫られている彼はただ、「あーマジ鼻水だりぃー。見てくれよ、鼻かみすぎて皮がべろべろだよー」とぼやきながら、マナー良く持参のゴミ袋にティッシュを入れただけだ。もう一度言おう。それだけだ。
彼のどこに否があるのか、シエル以外には誰一人として解らない。勿論、迫られている男子生徒にも解らないのだから、彼は混乱の極みである。
彼は考える。素直にティッシュに頭を下げるべきか。いや、それは人としての何かを失う気がする。しかし、彼女に逆らえば自分は一体どうなってしまうのか。それよりも、人が鼻をかんだティッシュをよく平気で握り締められるものだ。いや、そんな事はどうだっていい。“彼女”と言ったくせに、ジャン=ジャックは男の名前ではないのか!? ソイツは女なのか!? 男なのか!? どっちなんだ!?
どちらでもありはしない。ただのティッシュである。
そんな事すら気づけないほど、彼は混乱していた。それもこれも目の前にいる美少女シエル=リーンのせいである。
どうして、彼がこれほどまでに追い詰められているのかというと、その答えはシエルの現在進行形で唸らせようとしている光る右手が物語っていた。
「謝る気は無いって言うんだね……? 酷いよ!! 彼女の痛みをあなたも知ればいいんだ!!」
やはり女なのか!!? そんなどうでもいい事を思いながら、シエルの光る拳が迫るのを彼は呆然と見ているしかできなかった。
その場に居合わせてしまった者たちは心の中で合掌する。彼女の膨大な魔力が込められている拳を受け止め切れる人間など、この学院にはひと握りしかいないのだから。せめて、彼が原型を留めるくらいで済むようにと祈っていた時、救世主がやって来た。
「印・壱・拾六・零・印!!」
鋭さを感じさせる声が“口頭陣”を紡ぐ。同時に、煌めく閃光。
その光を見た周りの者たちは、“間に合わなかった”と思っただろう。しかし、不自然に収まっていく光が、そうではなかった事を悟らせた。
何かに吸い取られるようにして、光は輝きをなくしていく。やがて光が小さくなった時、その何かは姿を現した。
シエルと男子生徒の間に、別の人間の姿があった。彼は手を前に突き出し、光を吸い取っている。光が完全になくなると同時、彼は手を握り締める。すると、作った拳の間から光の粒が溢れては拡散し、それは宙へと溶けて消えた。
観衆から歓声が上がる。
「おおおおおおお!! さすがジン!!」
「ジン君素敵ー!!」
「先輩惚れ直すっす!!」
「ジーン!! ジーン!!」
「ジンかっこ……よくねーな……」
「あ……、やだ、ホント。キメきらない男ね」
“ジンコール”が起こるかと思われたが、なぜか男子生徒を救った彼を見る目は、皆憐れみの目へと変わっていった。
それもそのはず。魔力自体は拡散されたが、生身の拳をその頬に食い込ませていたのだ。
魔力拡散魔術発動→手を突き出すジン→光で前が見えない→シエルとの位置がちょっとズレる→魔力は拡散できた→けど、手を滑り抜ける拳→普通のパンチを喰らう。といった残念な流れであった。
「……」
「いきなり飛び込んできてどうしたのジン? 私、彼氏をいたぶる性癖なんて無いんだけど」
「俺だってねぇよ! 話す前にまず手をどけろ!」
ジンはズレた眼鏡をくいっと直しつつ、腰を抜かしている男子生徒に目配せをする。“今のうちに逃げろ”という合図を男子生徒は見逃さず、すたこらと逃げ出して行った。
それを見たシエルは丸い頬っぺたをより丸くさせて口を尖らせる。
「もう! また、どうしてジャマするの!?」
「その前に、なんであんな状況になってたかを説明してみろ」
「え? えーとね、さっきの子が鼻をぐぢゅぐぢゅさせてたから、ああ花粉て大変だなー、って思ってたの」
「ふむ、まともな考えだ」
「でね、彼は鼻をかんでこう言ったの。『あー、鼻の皮がべろべろでマジだりー。お前が俺の鼻をこんな風にしたんだ! この役たたずめ!』って」
「それは本当に言ってたのか?」
「え? うん、たぶん」
言っていない。九割捏造である。しかし、彼女の耳には確かにそう聞こえていたのだから、不思議な事もあるものだ。
「それから、こともあろうに彼は自分の汚物の処理をしてくれたティッシュを」
「誤解を生む言い方はやめろ」
「袋に投げ入れたんだよ! お前は用済みだとばかりに!!」
「実際用済みじゃねぇか」
「もう、ジャン=ジャックの気持ちを思うと、可哀想で可哀想で……」
「誰だよ」
ツッコミに意味は無い事を知っていても、ツッコまずにはいられないのがジン=バースという男。苛立ちを眼鏡をくいくいさせる事で収めようと動かす指が忙しない。
「だから私は……」
「よく分かった。よし、話は終わりだ。教室に戻るぞ」
「やだ、ジンったら私の事迎えに来てくれたんなら、そう言ってよぅ。照れ屋さんなんだから、もう」
誰もそんな事言ってない、そうジンは言おうとしたが、腕に抱きついてきたシエルに赤面して言えなくなった。
「お、前っ! 人前でベタベタするなっていつも言ってんだろ!?」
「え~、誰もいない時はいつもあんなに……」
「黙れ!」
「この前だって私の部屋で……」
「お願いだから黙ろうかあああああああ!!」
なんだかんだで幸せオーラ出してんじゃねぇよ。ジンとシエルの言動を見ていた寂しい人間たちは、そう心の中で毒づいた。
付き合って二年。色々と問題はあるが、いつの間にか学院内では“バカップル”認定されている二人。シエルが問題を起こすのは当たり前。ジンがキレるのも当たり前。いつもの日常であった。
しかし、いつも以上の問題と、いつも以上のキレっぷりを披露する事件が、二人に迫りつつあるのをこの時の二人は知るはずもなく、きゃっきゃうふふ(シエル視点)しながら教室に向かうのであった。
【口頭陣】
そのまんま、口頭で紡ぐ魔術陣。最初と最後に印を持ってきて、現象に対応する数字を繋げる。
媒介を使わずに発せられる口頭陣は、威力が弱くなるのと、現象に対応する数字がどう繋がればどういう現象になるのかを理解していないと発動しない事の難しさから、簡単なもの以外はあまり使われない。
理数系が得意な人間には、どんな状況にも対応できるという便利さから多用されている。勿論、シエルは覚えているものしか使えない。




