3.お前は俺の嫁。
シエルの衝撃発言から一夜明け、ジンは気がつけば自分の教室の、自分の机に座っていた。
昨日のシエルの柔らかい攻撃は、相当ジンにダメージを与えていたらしい。昨夜からの記憶があやふやだ。
――くそっ!! シエルのやつめ、卑怯な攻撃しやがって……っっっ!!
どうやら、昨日の「お嫁さん」発言からのくだりは、ジンにとって嫌がらせに受け取られたようだ。
ぱお~ん。
シエル警報が教室に鳴り響いた。教室を緊張感が支配する。
シエルの前では消しゴムを落とす事さえ罪になる。消しゴムに「落としてすみませんでした」と土下座するまで許してくれない。
皆、失態を犯さないように、できるだけ動かないように、あまり喋らないように、早く今日という日が無事終わりますようにと祈りながら、魔王の到着を戦々恐々としながら待つ。
ふわり。
彼女が現れると空気が変わる。彼女が一歩地面を踏みしめるたびにそこから花が咲き出しそうな、彼女の髪が靡けばキラキラと星屑が散らばっていそうな、そんな幻覚が見えそうなほど可憐に現れる。
しかし、可憐な様は見た目だけだと骨身にしみて理解している面々は惑わされない。むしろ冷や汗をかくほどだ。
見た目だけ可憐な妖精のような少女は、ジンと目が合った。
しまった!! 目が合っちまった!! ジンは自分の失態に心の中で悪態をつきながら、目を逸らそうと思ったその瞬間。
シエルが鮮やかに笑った。
ジンは自分の鼓動の音を聞いた。
今まで見た事がない、笑顔だった。不覚にも――、可愛い、と思ってしまった。
バチコーン!!
ジンは自分の頬を力の限りぶった。その衝撃で周りの机や椅子を巻き込みながら、盛大に椅子から転がり落ちる。
いけない、惑わされるな、アレは天使の皮をかぶったただの変人だ。いや、痴女だ。昨日の破廉恥な行動を忘れたのか、ジン。いや、もしかして昨日のどさくさに紛れて魅了の魔術を使われていたのかもしれない。くそっ、なんて卑怯なヤツなんだ!!
学院一のクールガイは自傷行為をした後、床に手をついて目を限界まで見開きブツブツと何事かを言っている。しかし、彼はシエルの事が絡むと壊れる事は周知の事実である。ドン引きしながらも、何も見なかった事にしてあげるのが彼のためだろう、と皆は目を逸らした。
「また何一人で遊んでるの? ふふっ」
シエルはそう笑って、ジンを立たせてあげようと、彼の手をとった。
途端、彼の顔が真っ赤に染まる。
――ヤバい、かも、しれない。
ジンの中の警鐘が壊れそうなほど激しく鳴り響いている。『変人で痴女』だったはずの少女が、今彼の目には『女』にしか見えなくなっていた。
いつもなら振りほどくはずのその華奢な手を、ジンは握り返して立ち上がった。
教室が騒然とした。いつもは羽虫を払うがごとく、稀に害虫を見るがごとくの目でシエルを見ていたジンが、素直に手をとって立ち上がった……!! きっと、今日中にはこの事実が学院新聞のトップを飾って配られ、それを見た者は世界の終末を危惧する事だろう。それほどにありえない事だったのである。
「あ~れ~? ジン君、なんかいつもと違うねぇ~? なになにぃ~? もしかして、もしかしなくとも、はっぴーぶらいだるぅ~?」
白銀の髪をふわふわと揺らめかせ現れたのは、シエルの片手で足りるほどの少ない友人の一人だった。
話が飛躍しすぎだろう、とそれを聞いていた者は思いつつ、シエルが絡む話には口を出せないと、心の中だけでツッコむ。
しかし、ツッコめない状況に追い込まれている純情ボーイが、無意味に眼鏡をくいくいさせて冷静を装おうとしている。
ぶらいだる。ぶら、ぶらいだる? ぶ……、け……っこん? 結婚……、嫁……!? 誰が!? 誰と!? ぅ……、うわああああああああああ!!
純情ボーイの眼鏡をくいくいする勢いが凄まじい激しさになった時、シエルが口を開く。
「やだ、そんなんじゃないよ。何年も喧嘩してたのを仲直りしただけだよぅ。元通りの『お友達』になっただけ」
シエルは昨日、卒倒したジンを家に送り届けた後、反省していた。
自分は確かにジンの事が好きだけれど、はたして彼はどうなのだろう。やっぱりただの幼馴染としてしか見ていないかもしれない。それだけではなくて、もしかしたら既に他に好きな子がいるかもしれない。そうだったら、あまり迫るのはよくない。自分の気持ちを押し付けてはいけない。そう考えていた。
シエルは人の話を聞かないが、決して人の心を考えない訳ではない。ただ、それが常人では理解できない域で考えられ、結果はた迷惑な結末しか生まないが。
今回は、恋する乙女の奇跡となってまともな思考となり、これまた奇跡的に空気を読んで『お友達』発言に繋がった。
だが、その奇跡さえ、いらないところで発揮されてしまったようだ。
――ガンっ!!
シエルの机をジンが蹴りつけた音が教室に響いた。
ただ友人と話していただけのところにジンのその行動は、さすがのシエルでも目を丸く見開いて驚いている。
何か分からないけど、思春期だし、『男の子』だしね、仕方ない!! と、いつものように温かく見守ろうとシエルはジンに微笑みかけようとしたが、ジンの目を見たらそんな事できなくなってしまった。
苛烈な瞳。今までどれだけ酷い態度をされようが、そんな憎しみのこもった目をされたのは初めてだった。
「な……に? どうしたのジ……」
「所詮お前なんて、そんなヤツだよな」
震える唇をどうにか抑え、何が? と、彼に問おうとしたのに、狙ったかのように予鈴が鳴り響き、同時に担任が入ってきてしまい、シエルは口を噤んでしまった。
結局その日は二人は目も合わせる事なく、放課後になった。
最後の授業が終わり、シエルは何もする気が起きずにぼんやりとただ席に座っていた。
――何か彼を怒らせるような事を言っただろうか……。
彼女が今日一日考えていた事はそれだけだった。
彼女は、無意識のうちに人の気分を逆撫でさせてしまう事を自覚している。自覚しているが、無意識だからこそ、どうにもならない。気がついた時には、もう人に嫌われているのだ。
ジンに無視されだした時にも出なかった涙が、今は我慢できずにじんわりと空色の瞳に浮かんだ。
――ジンに、嫌われた。
それが、どうしようもなく哀しい。お気に入りのぬいぐるみを魔術の失敗で惨殺してしまった時よりも、友達が下着泥棒だと発覚した時よりも……、心ない人間から化け物だと罵られた時よりも……。
ジンに、もうアノ目しか向けられなくなってしまった事が何よりも哀しい。
「ちっ、なんで泣いてんだよ」
シエルが顔を上げると、ジンがバツが悪そうに立っていた。その目には、もうあの苛烈な色がなく、それにシエルの心は幾分か軽くなった。
気が付けば、もう夕日さえも沈みかけて、グラデーションの上の方では星が瞬きだしている。
ジンは己のミスを呪った。生徒自治会の仕事を先ほどまでしていて、いざ帰ろうと思ったら鞄を教室に置いたままだったのに気づいたのだ。イライラしすぎて、鞄の事なんて目に入っていなかったらしい。
その事にもまた苛立ちを募らせ、戻った教室に……、シエルが一人泣いているのを見つけてしまった。
そのまま何も見なかった事にして帰ってしまいたかったが、そうもいかない。明日提出の課題が鞄の中にある。仕方なく、ジンはシエルが何を言い出しても無視する方向で教室に入った。
ところが、横を通り過ぎても、机にかけてあった鞄を音を立てながら取っても、全く気づく様子がない。
何がそんなに哀しいのか。正直、ジンはシエルが泣いているところを見た事がなかった。いつもジンが何を言っても、他者からもどんな酷い言葉を投げかけられても、いつもふわふわと笑っているだけだった。
そんなシエルが、周りが見えなくなるほど沈んでいる……。
――なんだよ、俺のせいかよ、くそっ。
ジンは心の中で毒づき、そして「なんで泣いてんだよ」と、うっかり口に出してしまった。さすがに声には反応してしまったみたいで、シエルがジンに気づいてしまった。
その時の柔らかく緩んだ顔が、まるでジンに会えた事が心底嬉しそうに見えて、ジンは心を乱された。
「くそっ!! うぜぇ!!」
シエルとの差を見せつけられ、悔しさで眠れなかった時ですらここまで心を乱されなかった。制御できない感情の渦に、ジンはどうする事もできずに自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
しばらくして、そのまま頭を抱えて座り込んでしまったジンを見て、シエルは軽く震えている手をもう片方の手でギュッと押さえ込んで、勇気を振り絞って聞いた。
「ねぇ……、ジン。私、何かしたかなぁ? どうして、怒ってるの……?」
その言葉に、ジンの目がまた鋭くシエルを射抜き、シエルは肩を震わせた。
「どうしたもこうしたも!! あんな馬鹿のされ方されれば、さすがの俺だってキレるわ!!」
「馬鹿に……、って。私、ジンの事馬鹿にした事なんて、五歳くらいまでしかないよ?」
「微妙にツッコみの余地のある言い訳してんじゃねーよ!!」
「もう!! 何言ってるか分かんない!!」
「俺の方が分かんねーよ!! お前の言ってる事はいつもいつもいつも!! 訳分かんねーんだよ!!」
「……だから今日怒ったの?」
「ちげぇよ!!」
「じゃあ、なんなの!? 私にもちゃんと分かるように説明してよ!!」
「お前が昨日あんな事言っておいて今日あっさりと俺の事『友達』だとか言うからだろうが!!」
「……え?」
「……え?」
シエルにとってはさっぱり分からない理由だったので、思考回路が止まり、ついでに涙も止まった。
ジンはといえば、あまりにも格好悪い理由だったので、言うつもりがなかったのだが、勢いに任せてついポロっと言ってしまった事に激しく後悔していた。
「つまり、どういう事?」
シエルがまだ涙で濡れているまつ毛を瞬かせながら小首を傾げた。それを見たジンは、やっぱり可愛く見えてしまう事実に、――俺も落ちぶれたもんだな、と溜め息を吐き、そして色々な事を観念した。
「だから……!! 昨日、俺の嫁になるとか言ってたくせに、今日はそんな話なかったみたいに『友達』とか言うから!! からかわれただけだったんだってムカついたんだよ!!」
「つまり……。私を嫁に欲しいって事だよね?」
「あぁぁぁん!? なんで、そういう事にな……」
言い終わる前に、ふわっ、と柔らかいものがジンの上に降りてきた。
シエルが、あろう事か純情ボーイの膝の上に、横乗りで座ったのだ。その腕は純情ボーイの首に回されており、彼の頭をギュッと抱え込むように強く抱きしめている。
つまり、またもや柔らかい双丘が彼の体に密着しているという事になる。
ジンはまたもや思考回路がお空の彼方に羽ばたいた。
――いい、匂いがします……。お母さん……、僕は今日も頑張って生きてます……。
ジンが未だ健在の母を勝手にお星さまにして現実逃避をしていると、柔らかく温かいものが少し離れた。その次の瞬間――、
ちゅっ
唇に、瑞々しい柔らかいものが、触れた。
……触れた。触れたよ。……なんか柔らかいものがああああああ!! おかーさあああああああん!!
「おまっ……、おまえ……っ!! いま、なに、したっ……!?」
今日も卒倒しそうになったのをお空にいるお母さん(幻覚)の力を借りてなんとかこらえると、からくり人形のようにギギっと顔をシエルの方へ向ける。が、向けたのを、ジンはとても後悔した。
泣いた後の瞳はまだ潤んでいて、その瞳を上目遣いでジンへと向けていたのだ。
「なにって……。だって、私が欲しいんでしょ?」
潤んだ瞳。羞恥でうっすらと色づく頬。誘うように濡れている唇。
ぷつん。
ジンの中の何かが切れた音がした。
グっとシエルの腰を引き寄せると、ジンは本能の赴くままに甘い唇を貪った。
大人のキスなんて知らない。労わる余裕なんてない。
ただ、シエルが欲しくて、欲しくて、たまらなかった。
息をつく暇もなく、ジンはシエルの唇を貪る。息苦しくてシエルが逃げようとしても、腰に回された手はびくともせず、頭にも手を回されて、シエルは顔を動かす事すらできなかった。
それでも、苦しくても、シエルは自分の中から沸き起こる歓びを抑えられなかった。
自分を求めてくれている。
大人ぶって、余裕ぶっていても、ジンに避けられていた八年は不安だった。
嫌われているのではないか。もう二度と笑いかけてはくれないのではないか。このまま、シエルの手の届かない遠くに行ってしまうのではないか。
見てみぬフリをしてきた気持ちは、今この瞬間に全て昇華された。
このまま、ずっとこうしていたいとさえ思っていたところに、ジンの唇が離れてしまった。少しもの寂しさを覚え、ジンを見る。
目と目が、合った。
自分は、今一体どんな顔をしているのだろうか。目の前にいるジンのように、熱に浮かされたような、物欲しそうな顔をしているのだろうか。
シエルは急に恥ずかしくなって、顔を俯けた。すると、身体がふわっと浮き、気がつくと机の上に寝かされていた。
頭がついていかず、ただジンをじっと見つめていると、彼は締めていたネクタイを緩めた。
ジンは、一体何をしているのだろうか。何……、ナニ……を……!?
これから起こるだろうめくるめく大人の世界に思い至り、さすがにシエルは焦りだした。
「ジ……、ジン……!! 待って……、お願い待って!!」
眉尻を下げ懇願する様は、ジンの目にはもう誘っているようにしか見えていない。
「お前を……、くれるんだろ?」
シエルの返事を待たず、覆いかぶさってまた貪るような口づけをする。互いの唾液が混じり合い、どちらのものなのか分からないものがシエルの頬を伝う。二人しかいない教室には、彼らの荒い息遣いだけが響く。
そして、シエルのブラウスのボタンを外そうと触れた時、事件は起きた。
バチバチバチバチッ!!
激しい音を立てながら、ジンが光った。
シエルは何が起きたのか理解できずに、ぽかん、とそれを見ているしかできなかった。その間にもジンは光り続けている。ついでに痙攣している。
やがて光が収まり……、ジンはヒキガエルのように仰向けに倒れた。
◇ ◇ ◇
次の日、学院内に『号外!! あの学院一のクールガイ、ジン=バースが、婦女暴行!?』という見出しの学院新聞が出回っていた。
髪の毛が少しチリチリになったジンは、それを見てそっと涙した。
――終わった……。
彼は、自分の歩むはずだった輝かしい未来が終わった事を悟った。
学院内では、性犯罪防止のため、あらゆるトラップ(魔術)が仕込まれている。昨日、ジンはそのうちの一つにひっかかり、雷の魔術をその身に受けたのだ。
更に魔術が発動すれば、即座に教師に報せる仕様にもなっており、飛んできた教師に無様に伸びているところを叩き起こされ、延々と説教された。
その時に教師が言った「いくらシエルさんを恨んでいても、身体に言い聞かせようみたいな思考はいけません!!」という台詞がジンの心をえぐった。
どんだけ俺が悪役なんだ。その発想はなかったです。むしろ、そんな事を思う先生の方がヤバいです。そう言いたくとも、教師の弾丸のような説教には口を挟めず、涙を飲んだのであった。
「やだ……。ジン、婦女暴行だなんて、そんな卑劣な事する人だったの……?」
「……ちょっと黙ってくれるかな?」
「酷い!! 昨日私にあんな事しておいて、私だけじゃ足りなかったって言うの!? サイテー!!」
「お願いだからちょっと黙ろうかぁぁぁ!?」
教室のど真ん中でそんなことを叫べば、嫌でも人目についてしまう。
「可哀想に、ジン……。よっぽどストレスが溜まってたんだな……」
「だからって性犯罪に手を出すなんてサイテーよ!!」
「そうよ!! 去勢よ去勢!!」
「いいヤツだったのに……。どうしてこんな事に……、くっ!! 涙で前が見えねぇぜ!!」
言いたい放題のクラスメート達。しかし、実際ジンはそんな事する人間ではない事を知っているので、からかい半分で言っているだけである。
「酷いジン!! 浮気は死刑なんだからね!!」
更にはシエルの暴走が止まらず、ジンの胃は決壊目前である。
「うるせー!! 浮気なんざしてねぇよ!! 俺はお前だけだってもう知ってんだろ!?」
先ほどまで騒々しかった教室が、今度は違う意味で騒然とした。
あのジンが、シエルを黒い驚異Gと同等に扱っていたジンが、シエルと『お付き合い』宣言をした……!?
「なんでなんでなんで!?」
「なにがどうなってそうなったの!?」
「ついに頭のネジが全てぶっとんじまったのか!?」
「ラ、ラグナロクだ……。ラグナロクが始まるぞーーー!!」
「うわあああああこの世の終わりだあああああ!!」
ジンの周りに殺到するクラスメート達。もみくちゃにされてる隙間から、人だかりの向こうでシエルが頬を赤らめモジモジじているのが見えた。その姿に無性に殺意を覚える。
――くそっ!! 元凶がのほほんと幸せそうにしやがって!! 絶対に嫁になんか貰わねぇからな!!
そんな事を思いながらも、ジンはシエルに対するこの居心地の悪い感情はずっと消えないのだろう、とシエルの幸せそうな顔を見て、予感した。