第1話 秘密基地を探そう
子どもの頃、「自分たちだけの秘密基地」が欲しいと思ったことはありませんか。
山の中で見つけた古い小屋。
おやつを持ち寄って、みんなで使える場所にできたなら――。
小学三年生のひなたたちの、ちょっと特別な放課後が始まります。
森川ひなたが「秘密基地」というものを急に欲しくなったのは、昼休みに小川実が何気なく口にしたひと言がきっかけだった。
それまでだって、花守の山ではいくらでも遊んできた。春になれば山菜の芽を探し、夏には沢へ行き、秋には栗の落ちている場所を覗く。家から学校まで歩けば山はいつでも視界に入るし、教室の窓から見える景色だって、緑の山と畑と家々が並ぶ、ひなたにとっては見慣れたものだった。
ところが実が、「山のどこかに、みんなで使える場所があったらいいね」と言った途端、その見慣れた山の中に、今まで気づかなかった場所が隠れているような気がしてきた。
「あったらって、何するの?」
給食で残しておいた小さなコッペパンをちぎりながら、佐野すずが聞いた。
「本とか置いたり、おやつ食べたり」
実はそう答えてから、少し考えるように窓の外へ目を向けた。
「雨が降っても大丈夫なところがいいな」
「雨の日は山に行っちゃだめでしょ」
高瀬絵麻がすぐに言うと、実は「あ、そっか」と笑った。
それでも、屋根がある場所という考えはひなたの頭に残った。木の下や大きな岩のそばではなく、ちゃんと中へ入れて、五人で座れて、できれば窓なんかもあって、そこに図鑑や虫眼鏡を置けたらきっと楽しい。そんな都合のいい場所が山の中にあるはずがないと思う一方で、見つからないと決まったわけでもない。
「昔の炭焼き小屋なら、山に残ってるところあるぞ」
少し離れた席にいた山崎海斗が会話を聞いていたらしく、こちらを向いた。
ひなたはすぐに身を乗り出した。
「どこに?」
「知らねえよ。父ちゃんが言ってたの聞いただけ」
「じゃあ探せるかもしれないじゃん」
「何でそうなるんだよ」
海斗は呆れた顔をしたけれど、放課後になれば一緒に来るだろうと、ひなたには何となく分かっていた。
花守小学校は全校児童が四十人ほどしかいない小さな学校で、学年が違っても知らない顔はほとんどない。ひなたとすずは三年生、実は二年生、海斗は四年生、絵麻は五年生なので、学校ではそれぞれ別の友達と過ごすこともあるけれど、放課後になるといつの間にかこの五人で集まっていることが多かった。
帰宅したひなたは、ランドセルを自分の部屋へ置くより先に台所へ顔を出した。
母の由美は冷蔵庫から鶏肉を出しているところで、調理台には新玉ねぎと人参、その横には近所からもらったらしい筍が置かれている。夕飯は何だろうと一瞬そちらへ気持ちが向きかけたものの、今日は先に聞かなければならないことがあった。
「お母さん、山行っていい?」
由美は冷蔵庫の扉を閉めながら、すぐに「どこの?」と聞き返した。
花守では「山へ行く」だけでは行き先の説明にならない。家の裏も、神社の向こうも、学校の北側も、見えるところの大半が山につながっている。
「花守神社の裏。すずちゃんと実くんと海斗くんと絵麻ちゃんで、秘密基地探すの」
「秘密基地?」
「昔の小屋があるかもしれないんだって」
母は少し面白そうな顔をしたものの、それ以上は追及せず、誰と行くのか、どこまで行くつもりなのか、何時に帰るのかを順番に確かめた。
ひなたが「五時まで」と答えると、沢より先の知らない道へ入らないこと、暗くなる前に必ず戻ること、何か変だと思ったら無理をせず帰ってくることを言い渡され、最後に玄関脇の棚を指された。
「GPSも持っていって。山の中は電波が弱いところもあるから、それがあるから大丈夫とは思わないでね」
「分かってる」
「水筒は?」
そこで初めて、ひなたは麦茶を持っていくのを忘れていたことに気づいた。
母から小さな水筒を受け取り、玄関へ向かう途中、食卓の上に置かれた苺のパックが目に入った。大粒の苺がきれいに並び、窓から差す光を受けて赤く光っている。
「それ、帰ったら食べていい?」
「時間までにちゃんと帰ってきたらね」
秘密基地も苺も、どちらかを諦める必要はない。五時までに戻れば両方手に入るので、ひなたは急いで靴を履いた。
ところが白い運動靴の紐を結んでいると、二階から下りてきた兄の大地が足元を見て笑った。
「それで山行くの?」
「だめ?」
「別に。今日で白じゃなくなるなって思っただけ」
「汚れないし」
「山行くのに?」
反射的に言い返したものの、ひなたにも少し自信がなかったので、それ以上は何も言わず家を出た。
花守神社の石段の下へ着くと、ほかの四人はもう集まっていた。
すずは小さなリュックのほかに、持ち手のついた籠まで抱えている。
「それ何?」
ひなたが聞くと、すずは当然のように籠を持ち上げた。
「何か見つけたとき用」
「何かって?」
「食べられるものとか」
すると絵麻が、「知らないものを勝手に食べるのはなしだからね」とすぐに釘を刺した。すずは口を尖らせながらも、「分かってるって。採っていいって分かったものだけ」と答えているので、そのあたりはちゃんと心得ているらしい。
実はパン屋の名前が印刷された紙袋を大事そうに抱えていた。
「それ、おやつ?」
ひなたが訊くと、実は少し嬉しそうに頷いた。
「丸パン。あと、苺ジャム」
まだ山へ入ってもいないのに、ひなたのお腹が紙袋の方へ気持ちを引かれた。けれど海斗が「先に行こうぜ」と歩き出したので、五人は神社の裏手へ回り、木々の間へ続く見慣れた道に入った。
五月の山は、学校の窓から眺めているだけなら大きな緑の塊に見えるのに、中へ入ると同じ緑でも一つ一つ色が違っていた。光の当たる若葉は黄緑色に透け、杉の根元には昼間でも薄暗い影が残り、去年の枯れ葉を踏むたびに、かさ、かさ、と乾いた音が足元から返ってくる。その隙間では新しい草が伸び、道の脇には小さな白い花も咲いていて、ひなたは何度か足を止めたくなったものの、今日は秘密基地を探すのだからと、前を歩く海斗たちのあとを追った。
少し下ったところで沢へ出ると、空気がひんやり変わった。浅い水の底には丸い石がいくつも沈み、木漏れ日が水面で揺れるたび、その模様までゆらゆら動いて見える。小さな魚らしい影が石の間を横切った瞬間、すずが「あ、魚」と声を上げたが、海斗から「今日はそっちじゃないだろ」と言われると、名残惜しそうに水面を見ながらも追いかけるのは諦めた。
沢を渡る場所には、向こう岸まで大きな平たい石がいくつか並んでいる。ひなたは一つずつ足を置き、最後の石から土の上へ飛び移ったところで、着地の拍子に泥が跳ね、白かった靴のつま先に小さな茶色い点がついた。兄にはなるべく見せないことにする。
そこから先も、大人から行っていいと言われている道を外れない範囲で、秘密基地になりそうな場所を探して歩いた。
最初に見つけたのは、大きな岩の横にできた平らな場所だった。五人で座るくらいなら十分だし、木陰にもなっているので、すずは早々に籠を置いて「ここでよくない?」と言ったものの、海斗が空を見上げて「雨降ったら普通に濡れるぞ」と指摘すると、あっさり却下された。
次に見つけた二本の木は、ちょうど入口の柱のように並んでいて見た目は格好よかったが、その向こうはすぐ急な斜面になっていて、座るどころではない。さらに少し歩いたところには小さな空き地もあったけれど、明るすぎて学校の方からも見えそうだった。
「秘密基地っぽくない」
ひなたがそう言うと、海斗が笑った。
「大人に場所知られててもいいんじゃなかったのか?」
「それと、丸見えなのは違う」
「何が違うんだよ」
うまく説明はできないけれど、ひなたの中でははっきり違っていた。
秘密基地というからには、誰にも知られていない必要まではない。でも、そこへ入った瞬間に外から少し切り離されて、自分たちだけの場所になったように感じられるところがいい。
探し始めて三十分ほど経つ頃には、最初の勢いも少しずつ落ちてきた。山の中ならいくらでも場所があると思っていたのに、実際に探してみると、広ければいいわけでも、木陰ならいいわけでもない。屋根まで欲しいとなれば、そんな都合のいい場所が簡単に見つかるはずもなかった。
「お腹すいた」
すずがとうとう言った。
その言葉を待っていたように、実が抱えていた紙袋を少し持ち上げた。
「食べる?」
反対する人はいなかった。
五人は沢の近くまで戻り、日当たりのいい平たい岩の周りに腰を下ろした。
実が紙袋の口を開いた途端、それまで山の土や草の匂いに慣れていた鼻へ、焼いた小麦とバターの香りがふわりと届いた。中には手のひらほどの丸パンが五つ並んでいて、歩いている間に少し形の崩れたものもあったけれど、表面には薄い焼き色がつき、指で持つと中の柔らかさがまだ分かる。
さらに実が取り出した小さな保存容器の蓋を開けると、今度は苺の甘酸っぱい香りが加わった。真っ赤なジャムの中には、煮崩れずに残った果肉がところどころ見えている。
「これ、すずちゃんちの苺なんだって」
実に言われ、すずは少し得意そうに胸を張った。
「去年いっぱい採れたやつ。冷凍してたんだって」
ひなたは丸パンを両手で割った。薄く焼けた表面が小さく裂け、その内側から白い生地がふわりと開くと、さっきまでよりバターの香りが少し強くなる。
そこへ苺ジャムを塗り、最初は控えめにしていたものの、実が「まだたくさんあるよ」と言ったので、果肉の残っているところをもう一匙のせた。
ひと口かじると、柔らかなパンに歯が沈んだあとで苺の果肉がぷつりと潰れ、最初に甘さが広がったかと思うと、すぐに軽い酸味が追いかけてきた。パンにはほんの少し塩気があるせいか、ジャムだけを舐めるより苺の味がはっきり感じられて、ひなたは二口目をさっきより大きくかじった。
隣では、すずが欲張ってジャムを塗りすぎたらしく、口の端を赤くしている。
ひなたが笑って教えると、すずは指で拭ったジャムをそのまま舐めたあと、「ひなたもついてるよ」と言い返した。海斗がそれを見て笑い、絵麻は二人分のティッシュを鞄から出してくれる。
実はその間も、丸パンを両手で持ったまま黙々と食べていた。普段から口数の多い方ではないけれど、おいしいものを食べているときはさらに静かになるので、ひなたもわざわざ話しかけず、自分のパンをもう一口かじった。
沢の水音を聞きながら、柔らかなパンと甘酸っぱい苺ジャムを食べているうちに、さっきまで足に残っていた疲れも薄れていく。秘密基地が今日見つからなかったとしても、こうして山でみんなとおやつを食べるだけでも十分楽しいかもしれないと、ひなたが思い始めたときだった。
何気なく向けた沢の向こう、木々の間に、自然のものとは少し違うまっすぐな線が見えた気がした。
ひなたは食べかけのパンを持ったまま目を凝らした。最初は木の幹かと思ったものの、よく見ると同じような茶色い線が少し離れたところにもあり、その上には黒っぽいものが斜めに伸びている。
「ねえ、あれ何だろう」
ひなたが指を差すと、四人も同じ方向を見た。
海斗が先に立ち上がり、少し場所を変えて眺めてから、「柱じゃね?」と呟いた。
その言葉を聞いた途端、すずは残っていたパンを急いで口へ入れた。
沢を渡り直し、決められた道から大きく外れない範囲で木々の間を進んでいくと、先ほど見えていた茶色い線が少しずつ形を持ち始めた。柱だけではなく、黒ずんだ板壁があり、その上には枯れ葉の積もった屋根が乗っている。
古い小屋だった。
屋根の端は少し沈み、板壁にも隙間があるけれど、今にも崩れ落ちそうというほどではない。周囲を木々に囲まれているため、少し離れれば山の景色に紛れてしまい、ひなたたちが今まで気づかなかったのも不思議ではなかった。
すずが「これじゃない?」と小さく言った。
何が、とは誰も聞かなかった。探していた秘密基地という言葉が、五人とも同時に頭へ浮かんだのだと思う。
すぐに中へ入りたくなったものの、海斗が入口の少し前で足を止めた。
「待てよ。誰の小屋かも分かんないんだから、勝手に使うのは駄目だろ」
それはそうだったので、ひなたたちは入口から中を覗くことにした。
薄暗い室内には、壁際に古い棚が残り、隅には木箱がいくつか積まれている。奥には石を組んだ炉のようなものもあり、泥のついた窓ガラスから差し込む細い光が、空気の中の埃を白く浮かび上がらせていた。
古い木と土の匂いがして、五人で座るには十分な広さがありそうだった。
ひなたの頭の中には早くも、窓の近くに机を置き、図鑑を並べ、さっきの丸パンをここで食べる光景が浮かんでくる。大人に聞いて、本当に使っていい場所だと分かったなら、こんなに秘密基地らしいところはほかにない。
そんなことを考えながら入口の足元へ目を落としたとき、泥のついた床に小さな跡が残っていることに気づいた。
細い足跡がいくつも、小屋の奥へ続いている。
「猫かな」
ひなたがしゃがんで見ようとすると、海斗も横から覗いた。
「猫じゃないと思う」
形は小さいけれど、確かに家の周りで見る猫の足跡とは違っていた。そのそばには薄桃色の小さな花びらが一枚落ちていて、ひなたは手を伸ばしかけたものの、知らないものを勝手に触るのはやめて、顔を少し近づけるだけにした。
窓から風が入った瞬間、その花びらからなのか、それとも小屋の奥からなのか、ほんのり甘い匂いが鼻先をかすめる。
足跡は入口から続き、積まれた木箱のところで見えなくなっていた。その奥は光が届かず、ひなたが目を凝らしても何があるのか分からない。
もう少し見えないだろうかと体を傾けた、そのときだった。
木箱の向こうから、小さなくしゃみが聞こえた。
「……くしゅん」
五人の動きが一斉に止まった。
風の音でも、鳥の声でもない。
ひなたは食べかけの丸パンを握ったまま、暗い木箱の向こうをじっと見つめた。
どうやらこの小屋には、ひなたたちが見つけるより先に、別の先客がいるらしい。




