夕暮れに銀の星 05
小さなティーテーブルに、白いクロスを敷く。その上に食器を置き始めたリリアーナは、目を瞑ったまま椅子に座るイオに声をかけた。
「今日からテーブルマナーを覚えてもらいます」
「……はい」
すでに顔色が悪い。過去、食卓で何があったのだろうと思いつつ、リリアーナはイオの前にカトラリーを並べた。
「目を開けて。……どう? できそう?」
「……はい」
「辛くなったら教えてね。じゃあまず、背筋を伸ばして」
リリアーナは隣で手本を見せながら、イオに食事の手順を教えていく。
もとよりイオの所作は綺麗だ。教え込まれた、というより、周りの人間をよく観察して身につけたのだろう。
物覚えもよく、理解も早い。
必要に迫られて培った能力なのかもしれないが、恐らく本人の資質もある。
(たぶんこの子、根が優しくて素直なんだよね)
そんな人間を奴隷落ちさせた神に呪いあれだ。
エカルラートの理念に反発を抱いているリリアーナだったが、神を敬わないその思想にだけは、共感を覚えてしまっている。
「次はメイン。ここにステーキがあると思って。左からひと口ずつ切って食べるの。切り方はこう。ナイフを滑らせるようにしてね」
カトラリーを持つイオの手が、ぶるぶると震え出す。
「……うっ、ぐっ、うぇっ」
ガシャンと食器が鳴った。
イオはテーブルの上に俯き、嘔吐く。
その背中をリリアーナは優しくさすった。カトラリーを握りしめている手をそっと開かせる。
「ごめっ、ごめんなさっ、うっ、ごめんなさいっ!」
「いいよ。大丈夫だからね。ゆっくり息を吸って。もう吐いちゃおう。その方が楽だよ」
ぼろぼろと涙をこぼすイオを、リリアーナは静かに慰め続けた。
使用人に掃除を任せ、リリアーナは考える。
(ただ椅子に座って何かを食べるのは平気。テーブルに向かうとダメ。多分だけど、テーブルマナーは既に身についてるな。で、奴隷前の記憶はなし。……なんか出生に見当がついちゃうんだけど)
リリアーナは着替え終わったイオの、その綺麗な顔をまじまじと見つめた。
その視線になにを思ったのか、イオは暗く瞳を伏せる。
「……申し訳ございませんでした」
「それは何に謝ってるの?」
「ご主人さまの教えに、従うことが出来ませんでした。更には、お見苦しいものをお見せしました」
「私がイオに教えることは、従うとかじゃなくて、身につけておいた方がいいこと、だよ。それが教養。出来なくても責めたりはしない。見苦しいとかは気にしなくていいよ。目の前で吐かれるの慣れてるし」
「…………目の前で吐かれることに、慣れて……?」
ぽつりと呟かれた疑問の言葉を、リリアーナは聞かなかったことにした。
(あぶないあぶない、それは慣れちゃいけないやつだ)
リリアーナは「そういえば」と話を逸らす。
「私のこと、ご主人さま呼びしてるでしょ。それもう禁止。次そう呼んだら返事してあげない」
謝る言葉と共に平伏してしまったイオに、リリアーナは続ける。
「はい、それももう禁止。そんな簡単に謝っていたら、ごめんなさい、って気持ちも、言葉も、軽くなっちゃうよ」
「……では、僕は、どうすればいいのでしょうか?」
「……どうしようね?」
リリアーナは腕を組む。どうするのが正解なのか、わからなかった。
「とりあえず、土下座はもうしないで。見ていて不快」
「かしこまりました」
「丁寧な口調はそのままでいいと思う。……確認なんだけど、実はめちゃくちゃ口悪かったりする?」
「どう、でしょう? 言葉遣いはこの家の方々を真似ているだけなんです」
「じゃあ今思いつく限りの罵詈雑言を吐いてみて」
「ええっ?! ええっと、この屑、駄犬、汚物がお似合いの、」
「あ、うん、ストップ。よく分かった、もういいよ」
リリアーナの脳裏に容易に姉の姿が浮かんだ。オリーヴィアの罵倒語録など知りたくなかった。
その日もリリアーナはいつも通り裏庭の物置小屋へと向かった。以前アレクシウスに遭遇して、一度は通うのをやめようかとも考えたが、ここ以上に落ち着く場所はこの家には見つけられなかった。
ぽかぽかの陽気のもと、リリアーナは気持ちよくまどろむ。イオの気配に慣れてきたとはいえ、まだちゃんと眠ることができなかった。
かくん、と首が落ちて慌てて戻る。流石に地べたに寝そべるつもりはない。
(……ん、なんか、暗いな)
薄く目を開く。
(黒い……靴?)
なんでこんな所に、なんて寝ぼけた頭で思ってから、カッと両目を見開いた。
恐る恐る首を上げる。
「…………」
「…………」
やっぱりもうここに通うのはやめよう。
こちらを見下ろす赤い瞳に、リリアーナは眠気が一気に覚めていった。
「気配を消して近づくのやめてください」
「この距離で気づくなんて遅すぎる。簡単に殺されるぞ」
「お兄さまは私を殺しにきたのですか?」
「…………」
そこで黙らないでほしい。怖い。
「立ち上がるのでそこを退いてください」
「嫌だと言ったら」
なんで??
無表情にこちらを見下ろす兄の真意が読めず、リリアーナは強張る。
意味不明な沈黙が流れ、その苦痛なひとときに耐えられず、リリアーナは這うようにして横にずれた。スカートの裾が土で汚れるのを構わず、四足歩行のままアレクシウスから離れる。
「……俺の前で無様な醜態を晒すな」
「お兄さまがそこを退いてくださらなかったからでしょう?? 私のみっともない姿を見たくなかったのなら、手でも差し伸べてくださればよかったのです」
差し伸ばされたところで、恐ろしくて取れなかっただろうが。
見栄は張り通した方が良いのだ。
「リリアーナ、仕事だ。迅速かつ完璧に遂行しろ」
次期当主の顔をしたアレクシウスの前で、否と答えられる者はこの家にはいない。
何を考えているのかわからない人は、恐ろしいと思う。
そう、リリアーナは、この兄が怖い。




