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宵闇と明星 18


 歌が聞こえる。

 その旋律は、どこか懐かしい。

 頭を撫でられる心地よさに、イオはゆるやかに瞼を開いた。


「……リリアーナさま?」

「なぁに?」


 くすぐったいくらい、優しい声だった。

 なんて罪深い夢なのだろう。 

 歌を口ずさむ、リリアーナの姿をした、天の使い。

 その膝の上に頭をのせ、微睡む自分。

 柔らかな膝上に甘えるように頬を寄せれば、小さな指先が慈しむように髪を梳る。

 胸が満たされ、自然と吐息が溢れでた。

 そして、だんだんと明瞭になっていく意識に、じわじわと焦燥が募る。


「……リリアーナさま」

「ふふ、なぁに?」


 イオは勢いよく身を起こした。

 夢じゃない。

 夢だったけど、夢じゃない。


「ここはどこですか?」


 リリアーナから告げられた場所の名に、イオは胸がひどくざわついた。

 寒々しいほど広々とした謁見の間には、人影ひとつなく、静寂が満ちている。

 高い天井に嵌め込まれたステンドグラスから、陽が差し込む。柔らかく落ちる光に照らされたリリアーナは、夢のように美しかった。

 イオはこの場所から戻ってくる彼女の帰りを、部屋で待っていたはずだ。

 どうして自分がここにいる。


「リリアーナさま、お部屋に戻りましょう」


 声が震えた。

 いつものように、「そうだね」と笑って答えて欲しくて、無理矢理笑顔をつくった。


「イオ、先に戻ってて」

「……嫌です。一緒に行きましょう? 手を繋いでほしいです」

「ふふ、すっかり甘え上手になって。誰の入れ知恵かしら」

「黙秘します」


 リリアーナが笑った。

 イオはそっと息を吐く。

 手入れの行き届いた大理石の床に、大きな亀裂が入った箇所がある。その近くには、短剣らしき残骸が転がっていた。

 間違いなく、ここで何かがあった。

 けれどそれは、イオが思っていたほど、悲惨なものではなかったのかもしれない。


「イオ。あのね、私、イオにお願いがあるの」

「…………聞きたくありません」

「困ったなぁ」

「命じてくださればいいのです」


 リリアーナが眉尻を下げる。イオはリリアーナを困らせたくはない。 


「主人として、僕に命じてください。何でもします。たとえこの命に代えても。僕の命はあなたさまのものだ。必ず遂行します。誰を殺せばいいですか」

「物騒!! やめて。発想が完全にこの家の連中のそれ。そんな子に育てた覚えはありません」


 イオはぺしょんと肩を落とした。

 どうやら自分は間違えてしまったらしい。


「それと、イオの命はイオのものだから。次、自分の命を軽視した発言をしたら嫌いになるから」

「申し訳ございませんでした」


 イオはしょんぼりと頭を下げた。

 素直に反省を見せれば、リリアーナは穏やかに目を細める。その優しい眼差しに、イオはほっと胸を撫で下ろした。


 リリアーナは音もなく立ち上がる。


「では、主人として命じます」


 凛とした声に、イオは背筋を伸ばした。

 自ずと片膝をつき、主人に恭順の意を示す。


「健やかに、堂々と胸を張って生きなさい」


 ヒュッと喉が鳴った。

 見上げれば、リリアーナは女神のように微笑んでいた。


「人を慈しみ、人に愛されて生きなさい」


 そんな、まるで、最後の言葉みたいな命令。

 聞きたくない。


「自分の望む人生を、自分で選んで生きなさい」


 イオは口元を引き結ぶ。

 応えたら、もう二度と、リリアーナとは会えなくなる気がした。


「返事をしなさい」

「僕の望む人生は、あなたさまと共にいることです!」


 イオは叫んだ。

 この想いよ、届け。伝われ。

 あなたのいない人生など、生きる意味すらないのだ。


 リリアーナは、赤い瞳を、閉じてしまった。 


 その拒絶に、体の芯から熱が失われていく。

 指先が冷え、世界から音が消えた。

 言葉を失うイオの前で、リリアーナは苦しそうに胸元を押さえる。

 その手が強く握りしめられた。

 長いまつ毛を震わせて、ゆっくりと瞳が開かれる。


「……そう。……なら、私のお願いを、聞いて欲しい」


 躊躇うように伸ばされた両手が、イオの頬を包む。

 揺れる赤い瞳が近づいてきて、イオは目を瞑った。

 柔らかくて温かい唇が、額に当てられる。  


「どうか――」 


 リリアーナの吐息が髪を撫で、イオはぶるりと震えた。

 


 リリアーナの願いを聞き届けたイオは、足早に部屋へ戻った。

 必要なものを確かめながら、手早く荷をまとめる。

 部屋を出る前に、扉の前で一度だけ振り返った。

 まだ真新しい長椅子をしばらく見つめてから、静かに部屋の扉を閉めた。


 次にイオが向かったのは、幾度となく足を運んできた、今やすっかり馴染みの場所。

 日中しか訪れたことがないその場所は、今は艶めかしい夜の香りを纏っている。


「あらぁ? イオくんじゃない。ひとりなんて珍しいわね。あ、もしかしてとうとう? とうとうリリちゃんに愛想を尽かした?」


 二階のバルコニーから手を振るカレンを見つけて、イオはくしゃりと顔を歪めた。


「あ、やだ、うそ……マジなの? イオくん、リリちゃんはね、ちょっと情緒がないだけなの。でも、そんなところも可愛いでしょう? 完璧な人間なんていないもの。それに、リリちゃんはイオくんのこと、ちゃんと大切に思っているわ」

「分かっています」


 はっきりと答えたイオに、カレンは「あら」と頬に手を当て、優しく目を細めた。

 イオは言う。


「夜が明けたら、朝は紅茶ではなく珈琲を用意して。砂糖はいらない。ミルクをふた匙。庭の土が腐っているから、苗を入れ替えるわ」


 リリアーナの言葉を、一言一句違えず伝えた。

 カレンの榛色の瞳が、大きく見開かれる。


「……パンのジャムは何にすると言っていた?」

「ジャムはいらない。代わりにバターをたっぷりと」


 戸惑いは一瞬だった。

 カレンは艶やかな微笑みを浮かべた。


「こちらへいらっしゃい」


 その笑顔は、彼女たちがふるう武器のひとつだ。



 夜が明ける。

 イオは薄明に染まる空を見上げた。

 遠くのエカルラート邸を見つめ、拳を握る。

 己の無力さに打ちひしがれている時間はない。

 名前を呼ばれ、身を翻す。外套の裾が風に靡いた。

 イオが向かう先は、王都。

 エカルラート領から王都までは、厳しい山岳を越えなくてはならない。

 けれど、その旅路に不安はなかった。

 イオは、リリアーナから、多くのものを与えられている。


 命をかけることは、許されていないから。

 代わりに、この想いのすべてを捧げよう。

 健やかに、胸を張って生きるのだ。


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