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花と花の戯れ 13


 薄く目を開くと、テーブルの上に積まれた本の背表紙が見えた。

 イオは目を擦りながら、丸めていた体をゆっくりと伸ばす。

 足先が肘掛けにぶつかった。

 いつの間にか、イオの身体はこの長椅子には収まりきらないほど、大きくなっていたらしい。

 部屋の中はまだ薄暗い。

 イオは長椅子から降り、静かに身支度を整え始めた。

 

「リリアーナさま、おはようございます」


 寝室の扉を軽く叩き声をかけると、扉の向こうからすぐに返事が返ってきた。

 イオはリリアーナが眠る姿を見たことがない。

 中から出てくるリリアーナは寝巻きを着て、髪もそこそこ乱れているが、その表情はいつも冴えている。

 今日も今日とて、ぱちりと開かれた赤い瞳が、まっすぐとこちらを見上げた。


(……この人、こんなに可愛らしい方だったかな)


 イオは胸を押さえた。

 主人を可愛いなどと思ってしまった自分を戒める。


「……イオ、かなり身長伸びたね」


 リリアーナは自分の身長を手で測り、その手をイオに当ててくる。

 とん、と胸元を小突かれ、イオはどきりとしてしまった。

 このままリリアーナを抱き寄せれば、その体は自分の胸に収まってしまう、ということだ。

 イオは咳払いをした。

 主人を抱きしめるなどと考えてしまった自分を律する。


「もう長椅子じゃ狭いでしょ。私のベッドで寝ていいよ」

「絶対に無理です」


 即答したイオに、リリアーナはぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「どうして? 別に、一緒に寝ようって言ってるわけじゃないよ」

「……リリアーナさま、僕、一応、男です」

「んん? 一応も何も男の子でしょう?」

「僕、リリアーナさまのことが好きです」

「うん? 知ってるよ。ありがとう」


 これは、とぼけているのではない。本気で分かっていないやつだ。

 イオは気が遠くなった。

 おそらく、いやきっと、リリアーナは人の心の機微に疎い。


「私が好きだと、私のベッドで眠ることができないの? どうして? 恥ずかしいとか?」


 けれどリリアーナは、イオの心を分かろうとしてくれる。

 それがこんなにも嬉しい。

 けれど。


「黙秘します」


 それとこれとは話が別だった。



 リリアーナの部屋はさほど広くはない。数人で利用していたオリーヴィアの従僕部屋よりも狭いくらいだ。

 よって掃除は数刻で終了する。

 窓を磨き終えたイオは部屋を見渡した。イオの私物が置かれてもなお、リリアーナの部屋は物が少ない。

 飾り気がなく実用性重視の家具には、リリアーナのさっぱりとした性格がよく現れている。

 強いて部屋を彩るのは棚を埋め尽くす本たちで、その量は小さな書店に匹敵するだろう。

 その全てにイオは目を通しているが、難解過ぎて読むのを諦めた本もあった。


「私この家では落ちこぼれなんだよね」


 なんてリリアーナは言っていたが、にわかには信じ難い。

 しかしこの家の住人を知るイオは、それもあり得るのだろうと納得できる。

 エカルラート家は、異常だ。

 そうと理解できたのは、リリアーナがイオに知識を授けてくれたから。

 そして「これは一般教養よ」と教えてくれたものが、実はとても高度なものだったと知ったのは、彼女が外の世界を教えてくれたから。

 リリアーナがイオに与えてくれたものは、あまりに多く、あまりに大きい。

 これが彼女の言う偽善だというのなら、善行とはどれほど高尚なものなのだろう。

 リリアーナのように、奴隷に自らの財を投じてまで自由を与える主人は、果たして存在するのだろうか。


 扉が開く音に振り返る。


「おかえりなさいませ、リリアーナさま」


 リリアーナの血の気の失せた顔に、イオは笑いかける。

 すると、仄暗さを宿していた瞳に、輝きがもどる。


「ただいま、イオ」


 イオが笑うと、リリアーナも笑う。

 なら、いくらでも笑おう。

 リリアーナには、どうか、笑っていてほしい。



「イオくんはね、リリちゃんを怒っていいと思う」


 腰に手を当て、ふんすと鼻を鳴らした少女にイオは苦く笑った。


「たぶん、完全に厚意なので怒り辛いです」

「自分のことが好きな男を娼婦に預けることが? イオくん、気づいて、酷い話だよ」


 ユナに指摘され、イオは改めて考える。

 いや、これは深く考えない方がいいことだ、そう結論付けて、居住まいを正した。


「改めて、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。ふふ、なにこれ」


 部屋の真ん中に置かれた大きな寝台の上。

 ではなく、二人はその隣にある小さなティーテーブルに向かい合っている。

 ユナは用意された茶器を手に取り、にやりと笑った。


「娼婦を教師に選ぶなんてリリちゃんくらいなんだから。でも、任せて。ユナ、こう見えて昔は城勤めしてたから。給仕は得意だよ」

「はい。ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」

「やーん、かわいい! 先にあっち行っちゃう?」


 寝台を指さしてふざけるユナに、イオは緩く首をふった。


「いえ。ユナさんとそういう行為をするつもりはありません」

「えーん、フラれちゃったー!」


 ユナはあっけらかんと笑う。色を売ることを生業としながら、この娼館の女性たちはみな朗らかだった。

 同じような技術で人を悦ばせていたイオからすれば、尊敬すら覚える。

 それに、彼女たちから語られるリリアーナの話を聞くのも好きだった。

 そして、ユナの指導はリリアーナよりもはるかに手厳しかった。

 接待の奥の深さに、イオは感銘を受けるばかりだった。



 足元の影が長く伸びている。茜色に染まった町を歩く主人を、イオは後ろから静かに眺めていた。

 リリアーナの従者となってからのイオの生活は、リリアーナの所有物であった頃と、ほぼ変わっていない。

 ただ、奴隷でいたときよりも、彼女との距離は遠くなってしまった。

 もう、手を繋いでその隣を歩くことはないだろう。

 揺れる金色の髪が、夕日に透けて輝いている。

 触れたい、なんて感情は、主人に抱いてはいけない。


(この気持ちを、受け止めてくださるだけで、十分だ)


 自分の想いと同じものを、リリアーナに求めようとは思わなかった。

 無条件に降り注がれる優しさに、報いたい。役に立ちたい。そして、側にいたい。

 それだけ。


「ねぇ、イオ」


 不意に名前を呼ばれ、イオはびくりと震える。

 振り向いて、こちらを見上げる夕日色が、本当に綺麗で。


「私のベッドが嫌ならさ、新しくベッドを買うのはどう?」


 イオは、なんの話をしているのか理解するのに、数拍を要した。


「……リリアーナさまのお部屋に、僕のベッドを置くスペースなんてありませんよ」

「私のベッドの隣に置けるよ。衣装棚を撤去しちゃおう。部屋にもともとあったやつだし、ほとんど使ってないし」

「……リリアーナさまのベッドの隣に、僕のベッドを置くのですか? リリアーナさま、一般的に、寝室を共にするのは、夫婦など特別な関係にある者たちだけではなかったですか?」

「庶民は親子とかでも一緒に寝るよ」

「…………親子……」


 まさかの、親子。

 喜ぶべきか、嘆くべきか、イオには分からない。


「ははん。分かった。眠っているイオに私が何かイタズラすると思っているんでしょう? 指一本触れないから安心しなさい」

「……僕がリリアーナさまに、何か危害を加えるとは考えないのですか?」

「加えるつもりなの?」

「ありえません」

「ね、大丈夫」


 信頼されている、と考えればいいのだろうが、どこか釈然としないのは何故だろう。

 ひとり悶々とするイオに、リリアーナが言う。


「それにね。私、イオより強いの」


 イオは、その細腕が大柄な男を組み敷く姿を見たことがある。

 そして、魔術師としての技術も高いことは、この身を持って知っている。

 けれど。


「でも、僕、リリアーナさまの隣で眠れる気がしません」


 それとこれとは話が別である。



 寝台ではなく、長椅子を大きなものに買い換える、という折衷案で場は収まった。

 イオは濡れた髪をタオルでがしがしと拭く。

 先に湯浴みを終えていたリリアーナが、読んでいた本を机に置いて近寄ってくる。同じ石鹸の香りに、鼓動が早くなるようになったのは、いつからだったか。

 イオは目を瞑り、リリアーナが詠唱する声にじっと耳を澄ませる。

 その言葉を覚えても、イオは同じように魔術を扱うことはできない。


「よし乾いた。目、開けていいよ」

「……便利ですよねこの魔術。僕も使えたらいいのですが」

「魔術は魔力の保有量に関係なく、適性がないと扱えないからね。イオには難しいと思う。頑張って肉体強化くらいかな。体内の魔力を操作するのは、鍛錬すれば誰でもできるようになる」


 リリアーナの「誰でもできる」はいまいち信用ならないが、可能性があるなら挑んでみたい。

 イオはリリアーナにその技術の教えを求めた。


「いいよ。ついでに護身術も教えてあげる。身を守る術は多い方がいいからね」

「はい。ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」


 またひとつ。イオにはリリアーナから与えられたものが増えた。



 ペラリ。イオは本を捲る。

 食事が終わり、睡眠をとるまでの時間を、イオとリリアーナは読書をして過ごす。

 本が捲られる音と、身じろぎに布の擦れる音、二人の静かな息遣いが部屋を満たし、穏やかな時間が流れる。

 膝に本を置いていたイオは、顔の横に落ちてくる髪が邪魔で、後ろにまとめてしまおうと頭を上げた。

 そして机に突っ伏したリリアーナを見て、思わず立ち上がる。

 規則正しい寝息が聞こえることに気づいて、体の力を抜く。


(……眠っていらっしゃる?)


 イオは息を潜める。

 この部屋で共に生活するようになってから、それなりに経つが、イオはリリアーナが眠る姿を、初めて見た。

 主人の寝顔を窺うのはいかがなものかとは思いつつ、イオは静かに静かにリリアーナに近づく。


(肩掛けを肩に掛けて差し上げるだけ、肩掛けを肩に掛けて差し上げるだけ……)


 早口言葉のような文言を頭の中で繰り返す。

 本を枕にしているリリアーナの横顔。その瞳はしっかりと閉じられていて、芸術品のように作りものめいていた。

 呼吸と共に僅かに上下する華奢な体が、人らしい温もりを伝えてくる。


「……かあさま」


 小さな唇からぽつりと溢された寝言。

 イオは息を呑んだ。

 聞いてはいけない声を、聞いてしまった気がする。

 肩掛けを両手に広げたまま、イオは固まる。

 知性も実力も、自分より遥かに優れているリリアーナが、ただの少女のように見えてしまう。

 イオは自分の胸の内に芽生えた新たな感情に、そっと蓋をした。


「……リリアーナさま、こんなところで眠っていたら、体を痛めてしまいます。寝室へご移動を」


 囁きかけると、リリアーナはパッと顔を上げた。

 何度も瞬きを繰り返し、不思議そうにイオを見上げている。


「……わたし、ねてた?」


 どこか舌足らずな発音に、イオの胸はぎゅっと締め付けられる。先ほど蓋をしたばかりの感情が、溢れ出てしまいそうになった。


「眠っておられました」

「わぁ、恥ずかしい。涎とか出てないかな……」


 そう言ってリリアーナは口元を拭う。そして枕にしていた本にその痕跡を見つけて、慌てて腕で隠した。


「ええっと、見た……?」

「いいえ。何も」


 これは配慮だ。人はときに見え透いた嘘をつく。


「……嘘はね、貫けば真となるのよ」

「はい。肝に銘じます」


 格言めいたことを口にするリリアーナに、イオは至って真面目に頷いた。

 リリアーナは涎を垂らして眠っていた自分を闇に葬ろうとしている。

 その必死な姿がなんだか可笑しくて、イオはくすりと笑った。いけない、と口元を押さえたが、肩の震えまでは止められなかった。

 懸命に笑いを堪えるイオに、リリアーナもつられて笑った。

 その笑顔に胸の奥がじんわりと熱くなる。

 言葉にできない感情が込み上げてきて、鼻の奥がツンとした。

 人はこれを幸せと呼ぶのだろうか。

 涙が出てしまいそうなほど、優しくて、愛しくて、穏やかなひととき。

 あぁ、どうか。

 この幸せが、今度こそ、壊れませんように。

 イオは祈ろうとして、やめた。

 自分の願いは、リリアーナ以外に、聞き届けられたことがない。


二章おわりです。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

とても楽しく書いています。

評価をしてくださった、あなたさま。

ブックマークをしてくださっている、あなたさま。

リアクションをしてくださった、あなたさま。

本当に嬉しいです。同士ですね。

どうかこの物語が、あなたさまの息抜きになっていますように。

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