第22話 情報屋の矜持と「代償」の記憶
『七色の断崖』に夜が訪れる。
昼間の喧騒が嘘のように、断崖は静寂に包まれていた。
焚き火の残り火が、ぱち、と小さく弾ける。
焚き火を囲んで眠る冒険者たちの寝顔は、驚くほど穏やかだ。
昼間の大宴会に参加した全員が、驚くほど穏やかな顔で眠っている。
それは、クロノが無意識に放った“幸福の波動”の余韻だった。
その中心で、クロノ・ルミナスはぐっすり寝ていた。
その横では、銀翼の天馬が翼を畳んで丸くなり、
ミストキマイラは霧をふわりと漂わせながら眠っていた。
そんな中、音もなくシュラフから抜け出す影があった。
情報屋、フィーナ・ライムである。
(……やれやれ。あんな多幸感に当てられた後じゃ、仕事のやる気を出すのも一苦労だよ)
彼女は肩を回しながら、夜空を見上げる。
ちらりとクロノを見る。
本当に無防備な寝顔だった。
「……ほんと、平和な顔してるね」
呟くと、闇に紛れて崖下のへと消えた。
彼女の胸元には、昼間にクロノから金貨5枚で譲り受けた『幻の黒茶』が収められている。
だが、フィーナは知っている。
この茶葉の真の価値は、単なる飲料の枠を遥かに超えることを。
『深淵の雫』。
それは物質の魔力伝導率を極限まで引き上げ、不可能を可能にする錬金術における「伝説の触媒」だった。
「……あいつ、本当に価値わかってなかったんだろうね」
フィーナは苦笑する。
そして夜の林へと消えた。
フィーナが向かったのは、王都の外れにひっそりと佇む、忘れ去られた古塔だった。
内部はカビと薬品の混じった不快な臭いが漂っている。
「……ったく。あいつ(クロノ)の料理を食べた後だと、この湿っぽい空気すら不味く感じるね」
悪態をつきながら彼女が最上階の扉を開けると、そこには無数のフラスコに囲まれた老人がいた。
かつて王宮の影で暗躍し、今は隠居の身を装う禁忌の錬金術師――ゼノである。
「持ってきたか、小娘」
ゼノの濁った瞳が、フィーナの手元を射抜く。
フィーナは無造作に、黒茶の入った袋をテーブルに放り出した。
「約束のモノだよ、じいさん。
伝説の魔獣に一芯二葉で摘ませた最高級品さ。鮮度はこれ以上ないって保証してあげるよ」
ゼノは震える手で袋を開け、その琥珀色の魔力残滓を確かめると、法悦の表情を浮かべた。
「素晴らしい……これほどの純度、一生拝めぬかと思ったぞ。……よかろう、これは約束の対価だ」
ガシャリ、と重みのある袋が二つ、テーブルに置かれる。
当初の報酬である金貨50枚に加え、その品質の高さへの上乗せとしてさらに50枚。合計金貨100枚。
一般人が一生遊んで暮らせるほどの額だが、フィーナの視線はそこにはなかった。
「金はどうでもいい。……情報を教えなよ」
「相変わらずだな」
フィーナの冷ややかな声に、ゼノは皮肉めいた笑みを浮かべ、古い羊皮紙を一巻き取り出した。
そこには、かつて王国最大の富を誇りながら、一夜にして反逆の汚名を着せられた「ライム商会」の資産流出ルートが詳細に記されていた。
「……やはり、この一派か」
羊皮紙には、商会の資産を横領した黒幕たちのリスト、そしてフィーナの家族を陥れるために使われた『偽の証拠』が現在、どこの地下書庫に保管されているかの断片的な情報が並んでいる。
フィーナの瞳に、昼間の陽気な彼女からは想像もつかない、鋭く冷たい復讐の炎が宿る。
(……あと少し。あと少しで、わが家名に泥を塗ったあの連中を、一人残らず地獄に引きずり落とせる)
彼女が情報屋として泥をすすり、金を貯め、危険な橋を渡り続けてきた唯一の理由。
それは、失われたライムの誇りを取り戻し、家族の無念を晴らすためだった。
「だが、これで全てではないぞ」
ゼノが釘を刺すように言った。
「次の情報の開示を望むなら、次は北の聖域『シュガーベル』へ行け。そこでしか採れぬ蜂蜜が必要だ」
「ハチミツ……。あんた、今度は何を錬成するつもりだい」
「正式名称は『零華の蜜』。絶対零度の魔力を秘めたその蜜は、熱暴走しやすい『深淵の雫』の反応を固定化するために不可欠なのだ」
フィーナは鼻を鳴らした。
結局、次から次へと使い走りにされる。
だが、今の彼女には断る選択肢などない。
「ハチミツ、ね。わかってるよ。あいつをその気にさせるのは簡単さ。……
『甘いものが食べられる』って一言言えばいいんだからね」
工房を去る際、塔の出口で夜風に当たったフィーナは、ぽつりと自嘲気味に呟いた。
「……ごめんね、クロノ。あんたのあの『平和』な空気、あたしがいつか台無しにしちゃうかもしれない」
その声は、夜の闇に吸い込まれて消えた。
翌朝。
「ふわぁ……。よく寝たぁ」
朝日を浴びて、呑気に欠伸をするクロノの前に、フィーナはいつもの陽気な情報屋の仮面を被って現れた。
「おはよー! いい朝だね、クロノ!」
「あ、フィーナ。おはよう。よく眠れた?」
「もちろん! あたし、いい取引をした後はぐっすり眠れるタチなんだよね。……そうだ、お礼に『とっておきの情報』を教えてあげるよ」
フィーナは、昨夜の冷徹な瞳を微塵も感じさせない笑顔で続けた。
「あんた、次は甘いものを狙ってるんでしょ? 北の『甘味の聖地』シュガーベル。そこに、美味しい蜂蜜があるって話だよ。その名も――『氷晶のハチミツ』!」
「氷晶のハチミツ!? ……パンケーキにかけたら最高だろうなぁ!」
クロノの目が少年のように輝く。
その様子を見ていた銀翼の天馬とミストキマイラも、『次なる美味を求めて!』と言わんばかりに鼻息を荒くして立ち上がった。
「よし、決まりだ。シュガーベルを目指そう!」
クロノの明るい声。
その後ろで、フィーナは一瞬だけ切なげに目を伏せ、すぐにまた金貨を数えるような仕草で笑いながら、北へと続く旅路を指差した。
何も知らないクロノは、
新しい料理を夢見て歩き出す。
その旅が、復讐の物語と交差するとも知らずに。




