第二章 上
同じ屋根の下に暮らしながら、密矢と悠吾が再会したのは出会ってから五年後、二人とも十歳を迎えたあとの夏である。
施術の役目はいずれ密矢が担うことになる。それは生まれる前から決まっていたことだ。だから、当時施術していた凍矢から手ほどきを受けることになったのだった。
初対面で噛みつかれた痛みは幼い脳に強烈な印象を刻み、密矢はコトバミが怖くて仕方がなかったのだが、杞憂はすぐに失せた。
悠吾はよく躾けられていた。
凍矢が地下室に入るなり彼は黙って服を脱ぎ、酒が触って起こる痛みにも身動きをとらずに耐えていた。のちに兄に聞いたところ、手・足・首の部分に枷のついたベッドに拘束されるのを嫌がって、自ら体を差し出すようになったのだという。
無表情の伏し目は怯えを隠しきれず、時折痛みにしばたいた。獰猛な妖怪の見る影もなかった。
しばらくは兄の施術を見学し、翌年の年明けから、稀にではあったが密矢も筆を持つことになった。そして夏、大学受験を控えていた凍矢は施術のためにだけ現れるようになり、準備や片づけは密矢に任されることになった。座敷牢の鍵を与えられた。
最初こそ内弟子をつけて檻の向こうから見張りをさせていたが、密矢は地下室の外で待つように命令した。その内弟子は妖怪を露骨に忌避していたため、和矢の命令よりも密矢の命令を迷わず優先した。密矢としても彼のするような眼で悠吾を見てほしくなかったから、ちょうどよかった。
再会してから一年間は兄の目があったから、会話はおろか視線を合わすこともなかったが、密矢はすっかり悠吾に同情的で、二人きりになるようになってから、会話は禁止だという決まり事を破るまで時間はかからなかった。
「こんにちは、悠吾。」
見開かれた目が一瞬だけ密矢を直視し、すぐに逸らされてしばらく泳いだあと、明後日を向いたままピタと止まった。
「こんにちはって言われたら、こんにちはって言うんだよ。あいさつ。」
諦めない密矢に悠吾はやがて、首を竦ませながら横に、震えるようにわずかに振った。
施術後に二人きりになるたび執拗に話しかけつづけたが、悠吾は頑なに応えつづけなかった。
それであるとき、業を煮やした密矢がとうとう
「ぼくはおまえのお兄さまなんだ。お兄さまの言うことは、きかなくちゃいけないんだ。――さぁ、返事をしてごらん。『はい』、そう言うんだ。は・い。」
と、はったりを利かせてから、悠吾は口を開くようになった。
「…………はい。」
もしや悠吾は喋れないのかと思っていたが、違った。悠吾の世話をしている内弟子たちを探ってみると、悠吾を診ている医者が術者との会話を禁じていただけで、あるいは忌避されているのを感じ取っているから弟子たちには話しかけないだけで、医者とは賑やかなくらい会話しているらしい。
おそらく密矢のはったりを悠吾は命令と理解し、背くのを恐れて従ったに違いない。
それを知ってから密矢は勢いづく。
施術をしない日にも地下室へ行って、宿題のかたわら勉強を教えた。遊びを教えた。まずはあやとりの紐から、やがてカードゲーム、鉛筆とノート、テレビを持込み、しまいには閲覧のみで発信はできないという制約はあるが、ネット環境を完備させた。
和矢にバレたときには凍矢も密矢も事情を知る弟子たちも強か叱られたが、勉学や娯楽を禁止されずにすんだのは、ひとえに悠吾がいい子だったからだろう。学習意欲が高く、数ヶ月もせずに知識は密矢に追いついたし、またその歳の子供にしては――悠吾としては殴られたくない一心だっただろうが――聞き分けがよく、身の回りのことを許される範囲でこなすようになっていた。
小学六年生になると、凍矢から術の具合を確認されてはいたが、密矢一人で施術をすることも増えていた。
おおむね順調に行っていたのは、しかしその年の梅雨までだった。
すくなくとも悠吾の体の一部には常に墨を残しておく必要があったから、体のあちこちに、時間をずらして術を施していた。ただし当時はまだ術の巧拙が安定せず、コトバミが墨を吸収する速度もまちまちで、頻繁に体を確認しなければならず、墨が消えかかっているようなら適宜足さなければならなかった。それは足しげく悠吾のもとに通う密矢の仕事だった。
密矢が学校から帰り悠吾の部屋に行くと、彼は畳の上に丸くなり眠っていた。
机の上にはノートが広げられて、計算式と落書きが途中のまま放り出されている。数字の舞うグラウンドにバットを構える野球選手と、いままさに飛び込んでくるボール――。悠吾も密矢も、実際にしたことのない遊びだ。
密矢に友達はいなかった。
学校なんて大嫌いだった。
種宮という肩書や、それを象徴するような白い体毛のせいで学校では浮いていた。放課後には習字のために寄り道せず早く帰らなければならいから遊ぶ暇もなく、友達はできなかった。同級生は彼を腫れもののように扱い、かけられる言葉は、その家に生まれた憐れみやおべっかばかりだ。それをわかっていながら、かまととぶってバカの振りをする。それが賢い振る舞いだった。そういうもの、すべて含めてなにもかもバカらしかった。
悠吾は空の高さや海の深さ、世界の広さを知りたがるけれど、外の世界は彼が想像しているよりも、きっと、いいものではない。
外も監獄なのだ。
その檻は、他人の視線で出来ている。
白い頭髪に好奇の視線を向けられ、種宮家の子としてのみ見られ、子供らしくするように監視される。
ここから一歩も出られない。
視線の檻のなかで、規則正しい生活を繰り返し、すでに決まった未来に収まるほかない。
自由はない。
逃げ場はない。
悠吾の隣に横たわって、彼の顔を眺める。
――こいつさえいなけりゃ、ぼくは普通だったんだ。
――みんなこいつのせいなんだ。
――こんなバケモノさえいなければ。
密矢は悠吾へ手を伸ばし、頬に触れる。
ハッと息を呑む。
(……やわらかい……)
自分の頬に触れて確かめる。
同じだ。
ぶたれたら痛いだろう。転んだら痛いだろう。
では、妖怪を体に封じられたら、どうだろう?
檻に閉じ込められたら、どうだろう?
妖怪を殺すために術を受け、痛みに耐えなければならないとしたら、どうだろうか?
もう一度、悠吾の頬を、先ほどよりももっと優しくなでる。
湿った熱、産毛、そして皮膚。
爪を立てるだけで簡単に裂けてしまいそうな脆い感触。
『――こんなバケモノさえいなければ』?
違う。
バケモノは自分のほうだ。
悠吾にとってのバケモノは――こんなところに閉じ込めて人生を食い潰そうとするおぞましい怪物は――ほかならない、術をかける自分のほうなのだ。
密矢は素早く手を引いた。
悠吾に触ってはいけない気がした。
悠吾を傷つけるだけの、この手では。
密矢は悠吾の隣で目を閉じ、いつの間にか眠りに落ちていた。
なにかが壊れる音で、彼は目覚める。
隣に悠吾がいない。
がばと起き上がり、地下室の扉を見る。
開いている。
おかしい。
確かに閉じたはずだ。
よしや鍵がかかっていなくても、壁には呪術が通っているからコトバミには触ることができないはず――だったのだが、壁に貼りつけられている札の数枚から、術式が消えていた。
階段の上から騒がしさが伝わってくる。
扉は開き、部屋に悠吾がいない。となると、考えられるのは一つだけだった。
密矢は跳びあがり駆けだし、騒がしいほうへと急ぐと、台所から兄が出てきて鉢合わせになった。
「お兄さま!」
凍矢の手から血が垂れている。
「いったいなにが……」
凍矢は言葉を探して閉口し、兄の悲しげな表情に密矢は不安をかき立てられて、返事を待たずに台所へ飛び込んだ。
数人の弟子たちが何かを取り囲んでいる。彼らの大きな体の隙間をくぐって覗く。
悠吾だ。
血と酒の溜まりに酒瓶の割れた破片が散らばり、アルコールの臭気が充満するなか、悠吾は伏せて倒れ、全身から蒸気が上がっていた。
弟子の一人が体を裏返し、悠吾の顔が明らかになる。墨をこぼしたように、酒が黒く染みついていた。
「悠吾!」
「密矢さま、」
「悠吾は? ……どうなって? どうしてっ?」
「密矢さま、お下がりください。」
「悠吾!」
のちに聞いたところによると、術の消えるのが想定していたよりもずいぶん早かったそうだ。密矢の腕が上がったという証明であるが半面、悲劇のきっかけにもなった。術の切れたコトバミは悠吾の体を操って、札の術式を喰って扉を開けて抜け出し、台所で包丁を手にすると喉元に突きつけたらしい。自分を閉じ込める楔から逃れるために、肉体を殺そうとしたのだ。
居合わせた凍矢がコトバミにアヤダレを浴びせかけ動きを封じ、悠吾は気を失った。
悠吾が覚醒するまで、およそ一ヶ月かかった。
ただ、悠吾は意思を失っていた。
まぶたは開いていても瞳の焦点は合わず、呼吸はできても食事を飲み込むのは難しかった。
コトバミはただの酒を飲まない。アルコールの揮発や皮膚の新陳代謝で自然にそれが消えるまで待たなければならないだろう、と主治医は言ったが、それは結局、よくわからない、ということを説明しているだけだった。そうなった原因も、多量のアヤダレを浴びてショック状態に陥ったコトバミに影響されているのだろうと言ったが、それも同じことで、はっきりとは解明できない、という意味でしかない。コトバミについてはすべて前例のないことなのだ。手の施しようはなく、待ったところで以前の悠吾が戻ってくるかどうか、保証はなかった。
来る日も来る日も、密矢は悠吾のもとに通った。
悠吾はほとんど眠っており、起きていても反応は薄かったが、密矢は話しかけつづけた。
密矢にそういう相手は、悠吾しかいなかったから。
悠吾の体から酒が薄れたころ術は再開することになり、密矢は施術を禁じられ、座敷牢の鍵を返すことになった。
しばらくは会えなくなるだろう、最後の日のことである。
いつもどおり悠吾のために布団を敷き、彼を寝かせ、枕元に座り込んで話しかけた。
「本当はね、ぼくは悠吾の兄ではないんだ。」
「…………」
「だからぼくのことはこれから、密矢と呼べ。いいな?」
「…………」
「ぼくたちは友達だ。わかるかい? ともだち。」
悠吾の口は動かない。
敬語を使うなと命令していたが、加えて漫画やなんかに感化されたのか、悠吾はいつからか密矢よりも粗野な口をきくようになっていた。密矢にそんな物言いをするのは悠吾だけで、密矢にはそれが快かった。
「……早く起きてよ。……返事をしてくれなきゃ、つまんないよ……。」
悠吾の口は動かない。
ほろと大粒の涙がこぼれて、悠吾の腕にぽたりと落ちた。
――シューーー――
と音が立ち、密矢は慌てて、咄嗟にそれを文字にしようと思いつく。
指先でそれに触り、いびつだが「ご」を書く。墨が足りない。
自分の右頬を伝う涙を触って、「め」を書く。
さらに左目に溜まる涙を触り、「ん」を書く。
白い腕に、黒く文字が浮かび上がる。
密矢は指を離し、素早く服の襟口を目に押し当てた。
しゃくりあげながら、鼻をすすりながら、号泣する。
後悔がたぎった鉛のように頭のなかを渦巻く。
――時間を元に戻せるなら!
――やりなおせるなら、どんなにいいだろう!
――あのとき眠らずに、悠吾を起こして、術をかけていれば!
悠吾に痛みを与えることを恐れて、逃げてしまった。一時の感情に流されて、いままで積み上げてきたものを反故にするところだった。悠吾が耐えてきた痛みを、無意味なものにするところだった。
そして悠吾は、命さえ失いかけた。
もし悠吾が消えてしまったら――、そんな想像すら密矢には耐えられなかった。悠吾のいない世界なんて生きていけないだろうと確信さえできた。
朝、家から学校へ登校するときには悠吾のいない寂しさを持って行き、昼、学校という集団のなかでの普通のふりをしていると、家の決まりが奇妙に感じられた。夕暮れ、学校から家に下校するときにはなぜコトバミがいるのだろうという疑念を持ち帰り、夜、家で家族や弟子たちと共にいれば、学校で浴びなくてはならない好奇の視線に嫌気がさした。
小学生としての密矢は家の宿命を恨み、種宮としての密矢は同級生の普通を妬んだ。
いつもどこでも、空気を共有する集団が変わるたびに入れ替わり立ち代る立場を嫌った。
その不安定さが、いつしか漫然とした、手の施しようのない恨み辛みへと変わっていたのだった。自己憐憫に酔って、可哀想なのは自分ばかりで、やり場のない辛さを、筋違いも甚だしいことに、自分より立場の弱い悠吾に押しつけたのだ。
自分の愚かさに辟易する。
悠吾の体のなかに泳ぐ恐怖に比べれば、自分の孤独のじつに些末なこと。
そして孤独からさえ、悠吾に救われていた。
密矢が感じている視線の檻のなかでも、押しても引いてもうんともすんともしない頑丈な檻のなかでも、悠吾が笑いさえすれば、胸に溜めていた見当違いの恨みも、憂鬱な気分も、途端に吹き飛んでしまうのだから。
悠吾がいなければ、この世界は窮屈な地獄だ。
気が休まるのは悠吾の隣だけだった。
悠吾が笑ってさえいればよかった。
悠吾さえいれば――。
「全部やりなおさせて。……お願い。……ぼくの友達になって……」
袖口で乱暴に目元を拭くと、悠吾へと視線を向けた。
奇妙な光景に、密矢は虚を突かれた。
腕から、たったいま書いたはずの「ご」「め」「ん」が消えていた。
密矢は困惑し、キョロキョロと視線を泳がせる。
ふいに、悠吾と目が合った。
「……だ、……い、じょうぶ?」
声は小さくかすれていたが、たしかに話した。たしかに、視線が合った。
「……悠吾!」
それからおよそ半年かかって施術の任が密矢へ戻った。
主治医による点検の頻度を増すことにはなったが、任を解かれているあいだの密矢の反省の態度が認められてのことだった。
座敷牢の鍵を握って、もう二度と間違えないと誓った。
自分に、父に、兄に、種宮に、世界中に、そして誰より悠吾に誓った。
説得する隙を、兄は片時も与えなかった。
大学生になってから朝食や夕食に姿を見せないことはしばしばだったが、施術を代わってから家ですれ違うことさえなくなった。家に帰ってきているのかも判らず、施術の時間もまちまちで、密矢は兄にも、もちろん悠吾にも会えないままだった。
父を介して説得しようともしたが、マトコウの件を引きずっていて相手にされない。何度夕食抜きになったか知れない。
せめて悠吾の状況が知りたいと、悠吾の世話をしている内弟子に訊いてみると、最近は食事を残しがちらしく、顔色も悪いのに空元気を出しているのだという。与えられたものは好き嫌いせず残さず平らげていた、従順で腹ペコの犬のような悠吾が、だ。兄の施術のせいに違いない。
あからさまに悠吾をバケモノ扱いするような内弟子は密矢の一存で軒並みクビにてきたから、いま世話をしている弟子は悠吾を人間として対等に、種宮の三男坊として恭しく接してくれる人だ。彼もまた悠吾の容態を心配しており、兄が地下室に入るのがわかったらすぐに知らせるよう頼むと快諾してくれた。
凍矢は誰にも告げず一人で施術をしているらしく、弟子から連絡がきたときには、施術はすでに四度目を迎えていた。
密矢はチョコレート菓子を手に地下室へ向かう。
『嫌い』と同じくらい『好き』を言わない悠吾だが、チョコレートを好きなのは明白だ。思春期の不安定な肌にニキビを作ってしまうと施術の妨げになるから控えないといけないのだが、これは食欲がなくても喉を通るかもと思って持ってきたのだ。
地下室の鍵は開いていた。
恐る恐る、部屋を覗く。
入り口わきの棚の上で、ほとんど手が付けられないまま食事が冷えていた。
液体が蒸発するような音だけがかすかに聞こえ、ただ静寂であるよりもむしろ静かに感じられた。
白装束の凍矢は出入口へ背を向け、悠吾の右足を抱え込んで施術している。
密矢が近づくほど、様子が明らかになってくる。
露出した左足には、きわめて緻密に文字が書き詰められていた。
毒を含んだ筆はなめらかに進む。緩急はあるが滞りのない、繊細で流麗な筆致は、筆者の調子の良いことを如実に呈していた。凍矢は密矢が入ってきたことにも気づかないほど集中していた。
近づくほど、悠吾の苦痛が明らかになってくる。
悠吾は愛着のある抱き枕を抱き締めていた。
彼の手はきつく結ばれて真っ白になっている。よじられた体は緊張し、時折震える。顔はサメで隠れて見えないが、喉を絞ったような呻きが漏れ出している。
様子がおかしい。
「悠吾……?」
思わず声が漏れる。
凍矢がぴたりと止まる。
密矢の手は座敷牢の出入り口をつかみ押したが開かない。ガタガタと力任せに押し引きして、開けない。悠吾に釘付けになっていた視線を引き戻して手元を見て、やっと錠がかかっていると知った。
顔だけ振りむいて弟を見た彼の目は、混じりけのない氷のように澄んでいた。
「出で行きなさい。」
口元を表情ごと隠しているマスクごしの声は、ややくぐもっている。
抱き枕から悠吾が半面を覗かせる。
顔は青ざめ、目元が赤く光を反射している。――涙で濡れているのだ。
「悠吾!」
目が合った途端、悠吾の顔は歪み、すぐにまたサメに隠れた。
「お兄さまいったいなにを……! おやめください。 おやめください! 密矢はもうわがままを言いませんから! だからッ……!」
密矢が言い淀んだ静寂に、凍矢は言葉を投げる。
「なにを言っている。施術は止められない。これは種宮の使命なのだから。」
密矢は声をかすかに震わせながらも言いすがる。
「しかし、筆を執るのはぼくの役目です。ぼくがやります。」
「そう、これがおまえの一生の役目だ。これに一生を捧げなければならない。だからこそ、学生時代くらいはこれから解放されて謳歌してほしい。――そういう兄の気持ちを、汲めない歳でもないだろう。」
抑揚のない声で話されたのは同情的な言葉ではあったが、密矢はそれに煽られて感傷的にはならなかった。むしろ、彼は決意を固くした。
「ぼくは構わないのです。それにマトコウの寮に一緒に入れば、家族だけじゃない、屋敷のみんなもコトバミと離れられるでしょう? 普通の生活が送れるんです。」
バケモノと生涯を共にしなければならないことを誰もが恐れ、誰もが彼を憐れむ。しかし密矢にとっては有難迷惑、要らぬお世話だ。密矢にとって悠吾は、解放されたい檻ではなかった。
「ぼくがコトバミと、…悠吾と一緒にいれば、……いられるのなら…。お願いです。…どうか、どうか術は間違えないからっ!」
「うぬぼれるな!」
感極まって次第に声を大きくした密矢に、凍矢は言下にやり返した。
久しく聴いていなかった兄の大声に密矢は竦みあがる。
凍矢は音もなく筆をおいた。腰を捻って密矢を見据える。
「おまえはいつもそうだ。そうやって誰かのためと言いながら、本当は自分が幸せになることしか頭にない。背負った責任も、将来も考えない。そうやっておまえは他人を不幸にする。」
「そんな、そんなことは……」
弱々しくも口答えする。
「どうかな?」
露出した目だけを浅く笑わせて、彼は悠吾を見下げる。
「なぁ悠吾。どうだい? おまえ、マトコウへ行きたいかい?」
無防備な体勢のまま、悠吾は怯え、首を大きく横に振る。
「口に出して言ってごらん。」
「……い、いき、たく――……」
尻すぼみになった言葉を、しかし凍矢は許さない。
「聞こえない。」
「……行きたくありません。」
悠吾が声を絞りだす。
「あぁ、おまえはお利口さんだね。」
凍矢が微笑む。
紙のたるみを伸ばすように悠吾の白い足を撫で、悠吾は恐怖に唇を噛む。
「この“詩”が完成したら、散歩くらいには連れてってやろう。」
ぽつりと漏れた凍矢の言葉に、悠吾ははっと目を見張って凍矢の顔色をうかがう。その瞳に、凍矢の後ろにいる友人の姿は映らない。ただ圧倒的強者への畏怖と、目の奥にすがるような期待の輝きを見なして、凍矢はふふと笑う。
「聞いたかい?」
背後の弟に声をかけ、横顔だけを向けた。もうそこに笑みはない。
「おまえの術が甘いのは、悠吾に優しくするためではない。おまえが悠吾の悲鳴を聞きたくないからだ。そうだろう? 本当に悠吾のためを想うなら、厳しくとも、常にできる限りの毒を与えるべきだ。」
淡々と戒めると、凍矢は再び揮毫した。
「…おにいさま……」
密矢の弱々しい囁きなどもう耳に入らないと言ったふうの無反応で、凍矢は施術を続けた。