↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マトコウへ行こう!  作者: 壱朶砂子
PR
2/16

第一章




「悠吾(ゆうご)と一緒にマトコウへ行きます。」

 すでに『マトコウ』と書かれた進路調査票を広げて見せながら、種宮密矢(たねみやみつや)は宣言した。

 二十畳ほどの茶の間が静まる。

 ふすまを開けるなり息子につかまり、そう告げられた種宮和矢(かずや)の眉間に深々と皺が刻まれた。

「それで、寮に入ります。ご存じでしょうが、マトコウには結界が張ってありますから、」

「駄目だ。」

 言下を潰して否定し、夕餉の食膳へ進もうとする父の前に、密矢は立ちはだかった。

「なぜです?」

 そうそう感情を表に出すことがない和矢の顔に、さも面倒くさそうな表情が浮かぶ。

「コトバミを外に出してはいけないからだ。」

 普段なら無視をするか『黙って飯を食え』くらいのことしか言わない父が、今晩はまともに取り合っているのだからさては機嫌がいい。――と誤解した密矢はもう一歩踏み込む。

「どうしてですか? 術さえ成功していれば、外に出たって構わないでしょう?」

「どの口が言う。おまえは失敗しただろう。」

「もう間違えません。」

「ハッ。」

 和矢は嘲笑う。

「あんなもの、ただ酒を塗りつけているのとなにが違う。」

 密矢は拳をぐっと握る。頭に血が上っていくのを感じ、(抑えろ!)と自分に言い聞かせた。自分への侮辱はおいても通さなければならない要求が、彼にはあったのだ。

「いいえお父さま。ぼくの術は成功しています。間違っているのは決まりのほうです。文字しか書いてはいけないとか、白装束を着て死んだふりをしなくちゃいけないとか、マスクをして口から入らないようにしないといけないとか、まったく意味のないこと。そんなのはバカバカしい決まりです。」

「そうだな。」

 和矢がぽつりと言い、密矢の胸が期待に膨らむ。

「ならっ、」

「もし凍矢(とうや)なら、あれと共にマトコウに行くことを許したかもしれん。」

 父の視線がゆったりと動いて、すでに座についている密矢の兄へ向き、戻って来る。

「しかしおまえは駄目だ。」

 密矢を鋭く見下げた。

「おまえの下手な術であれが殺されないために、決まりで囲って守っているんだからな。」

 膨らんでいた胸が熱い呼気とともに萎み、ともなって顎が下がる。自然、上目遣いになる。

「守る? あんなのは守っているとは言わない。あれは監禁です。」

「違う。毒殺だ。俺たちがしているのはバケモノ退治だ。子供の遊びではない。」

「バケモノ退治なら檻の外でもできます。」

「いいや。おまえには無理だ。決まりがなければ、おまえは間違う。」

 和矢はあくまでも冷静だが、密矢の声は大きく、速くなっていく。

「お父さま。ぼくはコトバミを倒すために、悠吾の命も、自由も奪いはしない。したくもないできない。ぼくは間違えないし、バカげた決まりに従うつもりもない。悠吾の犠牲なしには成り立たない安全なんて冗談じゃない。そんな決まりなんてクソ喰らえだ!」

 バチンッ――、と茶の間に響きわたる。

 頬に平手打ちを喰らったと気づくまえに、父親の怒号が轟いた。

「この莫迦者!」

 ぶたれるのには割に慣れていたから、密矢の身体は倒れないように踏ん張っていて、そして睨むように父を見上げる。直後、父から頬をぐにと掴み上げられる。

 和矢の瞳は怒りに燃えていた。

「そんな汚い言葉が出るとは、これはケツの穴らしい。飯は食えんだろう。下がれ。」

 静かで低い、喉を焼くような熱い声で叱ると、密矢を突き放す。

 数歩よろけてから体を立て直し、懲りずに顔を上げる。

「お父さま! どうしてわからないんですか!」

「ケツが喋るな。」

 短く命じると、和矢は密矢に用意されていた食事を顎でしゃくって示しながら、隅に控えている炊事係の青年に命じた。

「片せ。」

 炊事係は密矢を見て、和矢を見て、判断できずに青ざめる。

「どうした? おまえの顔の両脇についているのはただの飾りか?」

 これ以上は危ない。炊事係に父の怒りが飛び火するまえに、自分が引いたほうが良い。密矢はそう判断すると、奥歯を噛みしめて踵を返す。

 こんなやりとりにもう慣れてしまって動じない兄の背後をドスドスと怒りで乱れた足取りで進み、母の小さく赤い口元が呟いた「ばかな子」という声を背に、茶の間を出た。

 進路調査票をポケットに捻じ込むと、怒りに任せてこの家の地下へ向う。

 地下室の重厚な扉を押し開け、体を滑り込ませると背中でもたれて閉じた。

 明かりは弱い。

 大広間を隅々まで照らすには、部屋の奥、畳の上に置かれた行灯一つではとても間に合わない。加えて行灯に覆いかぶさるように人影と、さらに密矢の数歩先には分厚い角材で組まれた格子とがあって光を遮っていて、いままで明るみに居た密矢にとってはなお暗く感じられた。

 格子状の陰をその身に浮かばせながら、投げる視線の先には、行灯の前を陣取る暗い後姿がある。シルエットは“ん”の字に似ていた。正座を崩した格好で、くびれで曲がって横に傾いでいた。頭は深く下がり、行灯にかざした手元に注意が向いているらしい。なんにせよ、地下室の扉の、決して小さくはない開閉音には無反応だった。

「悠吾。」

 しかし密矢が呼びかけた途端、彼は素早く振り返った。

 緊張した野生動物のように背筋を伸ばし、耳をそばだて硬直し、目を見開かせて声のしたほうを凝視する。行灯を背にしたいま、眼に光は灯らずひたすらに黒い。

 密矢は壁のスイッチを押し、天井の蛍光灯が灯って、彼は眩しそうに顔をしかめる。

 明かりのなかに密矢を見つけてようやく、表情を見せた。笑った。

「密矢。」

 彼の名は種宮悠吾。十年前に種宮家に養子に入り、密矢の戸籍上の弟になった。密矢と同い年の十五歳で、中学三年生。――彼は学校に通ってはいないが。

 つまりここは妖怪を閉じ込める座敷牢であり、また悠吾の子供部屋でもある。

 台所がないのを除けばワンルームにしても贅沢なくらいの造りで、浴室や便所が設けられているのはもちろん、背の高い本棚にはみっちりと本が詰まり、格子には広く薄い液晶画面がかかっている。ちゃぶ台の周辺の壁にはアイドルや野球選手、ロックスター、アニメなどのポスター、つぎはぎのように寄せ集まって空と海の写真が貼ってあった。

 悠吾はいままで読んでいた文庫本を置き、座ったままくるりと体を回して密矢を向く。そのあいだに密矢は、細いチェーンを通して胸元に下げている鍵で牢の錠前を素早く外し、背の低い入り口をくぐると大股に悠吾に詰め寄った。

 勢いを殺さぬまま密矢は悠吾に覆いかぶさるように胸倉をつかんで、上半身をのろのろと倒す。悠吾は訝りながらもされるがままで、背中が畳についてしまうともう腹筋をたゆませて寝そべることにした。

 悠吾の腰のあたりを跨いで膝を落とすと、彼の着ている甚平の襟を、それから前身頃を、力任せに開いていって、やがて胸から腹までが露わになる。

 黒い甚平を背景に、彼の肌はより白く映えた。日光を直接に浴びた経験の乏しい肌はどこもかしこも抜けるように白く、きめが細かい。が、華奢ではない。並の男子中学生と同様、骨格や肉づきなどにはまだ幼さが残るが、やがてその丸みは雄々しく、たくましく削られていく、そういう過程にあって、実際身長については密矢よりも高かった。地下室に閉じ込められてはいるが体調管理は万全、文字通りの箱入りで体には傷一つなく、体躯の発育や健康状態は大変良好だった。

 しかし密矢が一心になって見つめているのは、健全な肉体でも肌の白さでもなく、肌にうっすらと残る黒の筆跡だ。悠吾の封じている妖怪――コトバミを退治するための術の痕跡である。

 気が済むまで凝視すると、密矢は安堵したようにふっと息を吐いた。

(術は成功している……)

「なに?」

 まなじりのやや上向きの、澄んだ瞳を疑念に染めて、悠吾は密矢を見つめていた。

「術は成功している。」

「あぁ、うん。……なんだよ急に。」

「いや、ごめん。食べたかなと思って。」

 密矢は言いながら悠吾の上から退いて、彼のかたわらで正座する。

「これはすこし、出来が悪かったから。……ごめん。」

 悠吾は上半身を持ち上げ手を伸ばし、密矢の左顎に触れてそっと左へ押す。彼の左頬はわずかに赤く腫れていた。

「またぶたれたの?」

 刹那、密矢の目が大きく開き、すぐに悠吾の手から逃れてそっぽを向いた。

 突然のしかかってきて服をひん剥かれても、悠吾は別段驚いていなかった。突飛な行動は密矢にはよくあることだ。密矢は感情に任せて行動しがちだが、無邪気なだけで性根が邪悪ということはなく、意図して人を傷つけることはしない。そういう信頼があるから、不安も恐怖もなかった。だから悠吾の考えていたのは、密矢がなにをするつもりなのか、ではなく、どうしてそんな悲しい顔をしているのか、だった。

 密矢は悠吾にほとんど背中を向け、胡坐と体育座りのあいだのような格好で座り、やがて沈黙に耐えられずに口を開いた。

「バカだってさ。」

 事もなげに、空に放り投げるように言ったその声は、消え入るような語尾にすこし震えた。

 もう何度目だろうか。彼の無鉄砲が父親を怒らせるのは。

「今度はなにやったんだよ。」

「なにも。ただ……」

「ただ?」

「お父さまに、悠吾と一緒にマトコウに行きたいって、言った。」

 息を吸い込んだはいいが二の句が継げず、悠吾の口はポカンと空いたままだった。やがて吸った息は溜息として吐き出される。

「バッカだなぁ。」

「なんでっ?」

 悠吾が言った途端、密矢は飛び跳ねるように振り返った。

 密矢も意表を突かれていた。悠吾は絶対に喜んでくれると思っていたのに。

「言わないほうがいいって言ったろ? 和矢さま怒るに決まってんだから。」

 密矢がマトコウ――正式名称を国立魔都高等学校――に、それも悠吾とともに進学したいと思っていることは、夏の終わりからしきりに説得されてきたから悠吾はよく知っていた。

 マトコウは世界で唯一、知的人外・半異半人・稀少能者を公に受け入れるクラスがある高校だ。だから人外がもたらす脅威への対策もあらかた整っているのだった。

 密矢はオープンキャンパスに参加し、結界の術式がコトバミにも有効だと確認して以来、悠吾の説得に熱を上げていて、片や悠吾は返事を濁しつづけていた。

「なんでわかってくれないんだろう……?」

「和矢さまは、なんて?」

「悠吾と同じようなこと言ってた。」

「おれはぶったりしない。……つねることはあるけど。」

 と、密矢の頬を優しくつまむ。

「ほおやなくて、」

 形の崩れた口で発音を乱しながら、悠吾の手を弱い力で払って密矢は続ける。

「決まりを守れとか、……」

「そんなことみんな言うさ。」

「あとは、……ぼくが間違うとか。」

「おれは、『間違うこともあるかも』って言うんだ。密矢だけじゃない。みんなそうだ。」

「それから、ぼくがバカだって。」

 不機嫌な密矢の目を、悠吾は覗き込むように見つめる。

「和矢さまは、どうしてそんなこと密矢に言ったんだと思う?」

 気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと問いかけた。

「え? ……ぼくの顔がお尻、……だから?」

「えどゆこと?」

 ぽかんとしたすぐあとに可笑しさが込み上げてきて、んふっ、と破顔する。ふはははとひとしきり笑うと、瞳を斜め上へ向けてにわかに思い悩みはじめる。

「うーんまぁ、密矢のほっぺ、むにむにだもんなぁ。」

「そういう意味じゃない。」

「じゃあどういう意味だよ。ちょっとほかには思いつかないよ。」

「とりあえずいい意味ではない。バカにされたんだから。」

 二人とも無造作に動きながら会話している。

 悠吾は柔らかい作りの甚平の上を脱いで、座椅子の背もたれにかけた。彼自身も背もたれ抱き、顎を乗せた格好で座り、背後の密矢に裸の背中をさらす。

 密矢は棚から筆と硯と酒、本棚から手本にする冊子を取り出し、悠吾の背後に並べる。彼は中学の制服のままで、白無垢の着物には着替えず、マスクももちろんしない。

「バクリ、モニターつけて。」

 悠吾が言った『バクリ』というのはバーチャルアシスタントのことだ。悠吾が持っているのはサメを模した一メートルほどの愛嬌のある抱き枕型で、ベッドで寝ころんでいる。バクリの目がチカチカ光ると、悠吾の向いた先の巨大な薄型モニターに電気が流れだした。この部屋から出られない悠吾にとって、モニターは世界に開いた窓の一つだった。

「おれはいいって言ってんのにさー、高校なんか行かなくて。」

 浅く笑いながら悠吾は言った。

「おれは一生ここに居るんだから、勉強なんかしても仕方がないのに。中学もさ、義務だから単位取っただけで。外に出て働くってこともないんだしさぁ。わざわざ高校なんて、しかも外とか、行く意味なくない?」

 悠吾はいつもは煙に巻くように話題を避けていたから、これほどはっきりと言うのは初めてだった。和矢の手が出てしまったいま、これが密矢の引き際だと思えた。

 しかし背後の声に挫ける気配はない。

「意味とか、どうでもよくない?」

「え?」

「行きたいかどうかじゃない?」

 悠吾の顔から笑みが消える。しかし声音は変えない。

「違うよ。おれはここに居なくちゃいけないんだ。外に出る意味はないけど、ここに居る必要はある。」

 振り返らなくても密矢がどんな顔をしているかわかる。きっと不機嫌に顎を引いているのだ。それは文句が炸裂する前触れだから、悠吾は先手をうつ。

「んでもって密矢には施術する必要がある。さっさと終わらせろよ。じゃないと風邪ひいちゃう。」

 頭のなかにごちゃごちゃと散乱している文句をかき集めてみても、悠吾の体調が相手なら天秤にかけるまでもない。

「わかった。」

 ちゃぶ台に冊子を広げて、透明の硯に徳利から酒を注ぎ入れる。

 肌を傷つけないよう特別にやわらかく作らせた筆の穂に酒を染み込ませて、

「いくよ。」

「うん。」

 背中に触れる。

―――シュウッ―――

 蒸発するような音がたち、酒の臭気が部屋に広がる。

 密矢は手本に従って文字を書いていく。

 穂先に含まれていた透明な酒が、白い皮膚のうえで煙をくゆらせ、黒い跡となって浮かび上がっていく。筆者が筆を動かすとおりに文字として、そしてそれが連なって文章として表れていく。

 この妖怪は百年来、≪想い≫だけを喰ってきた。とりわけ≪強い想い≫――表現されていく過程で濯がれ、発展し、洗練されていく情念や思想を好んで喰った。逆に酒というものは、多くの人から一時、意志の力を奪って思考さえ危うくする。≪強い想い≫から精彩を奪ってしまう。酔った精神状態は苦く、ましてアルコールなら毒そのものだ。酒の塗布だけでもコトバミを痺れさせ動きを止めることができるが、決して喰いはしない。だから毒で文字を書くのである。

 つまり人間から≪想い≫を抽出するために文字に変換し、それを酒という毒によって表す。いわば清酒の≪想念≫割だ。安楽死のために好物に毒を混ぜて与えるのに近い。

 コトバミが毒入りの≪想い≫をなめるにしたがって、コトバミの好みによって速度に違いはでるが、墨が薄らいでいく。墨が完全に消えてしまう前に、再び施術するのである。

 これが種宮一族の使命――妖怪の毒殺である。

 片や、悠吾はテレビを見ている。

 娯楽の力を借りて、術中に感じる妙な苦痛を紛らわしているのだ。

 酒が皮膚に触れた途端、体の内側から皮膚に向かって熱が浮かび上がってきて、呼応するように酒がだんだんと冷えていく。内と外の温度差は次第に顕著になり、裏表から火傷と凍傷とを同時に被るような感覚に陥る。温度差に酔い、身体感覚がちぐはぐになる。物心ついた頃からこうだったから多少は慣れたが、テレビやゲームや漫画などの娯楽はあったほうがいい。

 施術はだいたいが一週間ごとに、右手・左手・右足・左足・腹・背に順に書かれていき、六週間で一巡りする。今日は久しぶりに背中への施術だから楽な姿勢でテレビが見られるし、密矢も広いキャンバスを使えるから施術は滞りなく終わるだろう、――と、思っていたのだが。

 密矢は手本を睨んで、筆をおいて首をかしげて、ふと書いて、また筆をおいて目を細めて、ということを繰り返していた。一向に進まない。

「どうしたんだよ?」

 画面を向いたまま密矢に訊いた。

「うーん?」

 密矢は唸り声に疑問符をつけて曖昧に終わらせた。

 密矢がいま手本にしているのは、遥かむかしに書聖が残した手紙である。そこには悲しみが綴られている。悲しみのあまり、なにを書いていいかわからない、というようなことが書いてある。

 密矢は共感のために書けない。

 しかしそれは幾分押しつけがましい共感だった。

 結果は同じでも原因が違う。密矢は悲しいのではなく、迷っているから筆が動かないのだ。

 全体ではなく、いくつかの言葉だけに思いが想起されて、書聖の名筆が、密矢の心の色に染まってしまっている。いっそ主旨など知らなければ良かったとさえ思う。心を空っぽにして、ただ筆致を追うだけの書き手にならなければならないのだろうが、しかし我の強い自分には難しい。どうしても文字が雑念で揺らいでしまう。悠吾の白い背中を眼前にして、無心ではいられなかった。迷いの原因は悠吾その人なのだから。

 この名筆は術に繰り返し使われていて、安定してこのコトバミは喰ってきているから好物であることは間違いないが、しかし悠吾にとってはどうだろうか? これが誰かに宛てられた悲しみの手紙だと思うと、悠吾の背中に書きたいとはとても感じられなかった。

 ではなにを書きたいのかというと、それはわからない。

「おいどうしたんだよ。」

 不機嫌に任せて黙り込んでいた密矢だったが、悠吾も黙ったままだったから、仕方なしに正直に言う。

「悩みで頭がいっぱいなんだ。」

「まさか。嘘だろ?」

 過剰な、つまり冗談めいた口調に、肩へ弱いパンチを入れる。悠吾はとりなすように笑った。

「言ってみろよ。」

「……いや、……わかんないさ。言ったって。」

 本当はそんなことは思っていない。考えをまとめて、必死に伝えようとすれば悠吾には絶対に伝わるだろう。だが、そもそも施術について悠吾に相談するのは不安にさせてしまうだろうから、言いたくない。あわせて、真剣に悩んでいるところに悠吾が軽い調子で尋ねてくるからつっけんどんになってしまう。

「じゃあ描いてみろよ。」

 と、右腕を差し出される。術の残っていない、白い腕だ。

「え?」

「そうだよ。絵にしてみろよ。」

 へっ、と密矢は笑う。

「ベタな……」

 と、首を振った密矢だったが、白いキャンバスを差し出されたら自然、絵で埋めようとするのは絵描きの習性らしい、無造作に悠吾の腕を両手で抱えるように支え、視線を走らせ、右手で擦る。そうすれば絵が自然と浮き出るかのように。

 悠吾は口角を上げて、様子を見守る。

 しかし、密矢は手を離してしまう。

「どうしたんだよ。怖気づいたのか?」

 悠吾はけしかけようとふざけて言うが、密矢は正直に困惑している。

「うーん。……怖気づいた。」

 密矢の視線は、悠吾の腹あたりに向いた。

「コトバミは食べているようだけど、でも、」

 唐突に言葉を切って、顔を苦笑で歪ませる。

「ぼくはあんまり、絵がうまくないからなぁ。」

「これで下手っていうの?」

 自分の腹を見ながら、不思議そうに悠吾が訊く。

 しかし密矢の耳にはよく聴こえない。眼前の悠吾の声よりも、先ほど父の言った『酒を塗りつけているのとなにが違う。』という言葉が蘇ってうるさかった。

 そんなことは指摘されなくとも重々承知だ。

 父や兄のように名筆や名著に頼るほうがいいのかもしれない。だが我が強く模倣が下手な自分が最も強く≪想い≫を注ぎ込めるのは、絵に違いないはずだ。

 才能はないかもしれない、技術もまだまだ足りない、だが、これが一番好きなのだ。一番、一生懸命にやってきたのだ。

 だからやるのだ。

 伏し目がちに難しい顔をして長らく閉口していた密矢がつと顔を上げて、彼を見守っていた悠吾と視線があった。

「いや、ううん。……下手かもしれない。でも、頑張る。」

 密矢は再び悠吾の手を取って、穂を酒で湿らせる。そして肌に下ろす。動きはじめる。

 それきり黙り込んだ密矢から視線を外して、悠吾は慎重にテレビに向きなおった。

 今日のナチュラルネイションチャンネルの特集は熱帯雨林で、命知らずで有名な冒険家がリポーターだ。彼が身をもってサバイバル術を教えてくれる。

 いま画面のなかでは極彩色の鳥が飛んでいた。

 それは不意に画面から飛び出してきて、姿を単純な線へとほどいて、まずは象形文字へ、それから『鳥』の字へと変身させ、翼を休めるために肌にぺたりと張りつく。その周りを多種多様な文字が取り囲んで、整列して文章となり、やがて頭のなかで映像に戻る。あるいは映像よりももっと鮮明に、匂いや音や、情感をともなって再現される。

 密矢の白い頭が視界の端で揺れて、悠吾はふと、熱帯雨林から地下の小部屋に帰還した。

 これまで悠吾の身体に密矢は絵を、彼の父は書を、彼の兄は文章をかいてきた。だが、三人がやっていることは違うようで、本質はみんな同じだ、と悠吾は思う。だからわかり合えないなんて嘘だ。

「密矢は漫画家になるんだな。」

「え?」

 密矢は素早く顔を上げる。

「いいじゃん漫画家。密矢、絵、うまいし。……って、バカみたいな言い方だけど。おれはほんとにいいと思う。」

 密矢は悠吾に、漫画を描いている、とは言うが、漫画家になる、と言ったことはない。書家でもあり事業家でもある“種宮”の次男坊として、したいことをそのまま将来の夢にできるほど単純ではないのだろうが、そういう事情を悠吾はあえて気にしなかった。あえて無責任に、そう言ってみたかった。

「えーほんと? ほんとにうまいかな?」

「うん。上手。ほんとに。」

 密矢はニコニコと笑う。

「わかってるんだから自分が一番。でも不思議だな。悠吾に言われると、ほんとのことみたいに思えるんだから。」

 諦めの悪いヤツ。いい加減、うまいことを認めろ、と悠吾は思う。

「密矢は密矢と密矢を比べているから、そう思うんだよ。だからつまり、密矢は密矢のプロだからそう思うんだよ。密矢は密矢の判断基準でしか、密矢の絵のことを計れないだろ。でもおれは密矢じゃないから、おれはおれの判断基準で密矢の絵を計ってるから、つまり、――そりゃおれは絵を描いたことない、ずぶの素人だけど、ずぶの素人だから、密矢とは違う人間だから、密矢より密矢の絵が好きかもしれないよ。密矢は凄いっておれは思うよ。」

 手元に集中しているのもあって悠吾の言うことは話半分で、頭の隅っこでぼーっと意味を考えながら、密矢がわかったことといえば結局、自称『ずぶの素人』の意見に、しかし不思議と腹は立たなかったということだ。『密矢は密矢のプロ』という悠吾は、ぼくを励ますプロだなと、密矢は頭の隅っこで思った。

「うん。ありがとう悠吾。」

 随分な間を開けてそう密矢が頷いたときには、密矢がそらで描いていた情景が、線の交わりの妙によって、悠吾にも絵として視えるようになっていた。悠吾は笑ってしまう。

「ふは。これが密矢の悩み? なにこれ?」

「エイリアン。ぼくたちの敵。」

 劇画だ。白髪に精悍な顔立ちの宇宙飛行士が光線銃を撃ち、エイリアンの脳みそをぶちまけている。

「このあご割れてるの、密矢?」

「そう。」

「うしろのおれ? なんでこんなカッコつかないのおれは?」

「そりゃ主人公はぼくだし?」

「おれはおまけかよ。」

「違うよ。でも、名脇役ならすこし間抜けじゃないと。」

「クライマックスで主人公のために身を挺して死んじゃうタイプのやつじゃん。」

「そうはさせない。」

 つと密矢の表情に真剣みが帯びる。

「大丈夫だよ。ぼくがついているもの。一緒に地球から脱出しよう。」

「え、どういう世界観?」

「人類は絶滅したんだ。」

 なんの気なしに尋ねたが最後、密矢の逞しい想像力が火を噴きはじめた。多少厄介だが、絵を描き終えるまで付き合ってやってもいいだろう。

「密矢、人類じゃなかったの?」

「ちがうちがうぼくらは生き残りだ。ぼくら種宮だけが、残されているんだ。」

「まじか。じゃあテレビは?」

「再放送。」

「うそだろ。なにがあったんだよこの星に。」

「あいつらが攻めてきたのは、ぼくらが生まれるずっと前。人類はあっというまに駆逐された。ならなんで、ぼくらだけが生かされていると思う?」

 設定のぼろを出させるために質問攻めにするつもりだったのに、逆に訊かれて悠吾はまごつく。

「え? それはぁ、……。」

「そう、あいつら、コトバミだけは殺せなかったんだ。」

「そうきたか。」

「あいつらにとってコトバミは最大の天敵。この宇宙のなかで唯一の対抗手段なんだ。」

 熱っぽく密矢は設定を語る。

「なるほど。」

「コトバミをやっつけられるのは種宮だけだから、ぼくは生かされているんだ。」

「コトバミを殺したあとは? 人類は種宮だけ? エイリアンと共生していくのか?」

「お父さまは一族だけは助けてくれるって約束をしたみたいだけど、きっと嘘さ。」

「わからないだろ? いいエイリアンかも知れないぜ。人類を絶滅させちゃったのはうっかりで、悪気はなかったのかも。」

「まさかそんなはずない。意図的な犯行さ。ぼくはやつらの学校に通わされているんだから、よく知ってるんだ。」

「え、学校行ってるって設定にするの? 敵同士なのに?」

「実験だよ。同じ人型だからね。いろいろと刺激してみて、どんな反応を示すか試験しているんだ。人をおもちゃにしやがって。ひどい責め苦だ。息が詰まっちゃう。」

 語尾は愚痴の口調になっている。

「そんなだから、ぼくは学校に行きたくないんだ。」

 最後の一言は二ヶ月に一度くらいの頻度で言うことで、そして口先だけのことだから深刻に捉えなくてもいい。

「友達とかいないのかよ。……じゃなきゃ、気になってる子とか。」

「いるもんか。」

 声が苛立っている。

 が、それが本当とも限らないだろう。あの四角い窓のなかでは、いつだって誰かが誰かを好きじゃないか。密矢にもそういう人がいるのに、でも、悠吾に気を使って言わないだけなのかもしれない。そういう相談してくれてもいいのに、と思う。

「外は敵ばっかりさ。」

 地球が侵略され、人類が絶滅されたなんていう大掛かりな作り話を拵えるくらい、学校に行きたくないらしい。密矢の空想には、大なり小なりいつもこの類の陰がある。怪獣であれウイルスであれ気象変動であれ、人類をちょくちょく絶滅させる。あるいは密矢が異世界に行く。よく悠吾も連れていかれる。――そんなんじゃ、マトコウには行けないじゃないか。

「いいやだめだな。面白くない。設定を見直さないと。」

「どうして?」

「ただ逃げるだけじゃお話にならないよ。目的地を目指すか、敵と戦うんだ。いや戦うのは無理でも、コトバミは脅しくらいには使えるだろ。ま、おれはエイリアンと向き合ってみて、友達になるって話のほうが好きだけどな。」

 調子よく話している途中から、密矢の顔が上がり、笑みをつくっていた。

「なんだよ。」

「ありがとう。一緒に外に出てくれるなら、心強いよ。」

 悠吾は言葉をなくす。

 ついさっきまで『ここから出なくていい』と言っていたのを思い出した。

 悠吾が外に出ないことを世界から望まれ、また、彼自身も外に出たがらない最たる理由は、人々に危害が及ぶのを恐れているからだ。だから密矢の言うとおり、悠吾が人類だと思っていたのは実はエイリアンで、密矢をいじめる敵なのだとしたら、ここに閉じこもっている理由はない。

 もちろんただの絵空事だが。

 つまりこの作り話は、悠吾を外に出すための無茶な説得だったのだ。

「もし密矢がそんな漫画を描くんなら、出演料を貰わなくっちゃな。」

 絵は完成していた。フィクションに付き合うのもここまでだ。

「本当のことだよ。」

 密矢は携帯端末を取り出しながら、ぼそりと呟く。

「密矢にはまだ空想と現実が区別できないんだな。」

 ひどく憐れんだふうに悠吾は言う。

「なに言ってんだ。もう子供じゃない。」

「自撮りしたら確認してみろよ。密矢あご割れてないから。」

 絵を中心にして二人寄り添ってセルフィーを撮る。ここまでが施術のひとくさりだ。退治の経過を政府に報告しなければならないから記録しているのであって、二人が映り込む必要はもちろんない。絵のなかにいる自分たちを真似て、悠吾がひどく怯えた表情をしたり、密矢がキメ顔で銃を構えたポーズをする必要は、もちろんない。

 画面を覗きながら、悠吾は突然気がついた。

「あぁ、顔がお尻ってそういうことか。顎のことなんだな。」

「?」

 密矢が不思議そうな顔をする。

「いまはそういう漫画書いてるんだろ? んで、和矢さまに見つかっちゃったんだな?」

「ちがうッ。」

 密矢はしかめっ面で反発し、悠吾は笑う。

 すぐ隣で浅笑いを浮かべ腕を眺める悠吾に、密矢は言った。

「ねぇ真剣に考えてみてよ。」

「宇宙旅行のこと?」

「そう。」

 不貞腐れたような、しかし真剣な密矢のまなざしに、悠吾は射られた。

「なら密矢は、せいぜいぶたれないような頼みかたをするんだな。」

 密矢はそれを、長らく濁されつづけている誘いへの返事だったのではないかと思って、悠吾をなおも見つめる。意味でも必要でも義務でもなく、その言葉には彼の願望が隠れていたのではないかと。二人でマトコウに行くために父親に頼むのを諦めなくてもいい、そう言われているのではないかと思えた。

「これ以上叩かれたら、密矢がほんとのバカになっちまうかもしれないからな。」

 悠吾はニッと笑って茶化し、密矢の真っ白な頭をぐちゃぐちゃと掻き混ぜる。

「やーめーろーよー。」

 楽しげに怒ると、密矢は悠吾の脇腹あたりをくすぐる。

「あっはは、コラ、あははは!」

 さもくすぐったそうに悠吾は上半身を反らし、それを追いかけて前のめりになった密矢の脇腹に反撃を入れようと手を伸ばしたところで――

 突然に、入口の重い扉がギギギと鳴る。

 開いていく。

 扉から姿を現したのは、腰ほどの白髪をうなじで結った着流しの青年だ。

 彼は種宮家の長男、名を凍矢という。

 凍矢は来年大学を卒業する若者だが、統率者として育てられたゆえに冷徹で、まとう雰囲気には威厳が表れている。母に似た細面に、父に似た切れ長の目、薄い唇で、端整ではあるが無表情だといっそ恐ろしいような顔立ちをしている。

 そのため二人そろって居直って、凍矢の視線に氷漬けになって、ただ驚愕した目を向けることしかできない。

 凍矢は牢の出入り口が開いているのを知ると、身をかがめてなかに入って、彼らに寄り、悠吾の身体を見つめた。施術の具合を確認した。

 背中は半端、腹はぼけて、手足の術は残ってはいるが、いま密矢が描いたのは漫画だった。凍矢はクスリともしない。密矢を見下げる。

「密矢、鍵を渡しなさい。」

 命令は静かに下された。

「どうして?」

 密矢の疑問はぽろりとこぼれた。

 凍矢は膝をつき、密矢と視線の高さを合わせる。

 ゆっくりと伸びた手は、密矢の胸に下がる鍵を掴んだ。

 密矢は反射的に、鍵を掴んだ兄の手首をつかむ。

「どうしてですか? どうしてぼくから鍵を取り上げるんですか?」

「どうしてか、本当に解らないのか?」

「お兄さまがお怒りなのはわかります。でもこれは成功しています。問題はない。だからお願いです取り上げないで。」

「いいや失敗している。間違いつづけているんだ、密矢は。それにまだ気づいていないだけだ。」

「な、……どうして?」

 兄の視線が悠吾に向く。それを追いかけて、密矢も悠吾を視た。

 凍矢は密矢の肩を抱き、引き寄せて耳元で言う。

「コトバミを殺すのに、どれだけ時間をかけるつもりだ?」

 密矢は二の句が継げない。

「こんなものでは、コトバミが死ぬよりさきに悠吾の寿命が尽きてしまう。骸を前にしてやっと、間違いだったとおまえは気づくだろう。しかし後の祭りだ。」

「そんなことは、」

「おまえがこうして半端な術をかけるだけ、悠吾の自由を奪っているとは思わないのか? こんな場所からは早く解放してやりたいだろう? それとも、いつまでもここに閉じ込めておきたいのか?」

「違います!」

「違う? ではこの有様はなんだ?」

 閉口して、言葉を探してうつむいた隙に、凍矢は密矢の首から鍵を奪った。

「おまえにはできない。私がやる。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。