生きる為に
もう、力が出ない。でろでろと血が垂れる肩口を押さえて、藤吉郎は夜の道を彷徨っていた。向こうに、人の気配がある。
「助けて……くれ……」
提灯の光に照らされた藤吉郎は、暗闇に慣れた目を一瞬瞑った。もう、立ち上がる元気もない。感覚のはっきりしない右腕を、灯りのほうに差し伸ばした。
「うおっ、六本指だ。気持ち悪ぃな」
ふだんの藤吉郎ならば、こういった言には強く反抗する。しかし、いまの彼にその元気はなかった。
「助けて……」
「悪いね、あたしも心が痛む。けれども、この乱世にいちいち怪我人を看病していたら、こっちのほうが参っちまう」
「そんな、儂を見捨てるんですか」
「ああ。こんな世に生まれたことを恨むんだね。それじゃあ、しぶとく生きなよ」
そう言い捨てて、彼女は去っていった。
再び押し寄せた痛みに、藤吉郎は奥歯をきつく噛み締めた。
嫌いだ。斎藤義龍も。顔は見えなかったが、あの女も。
あいつらに復讐する力が欲しい。生き延びて、何が何でも手にしてやる。
力を手にするには、どうすればよいのか。侍になる、そのためには? 会う人皆が馬鹿にする、自分を変えるにはどうしたらよい。どうしたら……
鼠のように醜い面は、どうしようもない。むしろ、相手に嗤わせるだけ嗤わせて、油断と親近を誘い、懐に取り入るべきかもしれない。生まれが卑賎であることも、隠しようがない。せめて、人と会う時には身なりを整えたい。現在の藤吉郎に、それは土台無理な相談であったが。
けれどももう一つ、馬鹿にされていて、それでいて変えられることがある。指の数だ。
藤吉郎には、親指が一本余分にある。それを切り落とせば、少なくとも外見だけは人並みになれる。
刀はもうない。いや、指ならば歯で食いちぎれば良い。
いつのまにか降り始めた小糠雨は、だんだんと強くなっている。
小さいほうの親指を口に含む。不揃いな黄色い歯を、指の表皮に突き立てた。指に付着した砂が唾液に混じって、口腔に貼り付く。記憶も確かでないほど幼いころ、実父を亡くしたばかりのころ。不安に一杯で、いつも指をくわえていたことを思い出した。
歯のぎざが、皮膚に突き刺さった。軽い痛みとともに、口の中で血の匂いが広がる。
そのまま、顎にかける力を強めた。指の腱が嚙み千切れる。太い血管に穴が開いたのか、勢いを持った血流が頬の内側を打つのを感じた。生温かい体液は唾と交じり合って、喉の奥へと落ちていく。
いったん、口を大きく開いて息をする。比較的に冷たい外気に触れて、指の傷口がきんと痛んだ。骨と骨との接続部を、勢いをつけて嚙み砕く。ぐしり、と固いものが潰れる音を聞いた。上の歯と下の歯が噛み合わさって、小気味よい音を立てる。頭が割れるような、全身に雷撃が走るような痛みに、声にならない声を漏らした。
指が、完全に身体から千切れたことを感じる。勢いに任せて、それを飲み込む。喉を通ってそれが、腹に収まる感じがした。
藤吉郎の右手には、切り離された親指の痕が残っていた。塚のように盛り上がった肉塊から、骨の一部が姿を覗かせている。行先を失った血管から、紅い血がとめどなく流れ落ちた。
いつのまにか、雨は土砂降りに変わっていた。頭から顎から伝い落ちる水が、まだ乾きもしない傷跡を濡らす。身体の節という節を逆さに捻られるような痛みに、藤吉郎は絶叫した。陸に打ち上げられた青魚のように、ばたばたと身体を動かしては楽な姿勢を探す。その度に、水が薄く溜まりだした地面に傷口が触れて、頭から足先までを串刺しにされたような痛撃が走った。
斬りつけられた傷と自分でつけた傷とで血塗れになって、どうして自分は死ななかったのだろう。雨に打たれて、蚯蚓のようにのたうち回って……意識もはっきりとしない、恐怖と混乱のなかで、藤吉郎はただただ生を渇望した。こんなところで死にたくはない、ここを生き延びたら、絶対に立派な侍になって、故郷の村に帰るんだ。気が付けば、いつのまにか痛みは治まって、藤吉郎は道端に寝ていた。
藪で毟り取った薬草を傷口に押し当てて、しばらく竹林のなかで寝ていた。蠅が藤吉郎の右の肩口に留まって、卵を産み付けていった。しばらくして、小さな生き物が傷口の内外をもぞもぞと動くのを感じた。左腕を掲げて蛆を取り除くだけの活力は、藤吉郎にはもう残されていなかった。
意識が吹き消されるような激しい痛みは去った代わりに、じわじわと死が近づいてくる。いくら動かそうとしても微動だにしない身体、身体に纏わりつく熱気、失われていく五感。どうしてか頭脳だけが明瞭さを取り戻しつつあった。それだけにいっそう、現状が恐ろしい。
目を閉じた。眠ってさえいれば、痛みも感じない。
藤吉郎は、丸三日間眠りこけた。その間、彼の右腕に寄生した蛆虫は、壊死した体組織をあらかた食べ尽くした。蛆虫の侵食が健全な血管に達する寸前、藤吉郎は目を覚ました。
彼は、自分の身に何が起きたか正確なことは知らなかった。ただ、自分は助かったのだと感じた。ゆっくりと、左腕を掲げる。全身に血が通うのを感じた。近くの小川に飛び込む。傷口に清水が沁みて、穢いものが流れ出していくのを感じた。
川べりで日向ぼこをしている雨蛙を掴んで呑み込む。自分が食われたことにようやく気がついた雨蛙は、ぬめぬめとした手足を必死で動かした。頬の内側を叩く力を、藤吉郎は力一杯呑み込んだ。喉から腹へと落ちていった雨蛙の動きは、すぐに感じられなくなった。
野原に大の字になった藤吉郎は、これからの身の振り方を思案した。清洲の町へ戻るわけにはいかない。一介の間者を相手にやっきになる相手とも思えないが、用心に越したことはない。
どこへ向かうともなく歩き出した藤吉郎は、緑の稲穂が黄色く変じはじめた田圃の畔に出た。故郷の村も、今の時分はこんな風だろう。しかし、そこへ戻るような恥ずかしい真似を藤吉郎はできない。
泥水を啜って、またしばらく歩く。向こうから、びっこをひいた狸が歩いてきた。
左の後足に矢が突き立ったその狸は、逃げ隠れするでもなくゆっくりと畦道を歩いていた。もう、生き延びることを諦めてしまったのだろうか。
立ち止まった藤吉郎の前まで来て、狸は足を止めた。狸は藤吉郎と同じ境遇にいる同志であった。
藤吉郎は、狸の胴を鷲掴みにして持ち上げた。弱々しくくんくんと鳴くばかりの狸は、抵抗しようともしない。
左手で持ち上げた狸の頭に、齧り付く。泥の味、ごわごわとした毛の感触、そして新鮮で温かな血液。その場に座り込んだ藤吉郎は、まだ死にきっていない狸を生のまま貪り食った。
身体の芯まで温まるような、血と肉の食感。新鮮で柔らかく、弾力のある肉に、藤吉郎は命を吹き返す心持ちだった。食べはじめてから気が付いたが、生肉というのは腹に悪い。しかし、食欲を抑えるなどはなから不可能であった。
獲物の血で顔を真っ赤にした藤吉郎は、迫り来る馬の声に顔を上げた。逆光で、馬上の姿は見えない。鷹のぴゅうという甲高い鳴き声がした。
「俺の獲物を横取りするとは、大した度胸だな。褒めてやろう」
豪壮な低い声で叫んだのは、鉄砲を肩に担いだ若侍だった。
「狸を生きたまま喰うとは、また面白い男だな。名は何と申す」
もう下半身しか残らない狸を取り落とした藤吉郎は、もはやこれまでかと恐る恐る名を名乗った。獲物を横取りにした罰で殺される。
「……木下藤吉郎と申します」
「そうか。俺は織田三郎信長」
「信長様ですか……⁉︎」
うつけとも戦上手とも知られる那古野の城主は、このとき十九歳。藤吉郎より三つ年長であった。
「ほう、どうやら俺を知っているのか。さしあたり、物怪の類いではなさそうだな。俺のことはなんと聞いている」
「いえ、それはもう戦上手の英明な若君と」
「ほう、そいつはまた嬉しい評価だな。しかし、それだけではなかろう」
この場で話を繋いで、どうにか咎めを受けずに済む方策はなかろうか。藤吉郎は、必死に考えを巡らせた。
「うつけ殿、と呼ばれていらすことは存じております。しかし、それは仮初の姿。あなた様は真の麒麟児でありましょう。儂は清洲に住んでおりましたが、那古野領の繁栄は聞き及んでおります。それに、信長様の戦上手は皆の知るところです。あなた様が真にうつけなら、領地を食い潰し戦国乱世の塵となるだけです。そうなっていないなら、信長様はさしずめ爪を隠した鷹でありましょう」
そこまで聞いた信長は、唐突に馬上から飛び降りた。籠手に留まった鷹が、翼をバタバタと鳴らして飛び上がる。
薄く髭を生やした、細面の美男子。信長は、藤吉郎のほうへ近づくと、彼の前にかがみ込んだ。野心にぎらついた信長の目は、藤吉郎の全てを見透かすかのようだった。
「面白い。お前は、俺が天下を統べる王たるに相応しい男だと思うか」
「……ええ」
「そうか。本心かどうかは知らぬが、狸の血に塗れた口でそう言うのは面白い。着いてくるか」
「私が、ですか」
どうやら、この窮地を脱する手立てがありそうだ。藤吉郎は、信長から差し出された細い希望に手を伸ばした。
「そうだお前、猿みたいな顔をしているな。猿、と呼ぼう」
「猿、ですか」
「ああ。鷹狩はやめだ。俺の馬に遅れぬよう走ってこい、猿」
そう言って、信長は馬に飛び乗った。駆け出した騎馬を追いかけて、藤吉郎も走り出す。
――木下藤吉郎の不幸は、かくして幕を開けた。いくら追いかけても決して手に入ることのない、無限の欲望を求める艱難辛苦の一生は、この日はじまったのだ。
天文二十二年 木下藤吉郎、織田信長に仕官する。
弘治二年 斎藤道三、息子義龍に攻められ敗死。
永禄九年 美濃攻めに際し木下藤吉郎は、主君の道三を失った蜂須賀小六正勝を配下に組み入れる。
天正元年 木下藤吉郎秀吉、改姓し羽柴と名乗る。
天正十年 羽柴秀吉、織田信長没後同家臣団の筆頭格として振る舞い、翌年までにその土台を固める。
天正十三年 羽柴秀吉、関白に任ぜられる。
天正十四年 羽柴秀吉、正親町天皇から豊臣の姓を賜る。
慶長三年 天下人豊臣秀吉没す。享年六十二。




