清洲の間者
強い雨が、木下藤吉郎の全身を打ち付けていた。髷の形はすっかり崩れ、前髪が視界を隠している。
どくどくと、指の付け根から血が溢れだす。どくどくと、どくどくと。
松下加兵衛氏は、藤吉郎を可愛がってくれた。彼は実に人の好い侍であった。藤吉郎は、無宿の流浪人であった自分を拾ってくれた松下氏の恩着に報いようと、積極的に雑事をこなした。それが、古参の使用人には癇に障ったのだろう。彼らは藤吉郎の外見を嗤い、一挙手一投足に文句をつけた。食事を減らし、給金を中抜きし、布団に馬糞を塗りたくった。我慢の限界に達した藤吉郎は、いじめの指揮を執っていた三郎兵衛に殴りかかり、彼の耳朶を引きちぎった。松下氏にしても、今川仮名目録に定められた喧嘩両成敗の原則を無視して三郎兵衛だけを罰するわけにもいかず、両名ともを解雇する運びとした。
三郎兵衛の仲間たちに目を付けられた藤吉郎は、遠江に留まることもできず、気が付けば生まれ故郷の尾張まで戻っていた。
故郷の中村から威勢よく飛び出した手前、とんぼ返りもできない。さて何処へ行ったものかと、藤吉郎は途方に暮れていた。松下氏にもらった駄賃も、そろそろ尽きようとしている。いつまでも宿に逗留して、昼まで寝ていてはいけない。
藤吉郎は、ひどく醜い容貌をしていた。はじめて会ったものはいつも、彼の顔をまじまじと眺めるか、一目見て目をそらすかであった。
彼はまた、指の数が一本多い奇形でもあった。右親指の付け根から枝分かれして、もう一本の指が生えているのだ。それ自体は、なにも珍しいことではない。四百人に一人の割合で、指の多い人間は生まれる。『隋書』に見える西方の疏勒国では、民のすべてが六本指であるという。
藤吉郎は、奇特な手と鼠のような容姿を、さんざん笑いものにされてきた。故郷の村人にも、松下家の家人たちにも、それに飲んだくれの継父にも。それを見返してやるには、どうすればよい。いつも自分の味方になってくれて、きっと今頃は村で貧窮している母や弟妹に、腹いっぱい食わせてやるためにはどうしたらよい。侍になる、それが三年前の藤吉郎が出した答えだった。立派な侍になれば、嘲笑されることもない。美濃の斎藤道三は、油売りの子だ。あの蝮にできたことが、この鼠にできないはずがない。
しかし、いまの藤吉郎には、自分も侍になれると言い切るだけの自信はなかった。下剋上、それはあまりに狭く厳しい道である。
ともかく藤吉郎には、金がなかった。代金を滞納して宿屋を追い出され、清洲の町で飢えて倒れていた彼を救ったのは、目深に被った頭巾で顔を隠した大男だった。
「食え」
乱雑に差し出された麦飯のにぎりを、藤吉郎は一心不乱に口へ詰め込んだ。十日ぶりに食べるまともな飯は、天下一美味い。藤吉郎が空腹を満たしたのを見計らって、頭巾の男は口を開いた。
「お前、名は何という」
淵のように深く、低い声だ。藤吉郎はもう何日も喋っていなかったせいか、話し方を忘れてしまったような口を、必死で動かした。
「木下っ、藤吉郎といいます」
「ふむ。俺は小六。これからお前に、飯と家を与えてやる。その代わりにお前は、清洲城下の情報を寄越せ。読み書きはできるか?」
「平仮名だけなら、なんとか」
松下氏のところで働いていたころ学んだ手習いが、ようやく役に立つ。それが、藤吉郎には嬉しかった。
「充分だ。毎月、新月の夜に遣いを出す。情報の量と質に応じて給金を渡そう。旨くやれば、取り立ててやらぬこともない。清洲の民の暮らしぶり、うわさ話、小さな事件に至るまでつぶさに記せ。よいか?」
「は、はい」
藤吉郎の返事に頷いた小六は、懐から銭の束を取り出した。一月も食べていけない程度の額だ。しかし、飢えて生死をさまよった藤吉郎からしてみれば、大金に思われた。
「お前が今もたれかかっているその長屋、真ん中の部屋を借りてある。好きに使え。家賃は、給金から払え。そう、このことは他言無用だ。漏らした奴は、死なせてくれと泣いて頼むことになろうて」
そう言って小六は、近くに繋いであった馬に飛び乗った。汚らしい斑模様の馬が、不揃いな歯を擦り合わせる。
「あの」
「何だ」
「どうして、儂を選んだのですか」
小六は、すこし考えてから言った。
「たまたま目に付いたから、それ以上の理由はない。ちょうど、間者に使える浪人を探していたからな。身寄りもない浮浪人なら、どうなろうと誰も気にせんし、町をうろついても訝しまれはせん。そもそも、うずくまった乞食の顔など馬上からでは判らぬ。しかし、お前の目を見て、こいつならいけると感じた」
「それは、どういう……」
「勘だ、勘。それじゃあ、この恩を忘れずにしっかり奉公するんだな」
走り去る小六を、藤吉郎はぽかんとして見ていた。
何はともあれ、藤吉郎は与えられた部屋の戸を開けた。家具も何もない、板張りの四畳半。それでも、これから厳しくなる寒さをしのげる。藤吉郎は、降ってわいた幸運を噛み締めて、ささくれだった床に大の字で寝転がった。小六と名乗った怪し気な男の恩着に報いるため、うわさ話を集めに行かなくてはならない。
それからしばらくかけて、藤吉郎は清洲の情勢を調べた。農民の少年だったころは、領主が誰で、どこと争っているかなど気にしたことはなかった。家族と、あとは自分の村が平和を保てればそれでよかったのだ。
現在のところ、清洲の城主は、尾張守護代の織田信友。守護の斯波義統を傀儡として擁立しているが、その信友自身もまた家臣の坂井大膳に主導権を握られている。
しかし、守護を擁立した守護代といえども盤石ではない。清洲からそう遠くない那古野城を拠点とする織田信長が、現在のところ尾張でもっとも勢いのある武将だ。信長は「うつけ者」と馬鹿にされ、半年前に家を継いだころは父の信秀が盛り立てた織田弾正忠家を食いつぶすかと思われていた。しかしほんの二月前、彼は清洲方の軍勢を打ち破った。その勝利はまさに圧倒的で、信長は非凡な武人であることを示すに十分だった。評判を聞くところでは、清洲城が墜とされるのも時間の問題だ。
藤吉郎も、信長に焼かれたという清洲近辺の田畑を見た。米を刈り入れる寸前で田がだめになり、村の農民は多くが離散してしまっていた。人気のない村の、みすぼらしい家のなかに、弱弱しい眼光を見た。近づくと、十にも満たない少女がひとり、土間に寝込んでいた。父も母も帰らず、食べるものもなしで幼い弟を守っていた。その弟も、骨と皮になって死んだ。そう言って、彼女は息絶えた。藤吉郎は少女を土に埋めた。彼女は、紙きれのように軽かった。
織田信長も、坂井大膳も、侍の本分を果たしたまでだ。少女を殺したのは、戦国乱世だ。しかし藤吉郎は、それで何か気を起こしたりはしなかった。副業に始めた針の行商がようやく軌道に乗ったばかりで忙しかったし、世を変えるなどという願いはあまりに大逸れていて、本気で考えてみるのも馬鹿らしかった。
藤吉郎に間者の職を与えた小六という男は、どうやら蜂須賀利政という国人らしかった。蜂須賀氏は尾張の出だが、小六の父の代から美濃の斎藤家に仕えている。美濃を治める斎藤道三は、織田信長の舅に当たるが、尾張の織田家とは基本的に敵対している。つまり斎藤道三は、小六に尾張の情報を集めさせ、隙あらば攻め入ろうとしているのだろう。
藤吉郎のような庶民には、領主への忠誠心などというものは全く存在しない。いい領主とは民を豊かにする領主であり、それさえすれば領主は何者でも良かった。
ともあれ藤吉郎は、針の行商をしながら清洲近辺の村を回り、うわさ話を聞き書きて、月に一度やってくる蜂須賀小六の遣いに渡した。ときには、指示に従って噂を流すこともあった。
小六に救われた初冬から季節は巡り、初夏の息吹が感じられるようになったころ。新月の暗い夜、藤吉郎は戸を叩く音を聞いた。例月の、小六からの遣いだろう。
「こちら、今月分の情報です」
「うむ」
笠を目深く被った遣いの男は、受け取った紙を懐に仕舞った。
「それで、給金は……」
かちり。遣いの男が、刀を抜いた。とっさに、藤吉郎は飛び退く。刀が、勢いよく床板を削り取った。
「いったい、どういうつもりです」
藤吉郎も、防犯に持ち歩いていた安物の刀を抜いた。戦の跡を彷徨いて拾った、錆びて欠けた一本だ。見様見真似に構えて、敵をにらむ。
「冥途の土産に教えてやろう。乞食風情に知られても、武将まで届くころにはことはとうに終わっておる。それに、お前はもうすぐ死ぬ」
「……、何が言いたいんだ」
「蜂須賀小六は、斎藤道三の忠実な家臣だ。尾張に情報網を張り巡らせ、道三を利している。その道三は、次代の当主となるべき息子の義龍さまよりも、あろうことか敵であるべき織田信長を信頼している」
「お前は、小六様ではなく、義龍様の遣いか……」
「ふっ、その通りだ。蜂須賀小六の手下どもを殺せば、道三は弱体化する。小六の遣いは、簡単に死んでくれたよ。仲間と名乗ったおれをまんまと信じて、間者どもの居場所を教えたあとでな。回りくどいが、確実な方法だ。お前に恨みはないが、これも義龍様のため。死んでくれ」
勢いよく振り下ろされる刀を、藤吉郎は必死で避けた。藤吉郎に剣術の心得はない。必死に刀を振り回しても、相手には掠りもしなかった。
「このことを言いふらしたりはしませんから。どうか、命だけは……」
「はっ、農民が信用できるか」
藤吉郎は、話が旨い。しかし、いくら口車を回したところで、暴力に頼る相手に敵わないことは分かっている。
「ふんっ」
斬られた。右肩に、灼けるような痛みを感じる。藤吉郎は、必死で体を捻った。流血を感じるが、深い傷にはならなかった。右腕に、力が入らない。刀を両手で持ち直すと、せめてもの抵抗と振り回す。相手も、特別に練熟した武士というわけではないようだ。彼が一瞬ひるんだすきをついて、藤吉郎は戸外に飛び出した。続いて戸口を飛び出した敵に、手に持った刀を投げつける。傷つけはできなくとも、時間は稼げた。追いつかれないよう、必死で走る。
義龍の家臣、新右衛門は、新月の闇に消え去る藤吉郎を追おうとはしなかった。戦っているうちにずれた笠の向きを整える。あの傷ではすぐに死んでしまうだろうし、どこの大侍も浮浪人の言にいちいち耳を傾けるほど暇ではない。蜂須賀小六の放った間者は、まだ大勢いる。新右衛門もまた、次の仕事のため闇のなかへ消えていった。




