Code:131 日常に走るノイズ①
* * *
時間は少し巻き戻り、当日の朝。
薄暗い部屋の中、クーレリカはベッドの端に座り込んでいた。
カーテンは閉め切られ、朝の光を頑なに拒絶している。
昨夜からほとんど眠れずに過ごした夜は、彼女の瞼の下に深い隈を刻みつけていた。
まるで何日も眠っていないかのような、病的なまでの疲労が小さな肩にのしかかる。
それでも、DOCの着信音は彼女の体調なんて考慮しない。
停滞した空気を震わせるリズミカルな音響に、クーレリカは重い瞼を持ち上げ、虚ろな目で画面を見つめた。
表示された名前は――副隊長リノエラ。
「……はぁ」
自分でも失礼だなと思いながら、小さく溜息をついた。
『今日の訓練、忘れてないよね? 十時に訓練場で待ってるから!』
簡潔な文面に、絵文字が添えられている。
リノエラからのメッセージは、いつも明るく前向きな言葉で溢れていた。
だが今の自分には、その眩しさが痛い。
クーレリカは重々しい指先でDOCの画面を叩く。
約束していたことすら、記憶の彼方に沈んでいた。
いや、正確には、忘れようとしていたのかもしれない。
人と会うこと自体が、今は恐ろしくてたまらなかった。
(「でも……約束を断るわけのは、ダメだもんね」)
リノエラはいつも自分を気にかけてくれる。第七部隊の副隊長として忙しいはずなのに、時間を見つけては訓練に付き合ってくれる。
その優しさを裏切ることだけはできない。
重い体を無理やり起こし、よろよろと立ち上がる。
隊服が掛けてあるハンガーまで歩くのも、まるで泥沼を進むような労力を要した。
着替えながら、ふと鏡に映った自分の顔を見てしまう。
まるで幽霊のように青白い肌。生気を失った瞳。乱れた髪。
ベレー帽を深く被り直す。
いつもより念入りに、髪を編み込んで角を隠した。
誰にも気づかれないように。もう二度と、あんな視線を向けられないように。
訓練場への道のりは、いつもより遠く感じられた。
すれ違う術式師たちの視線が、まるで針のように肌を刺す。
本当は誰も自分のことなど見ていないのかもしれない。
でも、そう思うことができなかった。
訓練場の扉を開けると、熱気に包まれた風が吹き込んできた。
リノエラはすでに準備運動を終えて待っているようだった。
健康的な笑顔と、生命力に満ちた佇まい。
今のクーレリカとは対照的な、光の存在がそこにいた。
「おはよう、クーレリカ。調子はどう?」
爽やかな声が訓練場に響く。
「大丈夫です……」
力のない返事に、リノエラの眉がぴくりと動く。
流石は副隊長の洞察力、否、この状況ならそうでなくとも気付いただろう。
しかし、クーレリカが下手に気を遣われることを嫌うと知ってか、彼女は敢えて何も追及せず、穏やかな声で提案した。
「じゃあ、まずはいつもの基礎練習から始めましょうか」
クーレリカは小さく頷き、フィールドに立った。
最初は基礎的な風属性の術式展開練習。
そういった積み重ねが、実戦では最後にモノを言う。
とは言え、アカデミーを飛び級で卒業した彼女にとっては造作もない。
目を瞑っていてもできる程度に、洗練されているはずだった。
いつも通りなら。
しかし、今日は違った。
魔導回路に力を込めようとするが、集中力が続かない。
術式の構築に通常の三倍の時間がかかり、ようやく形成できた風の矢も、威力は半分以下。
でも、失敗して恥ずかしいという感情すら、気も漫ろで実感が湧かない。
「クーレリカ?」
リノエラの声に、はっと我に返る。
「あ、すみません。もう一度……」
「もう一度、やってみよっか」
驚いた様子を隠すようなリノエラの声に促され、再度試みる。
しかし、結果は変わらなかった。むしろ悪化している。
手が震え、魔導粒子の制御が安定しない。
「クーレリカ、大丈夫? 顔色が――」
「だ、大丈夫です!」
心配の言葉を遮るように、声を張り上げた。
その勢いに、リノエラは一瞬たじろぐ。
「じゃあ、軽く模擬戦闘をしてみましょうか。その方が、調子も出ると思うし」
リノエラの提案に、クーレリカは機械的に頷いた。
頭では理解している。体を動かして、気分を変えようとしてくれているのだと。
対面に立つ。リノエラが構えを取り、雷属性の術式を展開し始める。
黄金色の魔導粒子が、彼女の周囲で優雅に舞った。
だが、相手がモーションを起こしているというのに、思考には靄がかかっている。
対面での攻防。リノエラが放つ術式波を、クーレリカは術式盾で受け流すはずだった。
初歩的な技術、何度も練習した動作のはずなのに――タイミングがずれた。
電撃が迫ってくることは分かっていた。しかし、体が思うように動かない。
反応が一瞬遅れ、防御が間に合わなかった。
波動がクーレリカの肩を直撃する。
精神的なダメージに変換されていても、その精神が弱っているのだからひとたまりもない。
「きゃあっ!」
衝撃で体勢を崩し、情けなく訓練場の床に転がった。
「ちょっと、タイム!」
リノエラが慌てて練習を中断し、クーレリカに駆け寄る。
膝をついて、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 怪我はない?」
「平気です……」
立ち上がろうとするクーレリカの顔を、リノエラはじっと見つめた。
真剣な表情に向き合うのがどこか申し訳なくて、クーレリカは視線を逸らす。
「昨日、ちゃんと寝た? 顔色が真っ青よ」
心配そうな声音。その優しさが、かえって胸を締め付ける。
こんな自分のために時間を割いてもらっているのに、まともに訓練もできない。
「続けてください」
立ち上がろうとするクーレリカの腕を、リノエラが掴んだ。
思いのほか、強い力で。
「ダメ。今日はここまで。部屋に戻って休みなさい」
「でも――」
「これは副隊長命令よ。無理をして怪我でもしたら、それこそ皆に迷惑がかかるでしょう?」
クーレリカは反論できなかった。
迷惑。その単語が、鋭い刃のように心に突き刺さる。
また誰かに迷惑をかける。
災いを撒き散らす。自分の存在そのものが、周りの人を不幸にしていく。
「……はい」
消え入りそうな声で返事をすると、クーレリカは逃げるように訓練場を後にした。




