第九十一夜 吾輩は猫ではない
吾輩は猫であるが、猫ではない。名前は笹野直蔵である。
ついこの前まで、俺はこの家の主であった。この家も、俺が定年退職を迎える少し前までローンを払い続けていたのだ。
俺がこの家で一番気に入っていたのが縁側だった。‥‥南向きの良く日の当たる場所だった。
俺がこの縁側に座椅子を置いて、新聞を読みながらうたた寝をしていると、その横を妻の恭子が洗濯物の籠を抱えながら、ガラス戸を開けて外に出る。
パン、パンと洗濯物を広げ、物干し竿に干していく。
その音を聞いて、洗濯物に残る洗剤のほのかな香りを嗅ぎ、心地よい風を感じながら眠りに落ちる。
俺はそんな日常をとても愛していた。
ところがある朝俺は、脳出血を起こして病院に運ばれてしまった。今でも病院のベッドで意識不明のまま寝ているはずだったのだが‥。
今はなぜか猫として、我が家の庭に来ていた。
庭の物干し竿には、俺のパジャマや下着が干してあった。俺が病院で着てた衣服だった。
俺は庭から家の中を覗いてみた。
妻の恭子は、猫の俺を見てどう反応するだろうか?少し興味がわいた。
「ニャー。」
猫の声で鳴いてみた。‥意外と可愛らしい声が出た。
「ニャー、ニャー。」
俺が庭でこんなに鳴いているのに、恭子は全く反応しなかった。
‥おかしい。いつもなら、庭先で鳥や猫が泣こうものなら、すぐにやってきて、『かわいい、かわいい』と騒いでいたのに‥‥。
俺は何だか嫌な予感がして、庭から縁側のガラス戸を猫の手で叩いた。
バン、バン、
さらに、ガラス戸が開くか猫の手で戸の縁を横へ引いてみた。
ガラ、ガラ
『開いた!』
俺は家の中で恭子を探した。すると、トイレ近くの廊下で右半身を麻痺させて動けなくなっていた恭子を発見した。
『大変だ!』
俺は猫の声でしきりに鳴いて、近所に異変を知らせた。
『どうしよう、どうしよう、恭子に救急車を呼ばなくては!』
『恭子ー!』
俺は、その瞬間パッと目が覚めた。病室にいる娘が声をかけてきた。
「お父さん!良かった‥目が覚めたね。」
「‥‥きょ‥こ‥。」
「恭子って言った?お母さんの事?‥お母さんは当分ここへは来ないわよ。違う病室で入院してるもの。」
「‥‥!」
「お母さんね、家で脳梗塞で倒れてたんだって。それを野良猫が発見して近所の人達に知らせたんだって。嘘みたいよね。」
なんだと‥‥じゃあ、あれは夢じゃなかったのか。
俺はやはり猫になっていたようだ。‥それにしても恭子が助かって良かった。
‥‥娘には親二人の世話で苦労をかけるが、またいつかこの埋め合わせはしてやろう。
こうして入院生活が何日が続いた後、俺達夫婦は奇跡的に何の後遺症もなく退院する事ができた。
久しぶりの我が家の庭に、妻を助けたという猫がいた。猫はうちで飼う事にした。
「ニャー。」
‥だが、この猫は猫であって、猫ではない。いつかの俺みたいに、またどこかの誰かがこの猫の中に入っているかもしれない‥‥。




