第八十二夜 催眠術
俺は小学生の息子二人を連れて、市民ホールに来ていた。今晩行われるマジックと催眠術のショーを見るためだった。
チケット代は大人一人と子供二人で1万一千円。なかなかの出費だったが、チケットの指定する座席は最前列の真ん中だった。一番ベストな席だった。
「お父さん凄い!超良い席じゃん!」
「やばい、最高!」
「なっ、お父さんは運が良いからな。」
そんな事を言っていると、ショーが始まった。
催眠術師マッドによる催眠術ショーだった。
マッドと一瞬目が合って、何かを言われたような気がした。聞き取れなくて首を傾げていると、笑われた。
「お父さん、マッドの知り合い?」
「いや、知らない。多分子供連れだし、最前列だし目立ったから見ただけだよ。」
「ふーん‥。」
催眠術師マッドの催眠術ショーは意外にも楽しめた。
彼が催眠術をかける人を選び出し、舞台で催眠術をかけるのだが、皆んな見事にかかっていた。
舞台上には、うちの町内会長さんの姿もあった。あの厳格な会長さんが犬になりきり、マッドの手にお手をしたり、猫になりきって舞台袖のカーテンで爪とぎをしてみせたのには驚いた。
催眠術ショーの後は、マジックショーで盛り上がり、時間はあっという間に過ぎていった。
「面白かったぁ。お父さん、連れてきてくれてありがとう。」
「お母さんも連れて来れば良かったよね〜。」
「そうか、楽しかったか。なら良かった。」
子供達が楽しめたようで、俺も大満足だった。
翌日、俺は寝坊してしまった。
「うわ、もうこんな時間か‥。」
俺はベッドから起きて洗面所へ向かった。
‥だが、昨日の夜までと家の様子が違っている事に動揺した。
「‥なんだ、ここは‥俺が結婚する前に住んでいたアパートの部屋じゃないか。」
それに、妻や子供達の姿がどこにもなかった。
「‥タイムスリップしたのか?まさかな。」
俺は、ベッドの枕元にあるスマホをとって、日時を確認した。
「2020年8月3日、今日で間違いない。」
俺は遅刻しそうなので、お金が勿体ないがタクシーで職場へ向かった。
職場でデスクへ向かうと、俺の席に別の奴が座っていた。
「‥そこ、俺の席だが?」
「‥は?何言ってんの、おたくはそっちでしょ。」
そいつが示したのは、課の下っ端が座る席だった。
まわりの奴らがクスクス笑っている。
何だか感じが悪いな。
俺は言われた仕事をこなし、朝起きたアパートではなくて、自分の家に帰った。
だが、そこには見覚えのない別の家が建っていた。表札の名前も違う家のものだった。
俺は混乱した。
妻は?子供達はどこに行った?
俺は夢を見ているのか?
夢なら覚めてくれ!!
パンッ。
誰かが手を叩く音が聞こえた。目を開くと、目の前で催眠術ショーが行われていた。
舞台上で、催眠術師マッドがマイクで話している。
「僕がこの会場の中の何人かに催眠術をかけました。誰にかけたかは言いません。
かけられた人は、この一瞬の間に24時間の旅に出ていたはずです。‥行き先は、各々の大切にしてる存在が一切なくなってしまっている、もう一つの世界です。いわゆるパラレルワールドです。
どうでしたか?怖かったですよね。‥‥でもこの世界も、あちらの世界も確かに存在している世界なのです。
どちらの世界を選ぶかは各々の自由です。
‥僕が見た限りでは、ほとんどの方がこちらの世界に戻る事を選んで戻ってきたようです。ですが2、3人の方は、どうやらもう一つの世界へ残る事を決めたようですね。」
催眠術師マッドがそう言い終わると、会場内はしばらくの間、催眠術をかけられてた人は誰なのかを探ろうと、皆んなキョロキョロと会場内を見回したりざわざわとしたが、次のマジックショーが始まる頃にはまた静かになった。
俺達家族は、ショーを充分に楽しんで家に帰った。
俺は翌朝目覚めた時に、妻が隣に寝ているのを確認して、心底安心した。
会社でも、俺の席はいつもの席にちゃんとあった。
俺は当たり前の日常に、心から感謝した。
ただ一つ、変わった事があった。
うちの町内会長さんが、全くの別人になっていたのだ。顔も年齢も名前すら違う別人になっていたのだ。
妻も子供達も、ご近所さんも、以前からずっと町内会長さんは、変わっていないと言った。
俺の知ってる町内会長さんは、どこに行ったんだろう。
もしかして、町内会長さんも俺と同じように催眠術をかけられていたのかもしれない。
そしてこっちの世界ではない、あっちの世界を選んだのだろう。そんな気がした。




