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第21話 湯飲みの謎

 迅兄さんは、香織さんを疑ってる……。


 正直言って、今回の“毒物混入事件”の犯人候補を挙げろと、くるみから言われた時、つばさの脳裏には、藤野 香織の名前が真っ先に浮かんできたのだ。けれども、100%クロだと思っていた、“研究室の窓からの転落事件”の犯人は99%彼女ではなかった。

 義兄は、相変わらず、腕をつばさの肩に回したまま、穂高岳のルートについて語り続けている。


 迅兄さん、一体、あんたは何をやりだそうっていうんだよ!


「あっと、断崖絶壁、いいねー。よじ登ったら握力増強で、ピアノの鍵盤をたたく手にも力がみなぎって……」


 義兄に適当に相槌あいづちを打ってみたものの、つばさは、もう、自分が何を言ってるんだか、わからなくなってしまった。

 その時、憮然とした表情の良介が、店に戻ってきた。少し怒ったような声音で言う。


「おい、はやて! 店の裏に親父なんていなかったぜ。お前、何時、親父と話したんだよ」


「俺が、ここに来た時だったから待ちきれなくて、外出したんじゃないのか。そうそう、忘れてた。その時に親父さんから、お前に伝言があったんだよ」


「伝言?」


「 “俺が前に言った事、わかってるな。必ず守れよ”って」


「……」


 寿司職人に一瞥いちべつを送ってから、迅は義弟の肩から腕をはずし、もう一度、カウンター席の方へ戻ってきた。すると、席についていた香織が、


「少し冷めちゃったけど、せっかく良介さんが入れてくれたんだから、お茶を飲みましょ。これは迅さんの分で、これは、つばさ君の。良介さんのはカウンターの上にあるわよ」

 と、お茶が入った湯飲みをそれぞれが座った場所に配りだした。迅の前に湯飲みを置き、香織が少し姿勢を低くしたところで、


「湯飲みといえば、俺はもう一つ、持ってるんだけど」


 突然、そんな風に声をあげた迅に、香織は驚き、不思議そうな目を向ける。

 だが、彼がカウンター隅に置いてあったビニール袋を開け、“もう一つの湯飲み”を見せながら、


「藤野、俺が、この湯飲みをどこから持ってきたか、もう気づいてる?」


 そう言った時、

 華やかな女子大生の顔が、ぴくりと一瞬、こわばった。


「え、それって、ここの湯飲みじゃないの」


 つばさが、腑に落ちない様子で、迅が見せた湯飲みに目を向け、声をあげる。茶色の地に白い線が入った瀬戸物まがい。実際はプラスチックなんだろうが、それは、店の他の物と、全く同じデザインの湯飲みだった。


「ここの湯飲みには違いないけど、他の物とは、ちょっと違うところがあるんだ」


 自分をじっと見据えている ― 良介、つばさ、香織 ― をぐるりと見渡し、迅は人の悪い笑みをうかべた。


「この湯飲みには、アジ化ナトリウムが付着している」


「えっ!」


 それから、思わず声をあげた面々の紅一点に向かって、こう言った。


「そして、これがあった場所は、藤野、あんたのマンションの洗面所だよ」


* * *


 昨日の水曜日、都内の救急病院。

 集中治療室の中で、山根昭は、上手く動かせない左の五指にいらだちを隠せないでいた。

 

 曲がれ、曲がれ、曲がれ!

 

 頭の中で繰り返し言う命令が、自分の指先には伝わらない。

 今まで、何の意識もせずにやってきた動作の一つ、一つが、麻痺まひという二文字に拒まれ、力を失ってゆく。


 もう、バイオリンを弾くのは無理かもしれない。


 自分の指を見つめているうちに、昭は泣きたいような気持ちが込みあげ、急に気分が悪くなった。猛毒のアジ化ナトリウムを服毒させられた後遺症だけでなく、その犯人は十中八九、彼の友人たちの中にいるという推測が、動かない指の心配とともに、精神的にも彼を辛い立場に追いつめていった。


「山根さん、起きてたのね。どうしたの、気分が悪いの? あまり無理をしない方がいいわよ」


 病室に通りかかった若い看護婦が、昭の姿を目にして駆け寄ってきた。


「ちょっとだけ。でも、大丈夫だから。それより、T大の薬学部の坂下 由貴が窃盗容疑で逮捕されったって、本当なの」


 看護婦は、昭の言葉に眉をひそめた。事件の事は患者には伝えるなとの主治医からの命令で気を使っていたのに、彼は何処からか情報を入手してしまったらしい。


「それは……」


 言葉に詰まってしまっている看護婦の表情に、昭は俯き、ベッドのシーツを強く握り締めた。


 万引きで逮捕だなんて……大げさすぎる。僕が知らないうちに、誰かが彼女に不利な証言でもしたんだろうか。まさか、あの携帯電話に保存された映像のせいで? それとも、警察がやりたがっているのは、別の事件 ― 毒物混入 ― での取調べか」


 それって、僕に毒を飲ませた犯人が、由貴さんだっていう事?


 事件当日で覚えている事といえば、みんなと乾杯した事や、その後、談笑した少しの会話くらいだった。それに、思い出そうとすればするほど、猛毒を飲まされた時の苦しさを一刻も早く忘れたいと、体がそれを拒絶した。

 じんじんと痛みだした頭に手をやり、黙り込む。そんな昭の様子をおもんばかってか、若い看護婦は、あえて明るい声で言った。


「先生がね、明日の検査の結果が良好なら、集中治療室から一般病棟の方へ移れるって言ってたわよ。そしたら、お見舞いの人に会う事もできるし。そういえば、昨日、山根さんを心配して大学のお友達が来ていたわよ。彼、あなたが目を覚ましたって話をしたら、すごく喜んでた。だから、元気、出して」


「友達が?」


「そう。背の高い、けっこうイケ面な人。でも、大きなリュックを背負って、とてもT大生には見えなかったけど」


「……桐沢 迅だ。あれでも、彼はT大の医学生だよ」


「あら、じゃあ、この病院はT大の付属だから、研修でまた来るかもしれないわね」


 若い看護婦は、何となく嬉しそうだ。

 迅がもてるのは、わかっていたけど、少し話しただけの看護婦にまで熱をあげられるっていうのは、困ったものだなと、昭は苦笑する。彼自身は、そんな事に、ちっとも興味がないのが救いだが、坂下 由貴や彼の義妹のくるみが、いつもやきもきしていなければならない理由がよくわかる。


「迅に会いたいな」

「え? ああ、その医学生の人に?」

「うん」

「彼も山根さんに面会はできないかって、何度も聞いてたわ。わかったわ、私から先生にお願いしてあげる」


 軽く手を振り、病室を出て行った看護婦の後姿を見つめながら、昭は小さく息を吐いた。


 迅に会ったら、もう、すべてを話してしまおう。

 僕の歪んだ心のひだ。苛立ち、そして、僕の罪の事を。


 けれども、何故、迅なんだ? 昭は自問自答した。


 だって、僕の気持ちを分かってくれるのは、彼でしかありえないのだから。

 

 * * *


 そして、再び、話は木曜日、昭への毒物混入事件の現場である回転寿司屋に戻る。


 張り詰めた空気が、ぴりぴりと肌に伝わってくる。つばさは戸惑いながら、挑戦的な表情の義兄と、憮然と黙り込む藤野 香織の顔を交互に見た。


「このアジ化ナトリウムが付着した湯のみを俺が見つけたのは、藤野、あんたのマンションの洗面所だよ」


「ふざけるのもいい加減にして! どうして私のマンションにそんな物があるのよ」

 まくし立てるように言う香織に迅は、


「燃えないゴミの日がまだだったから」


 きつい目をして睨めつけ言う。

「覚えてないか? 以前、あのマンションでT大の連中が集まった時に、あんたが“不燃物ゴミの出し方”とやらで、散々、説教を垂れた事を。びんふたは別々にとか、プラマークがついたのはこちらとか、ペットボトルはすすぐんだとか、5、6種類にまで分別して、それを他人にも強要する姿はちょっと異常なくらいだった。俺と昭は神経質すぎるって呆れるばかりだったよ。坂下 由貴が万引き依存症というならば、あんたの場合は、さしずめ、“分別強迫症”ってやつじゃないのか。だから、あの事件の時に、この湯のみを回転寿司屋の床から回収した後、“藤野 香織”は、きっと、“燃えないゴミの日”が訪れるまで、これを捨てる事はできないだろうって、俺は考えたんだ」


「私が事件の後に、回転寿司屋の床からアジ化ナトリウム付の湯飲みを回収したって? それって、昭さんへの毒物混入の犯人は、“私”だって言いたいわけ。それに、“分別強迫症”ってどういう事よ」


「特にそういう病名があるってわけじゃないさ。ゴミを分別してる時の態度があまりにも、普通じゃなかったんで、仮に俺がそう名づけてみただけ。人の心のあり方は千差万別だよな。けれども、時に不安や欲望の強さに押しつぶされそうな幾人かの人間は、別の刺激に逃げ道を求めようとする。例えば、万引きとか、薬物への依存……または、物に異常に固執こしつする者もいる。繰り返される手洗いや、必要以上のゴミの分別。やってもやっても、満足がいかない。そして、不安は増大し、にっちもさっちもいかない状況に耐え切れなくなるって寸法だ……で、藤野、お前の場合は……」

 

迅は一つ息をつくと、興味津々といった目をして香織に言った。


「一体、何がそんなに不安だったわけ?」


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