第20話 スナフキンの過去
香織と良介がいなくなってしまった店内に、取り残された、つばさと迅。
むっつりとカウンターに頬杖をついて、何かを考え込んでいる迅の回りには、毎度の事ながら他人を寄せ付けようとしない硬い城壁が出来上がってしまっている。
いざ、二人きりにされてしまうと言葉が続かず、さすがのつばさも、気まずいような思いで横目で隣に座る義兄の様子を覗っている。
こういう時には、声をかけないのが一番で、その内面に踏み込もうだなんて相当な勇気がいるのだが、
それでも、やっぱり気になってしまう、スナフキンの過去。
長野の穂高岳の麓にある児童自立支援施設に5年間。そこでの生活って……。
「えーと……」
こんな奴に気を使ってる自分が情けない。すると、思い余って、この天才少年は、
「ほ、穂高岳って今頃、雪?」
かなり唐突な、そんな問いを迅に向けてしまったのだ。
「穂高岳?」
迅は、腑におちない様子で、義弟の方に目を向けた。
「何で、お前の口からそんな言葉が出てくるんだ」
ヤバい。僕らが自立支援施設の件を知った事に気づかれたか。訝しげな義兄の眼差しに、つばさは少しばかり慌てて、
「えっと、ほらっ、そこの壁にかけてあるカレンダーの写真って、穂高岳でしょ?
迅兄さん、山が好きだから、登った事があるかなあ……何て思ってね」
と、たまたま、回転寿司屋の壁にかけてあった、雪山の写真が載ったカレンダーを指差し言った。
ところが、
「あれは、スイスアルプスのマッターホルンだ。三大北壁の。どう見たら、あれが穂高岳に見えるんだ?」
「へええっ! 違ったの? あははっ、僕、山なんて登った事ないから、前にTVでちょっと見た穂高岳と同じ山に見えちゃったよー」
我ながら、かなり、わざとらしい言い訳だとは思ったが、ここでたじろぐと、かえって敵に怪しまれてしまう。そう考えると、つばさは、だんだん強気になってきた。
「マッターホルンには登れそうもないけど、僕にでも穂高岳ぐらいだったら登れるかなあ。でも、体力には自信がないんだよね」
何かが変だと思いながらも、山の話となれば、迅もかなり表情を和らげ、
「穂高には、何度も登ってるけど、穂高岳っていうのは、いくつかの山の総称で、初級者から上級者までコースは色々あるんだ。でも、全然、足に自信がないなら、高尾山くらいから始めてみたら?」
「駄目っ、僕はTVで見た、“穂高”がいいんだ。……で、参考までに聞きたいんだけど」
つばさは、ここで、逸る心臓の鼓動を整えて言った。
「迅兄さんが、最初に“穂高岳”に登ったのって幾つの時?」
9歳から13歳まで、その麓の自立支援施設にいた“桐沢 迅”の事が、これで少しはわかるかも。
一瞬の沈黙が、何10分にも思える時間。けれども、つばさの緊張とは裏腹に、迅は懐かしげにこんな答えを返した。
「俺の10歳の誕生日に、当時、世話になっていた人と一緒に登ったのが、最初かな。一番、標高の高い、奥穂高を目指して……結局は、俺がついてゆけなくて途中で下山したんだけど」
「世話になってた人って?」
「お医者さんだよ。精神科医」
「えっ?」
「ちょっと変わった人だったけど、まあ、俺が精神科医になりたいって、きっかけを作った人かな」
ち、ちょっと、いきなり核心ついてこられても、心の準備が、できてないのにっ。
それでも、これは、義兄の秘密を聞き出す絶好のチャンス! と、つばさの心臓は高鳴り出した。
「迅兄さんとその人って……」
その時だった。
「ごめんなさいね。いきなり、訪ねてきたりして驚いた?」
藤野 香織が、良介との話が終わったようで、奥の部屋から戻ってきてしまったのだ。
“いい所だったのに! 何で邪魔すんだよ”
無言で向けられた少年からの抗議の視線に、香織は、意外そうな顔をする。
「あら? 兄弟、水入らずでお話がはずんでた? 邪魔して悪かったのかしら」
香織にしてみると、迅とつばさが、たった二人で“お話中”なんて、見た事もない光景だったのだ。
「別に。雑談してただけだから。それより、今日はウィーンに行く日じゃなかったのか」
迅のそっけない答えを予想していたのか、
「夕方の便だから、まだ時間があるのよ」
香織は、お愛想程度の笑顔を浮かべて彼の横の席に座った。
「だから、良介さんから、昭さんの意識が戻ったって話を聞いて、こちらに寄ってみたの。詳しい話を知りたかったんだけど、あなたたちまで来てるなんて……ちょっと、びっくりしちゃった」
「良介に昭の話をしたのは俺だよ。面会はできなかったけど、昨日、病院に行って、あいつの様子を聞いてきたんだ」
隣に座った香織に、彼女と同じ程度の笑みで答える。けれども、笑いあってても、この二人の間には、どことなしに、一触即発の緊張感がみなぎっていて、つばさは、はらはらのし通しだ。
すると、先ほど香織と一緒に奥の部屋に行っていた、良介が店の中に戻ってきた。
「何だ、良介? ずい分、嬉しそうな顔をして」
迅の指摘どおり、彼の顔は、ここのところ続いていた苦々しい表情が一変して、緩んでしまっている。からかうような元同級生の言葉に、口元を大慌てで元に戻した寿司職人は、
「べ、別に何でもないけど。それより、せっかく、香織さんが来てくれたんだから、お茶でも入れようか。ティーパックので悪いけど、今はそれしかないから」
と、店の棚から、日本茶のティーパックの箱と湯飲みを4つ取り出し、カウンターの上に並べた。
店が営業している時に、客に出している物の残りなのだろう。湯飲みの一つ一つに、袋を破りながらティーパックを入れてゆく。その様子をぼんやりと見ているうちに、
「あれ……変だな」
つばさは、その時の回転寿司屋の様子に軽く首を傾げた。妙に心に引っかかる。でも、それが何かがわからない。良介が、湯沸しポットからお湯を注ぎだした時、その様子を眺めていた女子大生が声をあげた。
「良介さん、湯沸しポットのお湯って、お茶を入れるには熱すぎるのよね。ティーパックだって、少し水を混ぜて温度を下げたほうが、おいしく入るわよ」
「え、そうなんだ? 知らなかったよ」
「もう、入れちゃったのね。私が代わって入れれば良かったかな」
ちょっと、上目線で物を言う、香織の口ぶりが凄くお嬢様っぽい。すると、それが勘にさわったのか、隣にいた彼女の”天敵”が口を開いた。
「そうだよなあ、お茶はあんたの専売特許だもんな」
神経を逆なでる、あざけるような口調。
つ、ついに、バトル開始か!
だが、気が気でない、つばさを尻目に、迅は急に話題を変えてきた。
「そういえば、良介、さっき親父さんが呼んでたぞ。店の裏まで来てくれって」
「親父が? 外出してると思ってたけど」
「何だか急ぎの用みだいだったから、早く行けば」
迅の声音に、有無をいわさぬ圧力を感じてか、良介は、ちらりと香織の方へ目をやると、しぶしぶ、店の外へ出て行った。
「お茶が冷めるわね」
不満そうな香織に、
「どうせ不味いお茶なんだろ」
と、迅が人の悪い笑みを浮かべる。
うわぁ、皮肉っぽ……。
香織に対しては、相変わらず辛辣な態度の義兄に、つばさは眉をしかめてしまう。
マンションでの一件といい、いくらなんでも、ちょっとは気を使えよ。
「迅兄さん、その言い方はいくらなんでも……」
ところが、
「そういえば、つばさ! お前は、穂高岳に登りたかったんだよな。あのカレンダーの写真はマッターホルンだけど、穂高だって上まで行けば、夏でも雪庇が残った場所があって景色は凄くいいぞ」
くるりとカウンターに背を向け、振り向いたと思った瞬間、迅は、つばさの肩に腕を回し、回転寿司屋の壁にかけられている、“マッターホルンのカレンダー”の近くまで強引に引きずっていった。そう、香織が来る前に、二人が話題にしていた、あのカレンダーだ。
「ちょ、ちょっと、そんなにくっつかないでよ。苦しいし、第一、気持ち悪い……」
自分の手を懸命に振り払おうとする少年を山男の義兄は、片腕で難無く取り押さえて、話を続けようとする。
「今度、一緒に行ってみるか。お前もたまには、運動した方がいいだろ」
「いや、迅兄さんと一緒はちょっと……」
「何で? 遠慮するなよ」
遠慮とかじゃなくて、こんな流離のスナフキンと一緒に山なんかに行った日にゃ、断崖絶壁を延々と登らされそうで、僕は生きた心地がしない。
「えっと、僕は一応、バイオリニストでピアニストだから、体育会系な事は……」
“こら、ちゃんと話を合わせろよ”
その時、迅が耳元で小さくつぶやいた言葉に、つばさは、はっと息を飲み込んだ。
戸惑った表情の義弟の頭を、迅が軽く小突く。
まさか、壁のカレンダーを見てるのは、フリだけ?
もしかしたら、迅兄さんは、香織さんにわざと背中を向けようとしてる? まさか、さっき良介さんに親父さんが呼んでるって言ったのも、嘘なんじゃ……。
やっぱり、迅兄さんは香織さんを疑ってる……。




