第19話 迅の検証~毒物混入事件
2日後の木曜日 午前11時25分
「あっ、これは新発売の激辛唐がらしバター風味ヌードル!」
T大近くの回転寿司屋で、つばさは、出されたカップ麺のラベルを見るや否や、最上級の親愛の瞳をカウンターの向こうの寿司職人 ― 岬良介 ― に向けた。
「また、昼飯に文句つけられたら、こっちだってたまんないからな」
ぶっきらぼうに、そう言ったものの、幸せそうに麺をほおばる少年に、良介はまんざらでもない表情をする。
「それはそうと、いつも、お前にコバンザメみたいにくっついてる、姉ちゃんは今日は一緒じゃないのかよ」
「くるみは学校! 僕と違って、義務教育中だもん。警察の事情聴取も延期になったし、あんまり休むとまずいでしょ……にしても、また、カップ麺か。何回も言うようだけど、ここって、回転寿司屋だよね」
「テメェも、一応は義務教育中だろう。それに、もう、ここで寿司屋はやらねぇんだ。あんな事件が起こった後じゃ、お客だって来やしない。今週末にはもう、この店はたたむ予定だよ」
すると、少し離れたテーブル席で、週刊誌を読みふけっていた迅が、やっと顔をあげた。
「店は、やっぱり閉めるのか。寿司屋は、まだ、続けるつもりなんだろ」
「どうなんだか。親父が適当な場所を探してるけど……いずれにしても、今回の事件がきっちりしない間は寿司屋どころの話じゃないし」
それもそうだなと、迅は思う。それに、良介自身も、まだ毒物混入事件の容疑者であるわけだし……。
ばさりと手にしていた週刊誌をテーブルに置いた迅に、良介は、
「珍しいなー。迅が山岳雑誌ならまだしも、そんな下世話な週刊誌を読むとは思わなかった」
「そうか? 意外とおもしろいぞ」
人の悪い笑みを浮かべて、迅が投げてよこした週刊誌を、つばさが、すかさずキャッチする。
「何がおもしろいもんか。これって、ここで起こった事件を興味本位で色々書き立ててるだけじゃん」
“特集! T大、バイオリニスト毒物混入事件”名門大学に渦巻く愛憎劇。過度の受験戦争に蝕まれたエリートたちの歪んだ心理。”
その記事は、万引依存症の女子大生と優秀なバイオリニストの関係を、Sさんとか、Y君とかの微妙な名前の伏せ方をして、一見は、個人の人権を尊重し、周辺の取材を念入りに行った上で書かれた物のように思われた。が、それらはどれもこれも、好き勝手で悪意に満ちた推測にすぎなかった。
「そう言うなよ。つばさ、お前の事にも触れてあるんだから」
迅は、つばさのそばまで来ると、週刊誌の記事の“その部分”を指差し、読み上げた。
“この事件の根底には、能力重視に偏ったT大学の教育方針にも問題があるのではないだろうか。例えば、被害者Y君と同じバイオリン学科には、若干13歳の天才少年が在籍しているが、まだ、精神的に大学生とはいえない少年をその能力だけで、大学生と認めていいものなのだろうか”
「余計なお世話。精神的に幼くて悪かったね! それに何でこの事が今回の“毒物混入事件”と関係があるんだよ」
「まぁ、諦めるんだな。マスコミにとっちゃ、天才少年なんていうのは、記事にするには、おあつらえ向きのおもしろい材料なんだから」
あーあと、つばさは、何か悪態をついてやろうかと思ったが、今日、ここに集まった目的は、週刊誌の品評会ではないのだ。
「それはそうと、迅兄さん、昨日は確か“毒物混入事件を終わりにする日”だったよね。それなのに、今日になっても、まだ、犯人が挙がっていないっていうのはどういうわけ」
「昨日は用があったんだ。だから、それに関しては、これから方をつけるつもりだけど」
きっぱりと、そう言い切った義兄に、“また、大きく出たなぁ”と、つばさは、呆れたような眼を向ける。
「なら、さっさと、犯人は誰だか教えてよ。僕はもういい加減に、今の状況が嫌になってきてるんだから」
「つばさ、それって、人に物を尋ねる態度じゃないな。だから、お前は、週刊誌に“精神的に大学生とはいえない”なんて、書かれてしまうんだよ」
迅は、諭すような声音でそう言ってから、
「物には順番ってもんがあるんだ。犯人を特定するにしても、その状況や動機を明らかにする事から始めるのが、筋ってもんだろ」
すると、良介が口を挟んできた。
「なら、迅、お前は、その筋ってやつをきっちりと通す事ができるのか」
迅は平然と笑みを浮かべて、
「それには、まず、あの“打ち上げパーティ”に参加していた者の名前を挙げてみないと」
「パーティの参加者?」
「山根 昭の食べた寿司へ猛毒のアジ化ナトリウムを混入させた事件の容疑者は、パーティに参加していた者に限られているんだ。まずは、その一人一人の検証から始めてみるっていうのはどうだ?」
日曜日に、今、迅たちがいる回転寿司屋で行われた、音楽科優勝者コンサートの打ち上げパーティに出席した人間は、闇雲 つばさ、闇 雲くるみ、坂下 由貴、藤野 香織、主催者の山根 昭と、寿司職人の岬 良介を加えて全部で6人。
と、迅がそこまで言った時、つばさが不本意そうな声を出した。
「ちょっと待ってよ。欠席だったけど、招待客には迅兄さんもいたんでしょ? 事前の情報を知っているって意味では、迅兄さんだって、容疑者リストに入れるべきだよ」
「容疑者? だって俺はあの日は山に……」
と、一寸、口ごもったものの、迅は“まぁ、いいか”と、言葉を続けた。
「例えば、坂下 由貴が犯人だったとして……」
迅は、義弟を指差し、
「つばさ、その動機は何だったと思う?」
「警察の立場から言ってみれば、“彼女が購買部で万引きをした時に、昭さんに撮られた現場写真の事を恨んで”じゃないの」
白々とした口調で答える義弟に、迅は質問を続ける。
「正しくは、現場写真を撮ったのは、藤野なんだけどな。昭がその映像が入った携帯電話の話を坂下にした事は確かなんだが。まあ、それはいいとして、仮につばさが言った動機が引き金になったとして、坂下はどのようにして、猛毒のアジ化ナトリウムを昭の寿司に混入させたんだ?」
「……昭さんが食べる寿司に入れてくれって、彼女が良介さんに渡したガラス瓶。その中に事前にアジ化ナトリウムを入れておいたと、言いたいところだけど、あの中身は“カニの粉”だったんだもんなー。それに、それじゃ、良介さんが由貴さんの共犯者って事になってしまうし」
つばさは、ぎろりと睨みつけてくる良介の視線を軽くいなしてから、言葉を続けた。
「でなきゃ、他の参加者たちが見てない隙をぬって、昭さんの寿司に毒を入れるしかないじゃん。由貴さんは、T大の薬学部だから、アジ化ナトリウムの入手に関しては、一番容易いだろうし」
「けれども、昭のまわりには常に誰かの目があったはずだ。前にくるみから聞いた当日の席順は、奥から、つばさ、くるみ、坂下、昭、そして藤野で、おまけにカウンターの中の良介は、ぐるりと全部の招待客を見渡せる位置にいる。誰にも見られずに、昭の食べる寿司に毒物を入れれるだけの、そんな隙がいつできるっていうんだ?」
むっつりと黙り込んでしまった、つばさに迅は、
「あの場面じゃ、他人の目が多すぎて坂下だけでなく、参加者全員の誰が毒物混入をやろうとしても、難しかったって事なんだろうけど。そう考えると、良介……」
名指しされた寿司職人は、どきりと目を見開き、
「な、何だよっ! 俺を怪しんでるのかっ。そりゃあ、寿司職人の俺が、一番、寿司に毒物を入れるのは簡単だろうけど、そんな事で犯人だって決め付けられちゃ、たまったもんじゃないぜ!」
「別に決め付けてるわけじゃないけど、ただ、検証するからには、きちんと容疑者の全員をやらないとな。で、良介、お前が犯人だったとして、その動機は……」
「迅、ふざけんなよっ! うちの寿司屋が、あいつの親父が経営してる会社に買収された事を恨んで、この俺が毒を盛ったって、お前はそう言いたいんだろ。だがな、俺はやってないぞ!」
元同級生に、掴みかかってゆきそうな勢いの良介だったが、淡々と彼らの会話に割って入ってきた少年の一言が、それを止めた。
「でも、良介さんが犯人だったら、アジ化ナトリウムの入手経路はどこからだったんだろ? 薬学部の由貴さんと共犯だったと考えても、その場合には、良介さんはわざわざ僕ん家まで来て、自分たちが不利になるような“カニの粉の入ったガラス瓶”の話をしないと思うんだ」
自分を弁明してくれた、つばさに良介は感激する。
「お前……実はいい子だったんだな。“クソ生意気で、いけ好かないガキ”なんて思ってた俺が悪かったよ」
すると、つばさは満面の笑みを浮かべ、
「気にしないで。僕も、良介さんの事、“腕はまあまあだけど、柄は悪い寿司職人”って思ってたから」
「……おぃ」
むっと眉をしかめ、つばさに拳骨を向けようとした良介を止めて、迅が言う。
「まだ、検証中なんだから、おかしな脱線はやめろよ。なら、次は藤野 香織の場合を考えてみようじゃないか。もし、藤野が犯人だったら……? 彼女の場合も動機は明白だよな」
「リバールの弟子の座を昭さんに奪われたから」
つばさの、答えに迅は、こくりと一つ首を縦に振った。すると、良介が言葉を挟んできた。
「まさか、香織さんと薬学部の由貴さんが共犯だったなんて事はないよなぁ」
「あっ、でも、それって、けっこう意外な展開! 昭さんを取り合ってると思わせておいて、実はその二人が影で手を組んでたなんてね」
また、脱線しそうな義弟と寿司職人の会話を、迅が再び軌道にもどす。
「つばさ、面白がって話を進めるんじゃない。まあ、毒物の入手方法については、前につばさにも言ったと思うが、薬学部の坂下 由貴と共謀しなくとも、藤野の実家が材木問屋だって事から、彼女にとって、アジ化ナトリウムの入手はそれほど困難ではないんだよ。それより、俺が一番、気にしてるのは、前にも言ったように、犯人が、それをどのタイミングでどうやって、昭に服毒させたかって事なんだ」
「そういえば、迅……」
神妙な声で良介が言う。
「 “桐沢 迅”の検証をまだ、やってなかったじゃん。話を元に戻すようだが、医学部のお前なら、毒物の入手は簡単だよな。なら、お前が犯人として動機は何だ? やっぱり、由貴さんを昭に盗られそうになったからか」
人の悪い笑みを浮かべたが、その後の迅の行動を予測していたかのように、良介はすばやく身構え、彼の出方を見た。だが、てっきり、血相変えて殴りかかってくると思いきや、
「俺は、坂下 由貴が昭とつき合ってたって、ちっとも構いやしない。良介、お前とだってだ。ただ……前に言った事があると思うが」
「前に? ああ、あの打ち上げパーティの前の事か」
打ち上げパーティの前に……?
つばさは、良介の台詞にはっと、香織のマンションで聞いた事柄を思い出した。
確か、香織さんは、こう言ってた。
“あの日、私は見たのよ。あの事件が起こる前に、回転寿司屋の裏で、山に戻っているはずの迅さんが、良介さんと会ってるところを。人目を忍ぶみたいに、ひそひそと話し込んで、二人の様子はすごく怪しかったわ”
つばさの当惑を感じもしないで、迅は良介との会話を続ける。
「俺が言いたいのは、あの時、お前に伝えたように、坂下の万引依存症にかこつけて彼女を惑わすのだけは止めろ! それだけは、俺は我慢がならないって事だよ」
義兄の言葉に、つばさは少し気分が楽になった。そういう理由で迅が東京に居残っていたのなら、藤野 香織が言っていた、迅が良介をそそのかして、昭の寿司にアジ化ナトリウムを入れさせたって説は、かなり、信憑性が薄れてくる。
「だったらさあ……」
だが、つばさが次の一言を口に出そうとした時、
ちりんちりんと扉に備えられた鈴の音とともに、回転寿司屋の入り口が開いた。
「あれっ、香織さん?」
何で ― 香織さん ― が、ここに?
彼女のマンションで聞いた話では、今日は、オーディションを受けるためにウィーンに出発する日じゃなかったっけ。
「何で……」
ブランド物のワインレッドのジャケットをさりげなく着こなした、藤野 香織の外見は、いつもと変わらず、お嬢様然としていた。
だが、回転寿司屋に集まった面々をぐるりと見渡したその表情は、半分戸惑い、半分憤っているようにさえ見えた。
香織は、もう一度、自分と同じように戸惑った様子のつばさをちらりと見てから、その横にいた迅と、一瞬、睨めつけ合う。それから、視線をカウンターにいる良介に移したところで、
「ちょっと、こっちへ来てよ」
憮然とした様子で、彼を店の奥へと引っ張っていった。




