居場所
この作品は東方projectの二次創作となります。苦手な方は戻られることをお勧めします。
また、この作品は『閑散』の続編に近い物語です。出来ればそちらをお読み頂いてから読了頂ければ幸いです。
1
諏訪子様は大変にご立腹だった。それは目に見えて普段と様子が違うという訳では無かったが、ずっと一緒に暮らしてきたからこそ分かる僅かな感情の歪みである。その歪みは間違いなく怒りを示すもので、勘違いでなければ、それは私へと向けられていた。言葉こそ交わさずとも、それくらいなら私にも感じ取ることが出来る。
何か私は粗相をしてしまったのだろうか。……いや、今日もいつもと変わらない一日だった。炊事や洗濯に、境内の掃除。今日は里に降りて若干の勧誘紛いこそしたものの、それもこの幻想郷に来てからは、大して珍しい行事でもない。いつもと変わらない一日。その一日ももう数刻でお終いとなるにも関わらず、諏訪子様の機嫌を損ねた原因は、何ら思い浮かばなかった。
しかしこのまま言葉を交わすこともなく就寝するのは気が引ける。守矢神社は神が二柱に人間が一人の三人で生活をしているが、その内の一人、神奈子様は山の重鎮と親睦会という名の宴会に出席している。きっと帰ってこられるのは明朝、もしも度が過ぎるようなら、昼を過ぎることも考えられる。つまり、私は少なくとも明日までは諏訪子様と二人きりな訳で、今の雰囲気のままそれまで耐えることはあまりに辛い。そしてそれを解消しようにも原因が見つからないのだから、最早直接諏訪子様に聞くしか方法はないだろう。
正直、諏訪子様とこのような話をするのは苦手だ。日頃は陽気でよく笑い、掴みどころこそないものの楽しく過ごすことが出来る方だが、その掴みどころの無さから、何が感情を害したのかが予測出来ないのだ。怒られても結局何が言いたかったのかがわからない時も多く、その時には大抵、諏訪子様の機嫌は中々良くならない。きっと自分で原因を探って改善しなさいという意を込めているのだろうが、あまりに曖昧模糊すぎて、困っているのも事実だ。その点、神奈子様は意固地で少し融通の利かない所はあるが、至らない点があればはっきりと仰られる。神に仕える巫女として、その神の言は遵守すべき絶対の存在だ。それが揺るぎない命令の形なのだから、言ってしまえば従う方も楽である。
「……早苗」
静寂は、思いもよらず諏訪子様から破られた。多くを隠す諏訪子様から考えれば、絶対に有り得ない行動である。一瞬、機嫌が良くなったのかとも思ったが、そんなことは一切なく、目は全く笑っていなかった。
「そんなに堅くならなくても良いよ。それより、少しこっちへきなさい」
どうにも不思議な感覚だった。怒っているような雰囲気を感じるのに、声色はどこまでも優しい。いつか昔に聞いたことがあるようなその声色は、私の緊張を幾許か取り除いてくれた。
「そう、いい子だね。ほらあっちをむいて、そこに座りなさい」
何をされるのかと僅か身構えたが、私にとって神の言は絶対。小首を傾げたいのを我慢して、言われた通りに反対を向いて正座をする。
諏訪子様は声を出すこともなく、私の頭を撫で始めた。暖かな手の感触が髪越しに伝わってきて、心地が良い。その感触に身を任せて、私は瞼を閉じた。何故か、先程までの不安感はどこかに消え去っている。
暫くはその感触が続いていたが、ふと手が離れたかと思えば諏訪子様はどこからか櫛を取り出していて、私の髪を梳き始めた。その手や息遣いから感じ取れるものに、怒りという感情は含まれない。言葉すら交わしてはいないが、何とも和やかな雰囲気に包まれている。
櫛が髪を擦る音を聞きながら、ふと遠き日のことを思い出していた。まだ守矢神社が幻想郷に入る前のこと。この地では外の世界と言われる場所での出来事だ。
私はこうやって髪を梳かれるのが好きだった。朝起きた時、どこかに出掛ける時、時には夜寝る前にだって、諏訪子様はいつでも私の髪を梳いてくれた。今みたいに言葉はなく、瞼を閉じて髪の擦れる音を聞く数分間。それが好きで好きで堪らず、私からお願いしたことも何回もあった。思い出せる限り、諏訪子様もそれを楽しんでいるというか、喜んでいたように思う。
それがいつからだろうか。身の回りのことは全て一人でこなせるようになり、年齢を重ねるにつれて、巫女としての仕事も増えていった。そうなれば髪を梳くなんてことをわざわざ頼むことは億劫で、それに自分が仕えるべき神様にそれをさせるなんて、という思いから、髪も自分で整えるようになった。それはもう何年前の話だろうか。
幼かった私の楽しみは、髪を梳かれるだけでは終わりではなかった。諏訪子様は私の髪を梳いた後に必ず、後ろからぎゅうっと抱きしめてくれるのだ。一人では絶対に得られない包容感。背中一杯に感じる人の温もり。そして耳元で、いつも同じ一言を囁いてくれる。『元気に帰っておいで』と。その一言で、私は確かな自分の居場所を感じていたのだ。寧ろ、その居場所を与えてくれるその時間全てが好きだったのかもしれない。そして案の定、私は髪を梳かれながら、抱きしめられ、その一言を聞けることを楽しみにしている。
「あっ……」
しかし私の期待に反して、手の温もりはそれ以上を与えることなく離れていった。思っていた以上に、私は抱擁に期待をしていたらしい。思わず声が漏れてしまい、いつもの締め括りがないからか、何ともやるせない気分にさせられる。無意識の内に、抱き締めてもらえると思っていたからだろうか。
「今日はこれでお終い。きっと早苗は最後の言葉が欲しかったんだろうけど、今の早苗にはそれを言ってあげることは出来ない。どうしてか、わかる?」
諏訪子様は私の前に回ってちょこんと胡坐をかくと、柔らかな笑顔を浮かべながらそう聞いてきた。雰囲気こそ良くなったものの、今までと変わりなく質問は的を射ない。というよりも聞いていることはわかるのだが、その的が広すぎて絞りきれないのだ。それでも尚、絞り込んだ答えを望まれるのだから、やはり困ってしまう。
「……そうだね。早苗は博麗神社に行って修行してきてらっしゃい」
「博麗神社に……ですか?」
「どうしたんだい? 何か不満でも?」
「お言葉ではありますが、霊力の高さなど個人のスキルを除けば、霊夢には巫女としての構えも力も不足していると思います。一応博麗神社にもうちの分社がある訳ですし、寧ろ私が修行に行くのではなく、うちに修行に来てもらうくらいの方が良いのではないかと思うのですが」
「あぁ、やっぱり早苗は変わったね。神奈子に任しておいたのが間違いだったのか、それとも単に私好みに育たなかっただけなのか……。まぁなんにせよ、いい機会だ。霊夢を自分よりも下だと思うなら、骨抜きと教育がてら、博麗神社に行ってらっしゃいな。今から」
「今から?」
驚く私に、諏訪子様は満足そうに笑い声を上げた。一頻り笑った後、有無を言わさぬ堂々とした口調で言い切る。
「あぁ、もちろん!」
と。
どんな言葉でも、神様の言は絶対だ。その言葉に反駁も出来ず、博麗神社に行く為にいそいそと準備を始めた。ただし髪だけは、自分で整える以上に綺麗に纏められていた。
2
夜も深まり、就寝していても決しておかしくはない時間である。しかし急ぎ早に辿り着いた博麗神社にはまだ明かりが灯っており、安心した反面、幾許かの無念さが浮かぶが、そんなことを思っていても始まらないと意を決して声を上げた。
「夜分遅く済みません!」
辺りが静まり返る中、私の声はやけに大きく感じられた。三日月から降り頻る光が微かに照らす境内には、何一つ動く気配はない。また家屋からも反応はなく、徐々に孤独感に襲われる。寂しさが、一気に押し寄せてくる。
「こんな夜分遅くに、わざわざ声をかける奴を初めて見たわ。大概、勝手に上り込んでくるか勝手に上り込んでいるかのどちらかだから」
もう一度声をかけるか、それとも諦めて帰路につくかで悩んでいた最中、いきなり開かれた障子に意表を突かれた。思わず怯んでいると、霊夢は面倒臭そうに障子に縋り、欠伸をしている。
「それで? こんな夜に何の用なの?」
「あ、あぁ済みません。少し今日は……」
言葉が続かなかった。諏訪子様の言われた通りに行動してきた訳だが、いざ霊夢を目の前にすると『修行させてくれ』とは言いにくい。それも霊夢からしてみれば何の取掛かりもなくいきなり修行を申し込まれる訳で、それは迷惑極まりないことである。仮に霊夢が守矢神社に来ていきなり修行を申し込もうものなら、中々二つ返事に了承は出来ない。断るにも準備をするにも、時間は必要だ。
「……面倒臭いわね。どうせ神様に無茶でも言われたんでしょ。まぁ立ち話もあれだから、上がっていきなさいな」
霊夢は最後まで言い切る前に障子から手を放し、部屋の奥へと消えていった。開け放たれたままの障子からは行燈か何かの暖かに揺れる灯りが漏れていて、暗闇に立つ私には、それがとても魅力的に思えた。その魅力には抗えず、私は履物を脱いで光溢れる室内へと上がる。
「適当にその辺に座っときなさい。お茶を淹れてくるから。話はそれからでもいいでしょ」
やはり霊夢は最後まで言わずに、喋りながら奥の廊下へと消えていった。
質素な部屋の中心には円形の卓袱台が置かれており、一人で晩酌でもしていたのだろう、酒の瓶と徳利、それと少し大きめの御猪口が置いてある。部屋にも芳醇な日本酒の香りが漂っていた。
とりあえず、霊夢が座っていたであろう座布団から机を挟んだ場所に腰を降ろした。部屋を見渡しても箪笥などの最低限の家財しか見当たらず、その暮らしぶりが感じ取れる。
……私は霊夢が暢気で、無精であるのだと思っていた。巫女という家業を疎かにするのだから、家事もいい加減にやっているのだろうと高を括っていた。しかし、生活感の溢れるこの部屋を見る限り、それは私の勝手な思い込みである。小さな部屋とはいえ掃除は行き届いているし、棚に並べられた小物を見る限り、よく片付けがされてある。几帳面とまではいかないが、よく手の入れられた部屋、という印象だった。
好奇心が先に立って、失礼なことと思いながらもあちらこちらと部屋を見渡している内に、盆を手に持った霊夢が部屋へと入ってきた。
「座布団くらい、勝手に出せば良かったのに」
霊夢は湯呑が乗せられた盆を机に置き、押入れを開いて座布団を取り出す。ちらと見えたその中には、一人暮らしとは思えぬ量の座布団やらが仕舞ってあり、博麗神社の来客の多さを窺わせた。多くは魑魅魍魎だろうが、それにしてもこの博麗神社という場所は人気がある。それは、守矢神社とは比べ物にならない程に。
出された座布団は特に来客用という訳でもなく、霊夢と同じ無地の物だった。強いて言えば、使用頻度からかかさ高が僅か高いくらいのもので、材質などに違いは見えない。座り心地も、他の座布団と差異はなかった。全く普通の座布団である。
「こんな時間に押し掛けたのに、普通に対応なさるんですね」
「そうね。来客の時間としては、まだ早い方になるんじゃないかしら。普段だったら子の刻とか、丑の刻に起こされることもあるし。もう慣れたわ」
霊夢は徳利を傾け、猪口を酒で満たしていく。酌をしようかとも思ったが、気付いた時には注ぐ途中だった為に断念した。
その酒もたったの一口であっという間に空になる。しかし飲み方が豪快という訳でもなく、静かに飲んでいる風に見えた。しかし左手の徳利を離すこともなくすぐに注いでいるところを見るに、日頃から相当の速さで呑んでいるに違いない。霊夢が酒豪であることは知ってはいたが、いざ目の前で実際に見てみれば、私には真似の出来ないことだと感じた。
「あんたもお茶じゃなくて、酒の方が良かったかしら?」
「いえ、私は下戸ですので、あまりお酒は……」
「ふぅん、この幻想郷でお酒が呑めないなんて、珍しいというか何というか。まぁどうでもいいけど」
霊夢は二杯目も一口で空けて、注ごうとすれば徳利は空らしく、滴がいくつか落ちただけであった。霊夢は酒瓶を手に取ったものの、幾許か悩んだ後に瓶の栓を締直し、裾に置く。そして盆に乗っていたもう一つのお茶を取ると、ちびりと口にした。
「で、あんたはこれからどうするの?」
「あー、えーと……実は諏訪子様に、博麗神社で修行してこいと言われていまして」
「修行? 修行ならあんたんとこで私を修行させるなんて言い出す方がよっぽど腑に落ちるんだけど」
「諏訪子様の仰ることは、私にも時々……」
「そうね。人外の発言には意味が分からないものが多いから。きっと諏訪子は黄昏時なのね」
話の大筋では会話が成立しているはずなのだが、この不調和の感覚はなんなのだろう。霊夢は諏訪子様とは比較にならないくらい、掴みどころがない。黄昏時とは、何が言いたいのだろうか。
「まぁいいわ。なら今夜は泊っていきなさい。で、明日は里に行って適当に何かやるつもりだから、付いて来たら良いわ。それくらいやったら諏訪子も文句はないでしょう」
霊夢は欠伸を一つ漏らしながら、盆に食器を置いて廊下へと消えていった。片付けを手伝うとは申し出たが、ひらひらと手を振られて断られてしまった。手持無沙汰である私は、再び部屋を見回す。
そこかしこから使い古された雰囲気の漂う博麗神社は、守矢神社よりもどこか厳かである気がする。無論、神のいないこの神社に厳かも何もないのだが、どこか感じる気の流れは、年月だけの積み重ねだけではないのだろう。神社然り霊夢然り、この場所は何とも言えぬ不思議な結界に覆われているような、そんな錯覚を覚えた。
そうしている内に、霊夢は片付けを終えたのか居間へと戻ってきて、寝室へと案内してくれた。案内と言っても隣の部屋である為にほとんど移動することは無く、ただ襖を開いただけであるが。外見からしてみても霊夢の生活している家屋は小さいのだが、やはり中で実際に生活してみれば、相当狭いことがわかる。
「ここが寝室だから。布団は何組かあるから、適当に出して勝手に寝て頂戴。別に朝早くからすることもないし、自由にやってくれていいから」
霊夢は自分の寝具を取り出しながら、その隣の押入れを顎で指した。中には綺麗に畳まれた布団が三組程あって、それぞれ一組ずつを取り出す。布団からは微かに日干しした匂いが漂い、きちんと整理されているようだった。
「布団とか、きちんと干されてるんですね」
「それはうちで宴会とかした時に妖夢とか妖夢とかが寝る布団。あいつは律儀だから、後で片付けをしてくれるの。だからその辺りは綺麗になっているはずよ」
「なるほど」
一人で勝手に納得してしまった。確かに座布団や寝具の数が多すぎるとは思ったが、博麗神社は宴会の会場となることを考えればそれも合点がいく。私が参加した時には境内で大きくやることしかなかったが、親しい者が集まって行う時には、室内で行うのだろう。そして、酔い潰れた者や帰宅を面倒臭がる者をここで寝かすと、そういう話なのだ。以前、山の妖怪を招いて守矢神社で宴会を開いたこともあったが、実際にそういう者が多くて困ったことを覚えている。いずれ守矢神社にも、来客用の布団を何組か備えておこうと思った。
「さて、寝る準備が出来たなら、灯りを消すわよ」
「大丈夫です。お願いします」
いきなり修行をして来いと言われた時にはどうなることかとは思ったが、何とか一日の終わりを迎えることが出来た。
3
寝付きが悪かった訳でもなく、睡眠時間が短かった訳でもないのだが、なぜか起きるのが遅れてしまった。いつもなら目覚ましなど使わずとも日が昇る前には目が覚めるはずなのに。それもいつもとはまるっきり違う環境なのだから、目が覚めると確信していたのだが。……その確信がいけなかったのだろうか。
障子から朝日が差し込む中、横を見れば霊夢はもう布団にはいなかった。湿気飛ばしの為か布団はそのまま置いてあったが、それに触れてみれば既に冷え切っており、霊夢が起きてから時間が過ぎていることが窺える。一応修行に来た身でありながら寝坊するなどあまり感心出来ないが、目が覚めなかったものは仕方がない。溜息を一つ吐いてから、私は布団から抜け出した。
居間にも霊夢の姿はなかったが、きっと時間からして台所にいるのだろうと予測を付けた。昨日の霊夢が通っていた廊下を歩き、突き当りまで歩いてみればやはりそこは土間になっていて、ひなびた釜戸からはぱちぱちと火が爆ぜる音が聞こえてくる。どうやら米を炊いているらしく、台所には独特の甘い香りが広がっていた。
「あぁ早苗、おはよう」
「おはようございます。すみません、寝坊してしまって」
「良いのよ。というよりも早いくらいよ。魔理沙なんて朝ご飯が出来ても起きて来ないのに。まぁ妖夢だったら私が起きたら朝ご飯が出来ているのだけど」
思い通りの味付けに出来たのだろう、味噌汁の味見をした霊夢は、僅かに頷いた。
「そうね、大概獣は礼儀が正しいわね。正しいというかこき使われてるだけだけど。狐とか犬とか。でも猫は駄目ね。てんで自由で勝手」
霊夢は盆に味噌汁などを注いだお椀やらを並べて、私に手渡した。私は来た廊下を帰り、卓袱台の上にそれらを配膳する。霊夢は御櫃を抱えて部屋に入ってきて、不躾にも襖を足で閉めた。その辺りは何とも霊夢らしい。
「ま、質素だけど何も食べないよりかはましでしょう」
献立はご飯に味噌汁、それに大根菜の塩漬けだけであった。守矢神社ならばこれに魚の塩焼きが付くくらいだが、さして大きな違いはない。霊夢が『頂きます』と合掌したので、私も合わせて合掌した。
味は想像した以上のものだった。料理すらしないような想像をしていたが、考えてみれば一人暮らしをしているのだからこれくらいは出来て当然である。それに、この塩加減からすればもしかすれば、料理は相当に腕が立つのかもしれない。
「とっても美味しいです」
「そう、それは何より。まぁこれくらいの物しか出せないんだけどね」
出された大根菜や味噌汁の実が、僅か私の方が多いのを見て、一応私はお客様なのだと実感する。
「一応修行という名目だし、食べ終わったら境内の掃除をよろしくね。それが終わったら里に下りてみましょう」
霊夢は無表情に味噌汁を啜っていた。
4
改めて博麗神社を見てみれば、全体の面積自体は守矢神社とあまり差はないことがわかる。神社という体を成しているので設備もほとんど変わりなく、掃除は滞りなく進んでいた。慣れない環境ではあったが、いつもやっていることをしているだけなので、大して疲れるということもない。ただ、霊夢があまり細目に掃除をしないのか、所々にごみや汚れが溜まっていて、それに時間を取られたのも事実だが。やはり霊夢は、無精なところは無精なのである。
その霊夢は掃除を私に丸投げして、暢気に縁側に座っている。それを気にすれば多少苛立ちはするものの、今の私は修行をさせてもらっているという立場ではあるし、何よりも常日頃から神様がのんびり眺める横で掃除をしていることもあって、さしての苛立ちは覚えなかった。
「お疲れ様」
掃除も終わり、霊夢の所へと向かうとその一言をかけられた。いつもなら絶対にかけられることのないその言葉に懐かしさを感じながら、私は霊夢の横に腰掛ける。いつの間にか、霊夢の横には二つの湯呑が置かれ、淹れ立てと言わんばかりに湯気が立ち昇っていた。それを勧められて、一口啜ってみればやはり、それはとても熱い。
「さて、このお茶を飲んだら出発しましょうか」
先に飲み始めていたのだろう。霊夢は空になった湯呑を盆において、部屋の中へと消えて行く。そしてすぐに戻ってきたその手には、櫛が握られていた。
何の言葉もかけられることはなく、霊夢は私の髪に手をかける。自分でやる、とは言ってみたが、霊夢はまぁまぁとなだめるだけで、手を止めることはなかった。
諏訪子様とは違う手の動き。梳く順序や回数、櫛の角度それぞれが諏訪子様とは微妙に異なり、不安にも似た感情が湧き出してくる。霊夢はどちらかと言えば乱暴で、櫛が引っ掛かった時にも少しならば強引に引き切るようだった。しかしその手には力強さがあって、このまま委ねても良いかもしれないという気になってくる。そしてその感情は不安を薄め、安心感を生み出していた。単に髪を梳くことだけならば、諏訪子様の方が上手であろう。だが霊夢が下手という訳ではなく、どちらも心地が良いものである。
「はい、これで何とか整ったでしょう」
霊夢はそういうと、視点をずらして整い具合を確認しているようだった。そしてまずまずといった風に頷いてから、また部屋へと戻ろうとする。
「霊夢さんの髪も梳かせて下さい」
「早苗が? ……まぁ偶には人にやってもらうのも、良いかもしれないわね」
霊夢は私の横に腰を降ろすと、握っていた櫛を私に手渡す。櫛は竹に細工をした非常に簡素な物で、使い込んでいるのか少し色あせている。よく手の入れられた櫛は指触りがよく、それを数回撫でてから霊夢の髪を手に取った。
霊夢の髪は吸い込まれそうなほど深い黒で、それを腰辺りまで伸ばしている。癖は全くなく、真っ直ぐに伸びた髪はとても綺麗だ。櫛を入れても引っ掛かることはなく、梳けば順々に整っていく。同性からしてみても、羨ましいまでに綺麗な髪だった。
「とても綺麗な御髪ですね」
「そうかしら。特に手入れはしてないんだけど」
気恥ずかしいのか、霊夢は目線を下げて胸元に零れた髪先を指で弄っている。
「……他人に髪を梳いてもらうのは久しぶりね。それに早苗は、梳き方もとっても優しいのね」
「いえ、私も中々梳いてもらうことはありませんし。それに優しいも何も、霊夢さんの髪は絡まってないですから、ただ櫛を通しているだけですし」
その言葉に返事はなく、私が終わったことを告げれば霊夢は『ありがとう』と早口に言って、櫛を戻しに行った。私はその背中に、どこか寂しさを見た気がした。
5
霊夢が里に降りたことに、明確な理由はなかった。何か頼まれたとか何か不穏な気配がするとか。そんな特別なことは一切なく、ただ前日に何となく行こうと思い立ったらしい。霊夢の仕事ぶりは予測していたものの、その適当さには辟易してしまう。いくら博麗神社ですることが無いとはいえ、もう少し目的意識くらいは持って欲しいものだ。何も目的もなくただ何となく行動するなんて、私には考えることも出来ない。
案の定、里まで来ても何も起こっておらず、ただ町中を歩くことしかしていない。特に里の人間と話すこともなく、買い物などの私事をする訳でもなく。ただ本当にぶらぶらと歩くだけというのは、無意味さしか感じることは出来なかった。もしも私が守矢神社にいたならば、やりたいことならいくらでも思い浮かぶのに。修行という名目があるだけでこんなにも行動に制限がかかるとは、夢にも思わなかった。
「やぁ、博麗の。それに守矢のが一緒とは珍しい。今日は一体どうしたんだ?」
里の中央にある開けた場所に差し掛かった時に、後ろから不意に声をかけられた。振り向けば、里で寺子屋を開いている上白沢慧音が微笑んでいる。どうやら子供たちを遊ばせている最中のようで、彼女の周りには沢山の子供たちが戯れていた。
「別に、何となく何かがどうにかなりそうだったから、何となく来てみただけよ。それだけ」
「そうかそうか。何事もないなら良いのだが。大概霊夢が動くときには、何かの凶兆となるからな」
「ちょっと、人のことを厄神やら貧乏神と一緒にしないで貰えるかしら。確かに何かが起こることが多いけど、それはそれでこっちも迷惑してるんだから」
「はは、すまんすまん。確かに迷惑をかけるが、博麗のが仕事をしているからこっちも安心していられるんだ。どうにか堪えてくれないか」
「あんたはあの火の鳥と仲が良いんだから、あれに里の護衛を頼めば良いのに。あいつなら大丈夫だから」
「確かにそれも考えてはいるんだが……。どうにも本人が引き受けてくれなくてな。また里の人間にも不信感を抱く奴がいるし。困ったものだ」
それからも霊夢は慧音と世間話から困りごとの相談まで様々なことを話していた。傍から話を聞く限り、慧音としては霊夢に物事を任せたいのだがどうやらそれも難しく、一任は出来ないらしい。また霊夢にしてもそれをやるのは面倒臭いらしく、今くらいの仕事が丁度良いという一点張りだった。お互いの主張はともかく、二人の仲はそこそこ良いように思え、霊夢も人脈を築いていることを窺わせる。
しかし、霊夢と慧音が話し込み始めた辺りから、その辺りにいたはずの子供たちが少し離れた場所で何かを恐れるようにしてこちらをちらちらと確認し始めた。最初は話の邪魔にならないように避けたのかとも思ったが、時間が経つにつれて、それは違うのではないかと疑うようになった。……子供たちの表情には、どこか恐怖が混じっているのだ。明らかに手を止めて、こちらの様子を見ているのが手に取るようにわかる。まるで、何か恐ろしい妖怪でも見るような目で。そしてその目は間違いなく、霊夢を射抜いていた。
「ねぇ、何をそんなに怯えているの?」
私はその恐怖の原因に興味が湧き、数人が固まっている場所に近付いて質問をしてみた。相手は怯えている子供なのだから口すら利いて貰えないかもしれないが、何か少しでも得るものがあれば、という思いだった。
「……お姉ちゃんは、山に出来たっていう神社の巫女さん?」
「そうよ。よく知ってるね」
「お父さんが、物を頼むなら山に出来た神社の巫女さんに頼みなさいって、いつも言ってるの。緑で、巫女の服を着ている人だって」
案外、私や神社の存在は、里に知れ渡っているらしい。まだしがらみも少ないであろう子供にそこまでの信用を得ているとは、少なからず心地の良いものだった。それも子供の中の評判ではなく、親御さん直々の教えであるのだから、尚更だ。
声をかけた時にはがちがちに固まっていた子供たちだったが、私の存在を確認して気が安らいだのか、段々と目に活力が戻ってきた。
「お姉ちゃん、妖怪退治もするの?」
「そうねぇ。する時はする、って感じかな。妖怪退治だけをしている訳ではないんだけどね」
「だったら、あの紅い巫女をどうにかしてよ!」
子供たちの中でも一番の年長であろう男の子が、霊夢の方を指さしてはっきりとそう言った。それはその子だけの意思ではないらしく、周りにいた子供たちも一斉に頷く。いつの間にやら、私の周りにはその場にいた全員の子供が集まっていた。
「……やっぱりみんな、あの紅い巫女を怖がっていたの?」
その場にあった頭の全てが、一斉に頷く。
「どうして?」
「お父さんもお母さんも、あの紅い巫女は信じちゃいけないって言うんだ。妖怪と仲が良いって。悪魔に魂を売っているって。だからあの紅い巫女と仲良くしたら魂が持っていかれちゃうんだって、みんな言ってる」
その男の子の言葉に、その辺りにいた子供が口々に付け足し始めた。里に現れた妖怪と仲が良さそうに話していたとか、目付きが怖いとか、慧音先生に暴力を振るった、とか。その言葉に疑いの念は一切感じられず、子供ならではの純粋な言葉であった。それだけ霊夢が嫌われている事実に、私は驚愕を隠しきれないでいる。
「で、でもあの紅い巫女だって妖怪を退治したりしてるよ? それ以外にも色々してるみたいだし」
「そんなことはないよ! あの巫女は里に来ても何もしないもの。お姉ちゃんは里に来た時には、お家を回ったりしてお仕事してるもん!」
それぞれの口から、霊夢よりも私の方が良いと言葉が放たれる。それは私が今までしてきたことが実った証拠であり、私が幻想郷そのものに馴染んできたという証明でもある。本来それは喜ぶべきことであって、私の、そして守矢神社としての行いが正しかった裏付けとなる事柄だ。
しかし何故だろう。私の心の中は悲しさに満たされ、素直に喜ぶことが出来ない。それどころか申し訳なさが溢れてきて、油断すれば涙が零れそうだった。
「ほら、お前たち。お話は終わったから、先に教室に戻って午後の授業の準備をしておきなさい」
真後ろで放たれた慧音の言葉に、びくりと体が跳ねてしまう。感傷に浸る中、けして小さくはないその声は、私を大いに驚かせた。子供たちは中途半端に返事をして、奥にあった建物へと走っていく。最後の一人が駆け込んだのを見届けてから、慧音は口を開いた。
「子供たちが様々なことを言っていたと思うが、出来れば、聞かなかったことにして欲しい」
「……えぇ。私もあまり聞きたくなかったことを聞いてしまったような気がします」
「里の者も悪気がある訳ではないんだ。ただ霊夢が人間に見えるような仕事をせずに、また同時に貴方が里で信仰を集めるようになれば、あぁなるのは仕方がないことなんだから。ただ、この幻想郷のことを考えれば、あの状況は好ましくない」
慧音は言葉が続かずに口籠った。言い難いことというよりは、その目線が語っているのは、私が語るに値するのかといった様子だ。慧音は私の目をじっと見て、そして大きく息を吸い込んだ。
「……実は私は、貴方たちがこの里で宗教活動を行うのをあまり快く思っていないんだ。今までそういったことは全て博麗神社が取り仕切っていた。それを守矢が横から取るのは、あまり宜しくない」
言葉が切られたが、私が無言を貫いていると慧音は更に言葉を続ける。
「確かに一番悪いのは、修行も巫女としての行いもしない霊夢の方だ。それは私もよくわかっている。そしてこの里に守矢が浸透したのも、貴方の頑張りだということも知っている。そして、それを貶すつもりは毛頭ない。……ただ、貴方たちもこの幻想郷に生きようと考えているのなら。博麗神社の役割というものを考えて貰いたい。里の者たちには、時間がかかっても私が説得するつもりだ。だから、少しだけで良い。里への関与は」
その言葉は、聞こえてきた悲鳴で途切れた。
6
「何事!」
悲鳴を聞いてからの慧音の行動は実に早かった。瞬時に方角を推測し、すぐさま駆け出している。それに続いて、私も悲鳴の方向へと駆けた。
「全く、博麗のが来ると毎回こうなる!」
並んだ私に話しかけてくる慧音は、鬼気迫る表情である。地の利があるからか、場所に見当を付けているのだろう。慧音は曲がり角も迷うことなく突き進んで行く。
長い直線を走り抜けた後、細い路地へと入った場所に悲鳴の原因はあった。立ち尽くす霊夢、その奥には倒れている女性、更にその先には御札で雁字搦めにされている妖怪の姿があった。その妖怪は人の形を模しているものではなく、正しく異形というべき形をしていた。爬虫類を思わせる体からは何本もの棘のような物が突出しており、人間を標的に里に入ったことが容易に想像出来る。
慧音は一瞬止まった後に、倒れている女性に駆け寄ると上半身を抱き上げた。その様子を見るに女性は大した怪我もしておらず、状況はひとまず安心出来るらしい。私は未だ立ち尽くしている霊夢へと近寄る。
……先程の子供が霊夢を怖いと表現していた理由が良く分かった。霊夢は興奮しているのか、目付きは普段とは比べ物にならない程鋭く、まるで滅ぼさんとばかりに、もがき苦しむ妖怪を睨んでいる。何度か妖怪退治を一緒に行ったことはあるが、その雰囲気とは全く違う気を纏った霊夢を見るに、妖怪が彼女の琴線に触れたことは間違いない。仮に今私が霊夢と対峙しているとすれば、確実に降参しているに違いない。最早霊夢は、人間を逸するような殺気を放っていた。
しかし、その張り詰めた空気も、霊夢が溜息を漏らしたことで一変する。殺気は解け、辺りには霊夢らしい暢気な空気が流れ始めた。
霊夢は裾から一本の針を取り出すと、それを妖怪目掛けて投擲する。真っ直ぐに妖怪の額を捉えた針は、その半分を妖怪に埋めたところで勢いを無くし、止まった。それが切掛けになったのか、雁字搦めにしていた御札ははらりと解け、妖怪は自由に動けるようになった。それを見た慧音は警戒し、戦闘の構えを取ったが、それは憂いに終わる。刺さった針に悶絶していた妖怪は、こちらに背を向けて逃げ去って行った。
「霊夢……」
「あー、早苗? 私は疲れたから帰るわ。早苗はもう少ししたら、もう自分の神社に帰って良いわよ。修行はここでお終いね」
霊夢はそう言うと、ふわりと浮き上がって東へと飛んで行った。それを見送れば、腑に落ちない中途半端な感情が残り、どうにも心地が悪い。
ふと慧音を見れば、襲われた女性に肩を貸して立ち上がらせようとしている。女性も腰が抜けているだけなのか、ぎこちないながらも立ち上がることが出来た。それをどこからか見ていたのか、数人の人間が駆け寄っていく。その人間に囲まれた時、女性は初めて笑顔になり、涙を零した。余程怖かったのだろう。足ががくがくと震えている。
「貴方様が、家内を妖怪から救って下さったのですね!」
女性を囲んでいた内の一人が、私に駆け寄って来て開口一番そう言った。私は否定しようとしたが、興奮しているのか私の言葉などは聞こうともしていない。ただただ、私の手を取りそして、褒め称えることを繰り返している。その内に、辺りにいた人間が集まってきて、私を取り囲んだ。襲われていた女性も一人で立てるようになったのか、集団の一人になっていた。ただその女性は複雑な表情をしており、輪の中心には来ようとせずに、端にひっそりと立ち尽くすだけだ。
「いやぁ、流石守矢の巫女様だ。あの全く仕事をしない博麗の巫女とは違いますなぁ!」
「そういえばさっき、博麗の巫女もその辺で見たぞ」
「ってことはあいつは仕事もしないで帰ったのか? 何て無責任な奴なんだ!」
いつの間にか、私を褒め称えていた集団は霊夢を貶し続ける集団へと変わっていた。その流れに逆らうことが出来ずに、私はただ立ち竦んでいる。霊夢はそんな人じゃない。これを解決したのも霊夢。霊夢はこの幻想郷を守っている。そんな言葉が頭には浮かんでくるものの、どうしても発言することは出来なかった。皆が口を揃えて私を誉め、霊夢を貶すその光景は、狂っている集団を見ているようで吐き気がしてくる。私を誉めている。守矢を信仰してくれている。そんな私が望んでいたはずの現実が私を取り巻いているはずなのに、私はこの場から逃げ出したい思いで一杯だった。
「おい、お前も助けて貰ったんだから、お礼を言いなさい」
先程の女性の旦那さんであろう人が、襲われていた女性の手を引いて輪の中心へと引き摺り込んだ。女性とは一瞬目が合ったが、どうにも気不味くなって、目線を下げてしまう。しかし旦那さんはそれに気付かないのか、私の手を強引に取って女性と握手をさせた。女性も場の雰囲気には敵わないらしく、小声ながらも私にお礼を言ってくる。ただ、目線を合わせてくれることは無かった。
集団の背後には慧音の姿があった。その表情は悲しみに満ちていて、腕はわなわなと震えている。民衆を止めたいが、止めることが出来ない。この状況を見て、私は先程の慧音の言葉を理解することが出来た。
霊夢が問題なのは、こういったことなのだ。女性を妖怪から救ったのは霊夢で間違いない。そしてそれに一早く気付いたのも、駆け付けたのも霊夢。それなのに彼女はそれを民衆に説明しようとはしなかった。それどころか身代りに私をこの場に残し、去ってしまったのだ。例え信用の厚い慧音と雖も、証拠のないこの現状で、この騒動は霊夢が解決したのだとは説得出来ないだろう。だからこそ、あんな感情を押し殺したような表情を浮かべることしか出来ないのだ。
どうにも居た堪れなくなって、私は輪を抜けて飛び立った。後ろからはお礼を差し上げるとか様々な声が聞こえていたが、そんなことはどうでも良くて、早く帰りたいという思いで一杯だった。
きっと、この気持ちを静めてくれるのは諏訪子様しかいない。私は本能的にそう思った。
6
守矢神社に着いたのは、正午を過ぎて日が少し傾きかけた頃だった。幸いなことに、帰路には誰に会うこともなく、一人空を飛んで帰っていた。なるべく何も考えないようにしていたのだが、先程貯め込んだ感情が爆発しているのか涙は止まることが無い。里の人の霊夢に対する扱いが悲しかったのか、自分が崇拝されていることの喜びなのか、それとも自分が行ってきたことへの疑念なのかはわからない。しかし涙は流れ続ける訳で、それは未だ、私が人間らしさを残している証拠である気がした。
母屋の障子に手をかけたとき、ふと神奈子様の存在が気にかかった。……きっと、神奈子様は今日の出来事をお喜びになるに違いない。私たちへの信仰の確立、幻想郷への影響力の強化。当初から計画し、実行してきたことが実を結び始めているのだから。それはきっと誰よりも、神奈子様が待ち望んでいたことだろう。
しかしその神奈子様が待ち望んだことは、私にとって苦痛でしかなかった。幾ら神の御言葉で、御意思であるとしても、今となってはそれに付き従うことは出来ない。だが神に逆らうこともまた難しく、出来れば宴会から帰って来ていないことを祈るばかりだった。
一つ息をついて、引き戸を開ける。玄関は特に変わった様子もなく、そして。神奈子様の靴もまだ置かれてはいなかった。その光景に少しばかり胸を撫で下ろす。
「おかえり。早かったね」
諏訪子様は柱の陰からひょっこりと顔を出して、私を出迎えてくれた。その表情は優しい笑顔で、声色もとても落ち着いている。その私を包み込んでくれる存在を確認した瞬間に、私の感情は爆発した。
涙がぼたぼたと流れる。嗚咽が止められない。今になっても喜怒哀楽のどれに当てはまるかすらわからない涙であるが、止めることは不可能だった。諏訪子様も特に理由を聞くこともなくただただ背中を擦ってくれている。それがまた涙を誘って、私は諏訪子様に縋って泣き続けた。
「……落ち着いたかい?」
「……はい。取り乱してしまって、申し訳ありません」
「構わないよ。家族じゃないか」
諏訪子様はもう一度私をぎゅっと抱きしめると、立つように促してくる。それに従って立ち上げれば、奥にある居間へと勧められた。
「お茶を淹れてくるからね」
日頃なら私が雑務をこなさなければならないのだが、今日くらいは、甘えても良いだろう。再び一人になったこの時間は、昂ぶった気を落ち着けるのには丁度良い時間だった。今から何を話すか、これからどうするのか。頭の中がぐちゃぐちゃだった先程とは違い、今はそういったことが整理出来始めている。
「おや、落ち着いたみたいだね」
思いの外早くに、諏訪子様は部屋へと戻ってきた。
「はい。諏訪子様のお蔭です」
「いやいや、私は何もしていないよ」
気を利かしてくれているのか、それとも様子を伺っているのか、諏訪子様は話を切り出そうとはしなかった。……いや、諏訪子様は待っておられるのだろう。昨日今日と私に起こったことについて。私が泣いていた、その理由について語ることを。
「……諏訪子様が仰った通り、博麗神社に行って修行をしてきました」
「どうだったかい? 霊夢は格下だった?」
「どうなんでしょう。当たり障りがない、という表現が良い気がします。掃除をしてない訳じゃない。とはいえ几帳面という訳でもなく。全てが中途半端というか、満たすべき最低ラインといいますか」
「そうだね。私もそんな感じだと思ってる。それで、修行は何をしたの?」
「正直にお話しますと、私がやったことは境内の掃除と里の見回りに付いて行った程度です。特に何かをしてはいないのですが……」
正面に座っている諏訪子様は、変わらぬ笑顔でこちらを眺めている。どこまでも聞き役に徹するような眼差しで、私が言を発するのを待っているようだった。
「……諏訪子様。一体、信仰を集めるとはどのようなことなのでしょう?」
「信仰かい? それは神奈子に付いて回っている早苗の方がよく知っているんじゃない?」
「……確かに、私や神奈子様の考える信仰の形は実を結びつつありました。里での守矢の知名度も上がり、信頼も増えていると感じます。……しかし、それは本当に正しいことなのでしょうか」
「どうなんだろうね。本当に神を信仰することが正しいことなのかは、私にすら判断することは出来ないよ」
そう呟く諏訪子様は一つ溜息を吐いた。その目は私を見ているようでいて、しかし何も見えてはいないように視線は一つも動かない。
神が、神の存在を否定する。私にとってそれは初めての出来事だった。本来神とは人間の目には見えぬ者。しかし神自身は己の存在を感じ、人間に誇示するものである。そうしなければ、神は存在する意味を無くし、消滅してしまうのだ。……幻想郷に来る前は、この守矢神社の二柱もその運命にあった。しかし幻想になるという逆転の発想に助けられ、その存在を示すどころか、実体すら持てるようになったのだ。
その神が、神自身の存在を否定している。正確に言えば否定ではなく困惑しているといった具合だが、問題なのは信仰することを良しとしていないことである。それは自らが無意味であると言っているようなもので、逆にこちらが困惑してしまう。
「本来神は、人間の目には見えない者だ。それは妖怪でも、妖精でも同じ。人間に与える影響こそ違うけど、存在する根拠が無いのがそれらの真実。だからこそ畏怖が生じ、人間をまとめることが出来る。でもそれが実態を持ってしまったら。そしてそれを信仰すれば。それはただの独裁でしかない。仮に私が幻想郷に住む者から厚く信頼されているとすれば、それは私の意思を尊重する集団でしかなくなってしまう」
「お言葉ですが、独裁は善とも悪ともならないものです。むしろ良い方向に向かうことが出来れば、それは喜ぶべきものではないかと思うのですが。それが自らの信仰する神様ならば尚更のこと。人間は迷うことなく、生きることが出来るのでは」
「なら早苗。お前はもうこの神社に必要ない。里にでも下りて、好きに生きなさい」
「い……今、何と?」
「早苗は私には必要ないと言ったんだ。だから、好きに生きなさい」
繰り返された諏訪子様の言葉を、私は未だに理解できないままでいる。まさか自らが仕える神に必要ないと言われるとは思ってもみなかった。果たしてどのような態度を取って良いものか、迷う。冷静に振る舞えば良いのか、取り乱せば良いのか、はたまた反駁か素直に出て行くのか。それを考えることすら出来ない程私は混乱していた。
そんな私を後目に、諏訪子様は部屋を出られた。居間にはただ私だけが取り残される。
どうすれば良いのだろうと迷う一方で、心は悲しみに塗れていく。しかしその悲しみは漠然としすぎていて、何とも曖昧である。何かが抜け落ちてしまった喪失感。そう例えるのが近いだろうか。咎める者がいなくなった静かな部屋で、私はその感情をまじまじと見つめなければならなかった。
……そう、この感情は昨晩に経験したばかりの感情だ。髪を梳かれていて、最後の抱擁や言葉が無かった寂しさ。それに酷似している。まるで自分の居場所がなくなるような、虚しさ。私は神様に依存していて、それで、その依存がなくなったから悲しくなっている。そう考えるのが順当だろうか。
「早苗、こっちに来なさい」
振り向いた先には、諏訪子様が正座をして座っている。その手には櫛が握られ、表情には笑顔があった。再び目頭が熱くなるのを感じながら、私は覚束ない足取りで諏訪子様の所まで歩いていく。そして、ぺたんと腰を降ろした。
諏訪子様は優しい手付きで、私の髪を梳き始めた。それにつられてか、涙が勝手に滴り落ちていく。それを腕で拭いながら、私は嗚咽を零していた。
「早苗」
「……はい」
「自分の居場所がなくなるのがどれだけ辛いことか、分かっただろう」
私はただ、頷くことしか出来ない。
「別に私は、信仰を集めることがいけないとか、そんなことは言うつもりはない。それを蔑にすれば、神〈わたし〉の存在を否定することと変わらないからね。神が実在する幻想郷で、それは絶対に出来ない理だ。それであっても、自分がどんな役割であるべきか、考える必要がある。全てを受け入れる幻想郷がどんな場所か。守矢神社や博麗神社が、この幻想郷でどんな立場にあるのか。自分が守矢の巫女として、何をしなければならないか。……早苗なら、わかるね?」
「……わかります。身を以て、理解しました」
「良い子だ」
その言葉と同時に、諏訪子様は私の上半身に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくれた。そして優しく、耳元で囁いてくれる。
「お帰りなさい、早苗。よく元気で帰って来てくれたね」
7
今日は朝から大忙しである。納屋から卓や椅子を取り出したり、倉庫から食器を取り出したり。今日の宴会の人数から献立を考え、人数に合わせて材料を調達していく。釜戸は朝から絶えず薪を燃べ続け、辺りには良い匂いが充満している。
自分でも驚く程、宴会の支度が上手になったものだ。初めての幹事をした時の、準備どころか料理ですら手間取っていた頃が、懐かしくすら感じてしまう。やはり、回数を重ねて慣れることが大切だと、御御御付けを齧りながらしみじみと思う。
「ねぇ、早苗?」
「あ、霊夢さん、宴会の支度はもうすぐ終わりますから、お茶でも飲んでて下さい」
「いや、別にお茶は朝から飲んでるからもういらないんだけど」
「なら済みませんが、そこの煮浸しを運んでもらえますか? 今揚げ物をしているので、手が離せないんです」
「……何で、私の神社で勝手に宴会をする上に、私が手伝わなきゃいけないのかしら」
「あ、なら別に良いですよ。その代り霊夢さんのお酒を減らしておきますね」
「あーもう! 運べばいいんでしょ運べば! 早苗といい魔理沙といい、勝手に面倒事を運んでくるんだから、全く」
霊夢はぶつくさ言いながらも、青菜の煮浸しがたっぷりと入った大皿を抱えると、勝手口から外に出て行った。霊夢はよく私に『下戸なんて可愛い奴』とは言うが、酒が絡めば素直になる霊夢も、中々可愛い性格なのではないだろうか。
「お、鳥の唐揚か、旨そうだな」
いつの間に入ってきたのやら、魔理沙は皿に盛りつけられた唐揚を摘んで、盗み食いを始めた。いや、こちらに声をかけてから食べているのだから盗み食いではないのかもしれないが、量が減ることは事実である。
「魔理沙さん、あんまり食べないで下さいよ? 今日は人数が多いんですから、どれだけ準備しても無くなってしまうので」
「そうだな、境内一杯に使うんだから、そりゃ人数も多いことだろうさ。でもどうせ、八目鰻やら野菜やらも揚げるんだろ? 一つぐらいなくなっても大差はないさ」
流石、今まで幹事をこなしてきた魔理沙だ。こちらがやろうとしていることをまるで見透かしているかのように、魔理沙はにやっと笑った。
「それにしても、早苗が幹事をやっているなんて不思議な気分だな。今まではずっと私がやってきたのに」
「そうですね。でも、誰が幹事をしても同じことですよ。集まる皆さんからしてみれば、宴会が開かれるということが重要なんですから」
「はは、そうだな。特に妖怪なんて酒が呑めれば良いなんて奴もいるしな。早苗の言う通りだぜ」
そう言いながら魔理沙は踵を返すと、手をひらひらさせながら勝手口から出て行った。その手には唐揚が二つ握られていて、微かに見えた口元には、勝利の笑みが見えた。全く、勝手な性格である。
しかし、今まで宴会を開いてきた魔理沙も、きっと私と同じ気持ちで幹事を続けて来たのだろう。博麗神社で宴会を開くとは、それだけで意味を持つのだ。私が霊夢に煙たがられようと、幹事を務める理由はそこにある。それに同意してか、宴会を盛り上げようと妖怪達も協力してくれるようになった。特に萃香なんて、次の宴会を早く開けと私を急かすくらいである。もっとも、その萃香のお蔭で参加人数が増えているのは、二人だけの秘密であるが。
それにしても、今日はいい天気である。幻想郷の魑魅魍魎を巻き込んでの宴会は、まるで天すらも応援してくれている様であった。
了
拙作を読了頂き、誠に有り難う御座いました。読者の皆様に、最大級の感謝を。
居場所というのは、いつのまにやら出来ているものです。そしてその安息は、何物にも代え難い貴重なもの。全てを受け入れる幻想郷では、それがどんな価値を持つのか。それを考えて頂けたなら、作品の狙いは成功したと言えるでしょう。
最後になりましたが、感想など残して頂ければ、作者は大変幸せです。