嵐の予兆
報告書は、朝食の前に届いた。
ロニーは執務室で、冷めたコーヒーを片手に読んでいた。
ハンガリア国、占領地をさらに拡大。西バルカン地域と周辺の地域への軍事的圧力を強化中——
ロニーはそのページを一読し、次のページに移った。
エルヴィンが朝の書類を持って入ってきた。「ヨーロッパの報告、読んだ?」
「読んだ」
「すごい速度で広がってるな。空軍まで持ってるって——」
「そうらしいな」
エルヴィンは少し間を置いた。「心配じゃないの?」
「確かに心配だが、今は違う」ロニーはコーヒーを置いた。「ヨーロッパは我々には到底知りえない闇があるからな。」
一息おいてまた話しかける。
「そして我々は今N-W-Eに焦点を当てないといけない。」
しかし次の報告書は、ロニーの手を止めた。
ハンガリア国、ワルシャワ・ミンスク共和国と秘密協定締結の疑い——情報機関による傍受データより——
ロニーはそのページを、もう一度読んだ。
――秘密協定。
ハルトが入ってきた。「読んだか」
「ああ」
「どう思う」
ロニーはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。「予想外だ」
ハルトが少し驚いた顔をした。ロニーが「予想外」という言葉を使うのは、珍しかった。
「ヨーロッパは、反乱後に十年は平和が続くと思っていた」ロニーは言った。「各国が疲弊し、再建に追われる。それが通常の流れだ」
「だが——」
「ハンガリアが動いた」ロニーは報告書を閉じた。「あの国は、疲弊する前に動いた。それも空軍という誰も持っていない武器を引っ提げて」
ハルトは腕を組んだ。「秘密協定の内容は、まだ解析中だ。しかしワルシャワとの協定なら——」
「モスクヴァを狙っている」ロニーは即座に言った。「ワルシャワとモスクヴァは歴史的に犬猿の仲だ。ハンガリアがワルシャワに接触するなら、モスクヴァを標的にした何かだ」
ハルトは静かに頷いた。「その読みは正しいと思う」
「だが——」ロニーは立ち上がり、窓の外を見た。「今は関係ない」
ハルトが眉を上げた。「関係ない?」
「今の俺には、N-W-E作戦がある」ロニーは言った。「ヨーロッパは後だ。あちらが自分たちのことで精一杯の時に、こちらを片付ける」
その日の夕方、新たな報告が届いた。
ワルシャワ・ミンスク共和国、モスクヴァ国に宣戦布告——
グラウが執務室に入ってきた。「大帝、ヨーロッパで戦争が始まりました」
ロニーはその報告書を手に取った。一読した。机に置いた。
「わかった」
グラウは少し間を置いた。「対応は——」
「しない」
「……よろしいのですか」
「今は東アジアだ」ロニーは書類に目を戻した。「ヨーロッパの情報収集だけ続けろ。介入はするな」
グラウは頷き、退室した。
「何か……妙だな。」
ロニーが報告書を閉じる。
夜、エルヴィンが執務室に来た。いつものカップを二つ持っていたが、その顔は珍しく険しかった。
「兄さん」エルヴィンはカップを置きながら言った。「ヨーロッパ、本当に放っておくの?」
「今は放っておくしかない」
「でも——ハンガリアって、かなりやばくないか? 空軍まで持ってて、占領地も広がってて——」
「確かにそうかもしれない。だがこれはヨーロッパがこちらにかまってる暇などない証拠だ。」
エルヴィンが冷静になる。「……確かにそうかも」
ロニーはカップを手に取った。「アレン・デイヴィッドという男、情報機関から上がってきた資料を読んだ。外交の天才と呼ばれている。でも——」
「でも?」
「彼は身元を隠している。何か特別なものを他に持っている。」ロニーは言った。「そういう人間は色々と難しい」
エルヴィンはしばらくロニーを見ていた。それから小さく言った。「兄さんがそういう相手ってなかなかいないよね」
「まだわからない。でも、意識はしてる。」
エルヴィンは少し笑った。「まあ、今は東アジアか。N-W-E作戦、どうなるかねぇ……」
「これは賭けであり決戦だ。これで勝てばエスターライヒの再構築は遂行する――」
エルヴィンはカップを持って立ち上がった。扉に向かいながら言った。「兄さんは父さんの亡霊か何かにとりつかれている気がする」
「再構築はお前も望んでいるだろう?」
「再構築は……ね」
扉が閉まった。
ロニーは一人になった執務室で、二つのファイルを並べた。
一つはN-W-E作戦の詳細計画書。もう一つは、アレン・デイヴィッドの情報資料だった。
ロニーはN-W-E作戦のファイルを手に取った。
今は東だ。
しかしもう一方のファイルから、目が離せなかった。
アレン・デイヴィッド。
ロニーは資料の一行を、もう一度読んだ。
「身元が分からないうえに、口元が黒い布で覆われていて、頭には総督帽を被っていて容姿がまるで見えない――か。」
「面白い。」
ロニーは資料を閉じた。窓の外、ヴェルナの夜景が広がっていた。その遥か西の空の向こうで、ヨーロッパが燃え始めていた。
しかしロニーの目は、東を向いていた。
華東共和国との接触は、極秘ルートで行われた。
使者を送ったのではない。ロニー自身が動いた。
表向きは「親善訪問」だった。エスター民主帝国の皇帝が、隣国との関係強化のために訪れる——そういう名目で、ロニーは少人数の随行団を率いて華東共和国の首都に入った。
華東共和国の首相、リン・ジュウェイは、五十代の細身の男だった。穏やかな顔をしているが、目が鋭い。長年、大東亜国の傀儡である長海大公国を隣に持ちながら生き延びてきた政治家だ。したたかさは折り紙付きだった。
会談室に二人きりになった瞬間、リンは静かに言った。
「親善訪問ではないでしょう、陛下」
ロニーは微かに笑った。「鋭い」
「長海は我が国の喉元に刃を突きつけています」リンは言った。「大東亜国がその刃を動かすたびに、我々は息をのむ。それが何十年も続いている」
「終わらせたいか」
リンは少し間を置いた。「条件次第です」
「長海大公国の重慶を落とす」ロニーは地図を広げた。「华東軍が主力となり、エスター軍が支援する。重慶陥落後、あなた方には独立保障や経済援助を……」
リンは地図を見つめた。「エスターは何を得る」
「大東亜国への西からの突破口だ」
沈黙が落ちた。
リンはしばらく地図を見ていた。それから顔を上げた。
「一つ条件があります」
「言え」
「この協定は、戦争が始まるまで一切外部に漏らさない。華東が大東亜国を攻撃する理由は、別途用意する」
ロニーは頷いた。「それは当然だ」
リンは右手を差し出した。
ロニーはその手を握った。
西の扉が、開いた。
帰国したロニーは、すぐに北方への軍隊集結命令を下した。
表向きは「北方防衛演習」だった。しかしその規模は、演習とは呼べないものだった。
冬季精鋭部隊、第一軍から第三軍まで——総兵力三十万。装甲部隊、砲兵隊、補給部隊が、国境沿いに静かに集結し始めた。
アーシャが北方軍の視察から戻り、執務室に報告に来た。
「集結、予定より二日早く完了する」アーシャは言った。「士気は高い。アルカナ戦の勝利が、まだ生きている」
「補給線は」
「サハリン経由の海上補給で確保した。」
「よくやった」
アーシャは少し間を置いた。「ロニー、一つ聞いていいか」
「何だ」
「北の兵が集まった。西の華東との協定も結んだ。東の台湾攻略部隊も編成中だ」アーシャは静かに言った。「全部揃ってる。あとは——」
「ああ」ロニーは言った。「あとは、動くだけだ」
アーシャはロニーを見た。その目が何かを言いかけて、止まった。
「……無理はするな」
「する必要がないように設計している」
アーシャは小さく笑った。「それがお前の無理だろうが」
開戦前夜、ロニーは主要指揮官と参謀を作戦室に集めた。
長机の周りに、アーシャ、ハルト、エルヴィン、そして北方軍・海軍・陸軍の各指揮官が並んだ。部屋の中央には、東アジア全域の巨大な地図が広げられていた。
ロニーは地図の前に立った。全員が静まった。
「明朝、N-W-E作戦を発動する」
部屋に緊張が走った。
「北——冬季第一軍から第三軍、バイカル湖を目標に進軍開始。極東自治国を南北に両断し、北部を孤立させる。指揮はクライン将軍」
アーシャが頷いた。
「西——華東共和国軍が重慶に向けて電撃戦を開始する。エスター支援部隊が後方から補給と火力支援を担当する。タイミングは北の戦線が動いた二十四時間後。相手の目が北に向いた瞬間に西から突く」
ハルトが地図に目を落としながら頷いた。
「東——海軍第一艦隊が台湾海峡に進出し、台湾への上陸作戦を開始。台湾制圧後、大陸沿岸部に上陸し、大東亜国の側面を突く。海軍指揮はクライン将軍が兼任する」
クラインはしばらく地図を見ていた。それから、短く言った。「承知いたしました」
ハルトが口を開いた。「新大東同盟の反応は、どう読む」
「極東自治国が攻撃を受けた時点で、大東亜国は動く」ロニーは言った。「しかし三方向から同時に圧力がかかれば、どこに兵力を集中すべきか判断が遅れる。その遅れが、勝負を決める」
「ジョージは優秀な国家元首だ」ハルトは言った。「大陸の民族を統一した——」
「彼はただの政治家だ」ロニーは遮った。「戦争に勝つために計画を立てている者と地域平定のために動いている者、どちらが戦争で勝てるか——答えは明白だ」
作戦室が静まり返った。
エルヴィンが小さく手を挙げた。「……一つだけ聞いていいか」
「言え」
「民間人への被害は、できる限り抑えてくれ」
ロニーはエルヴィンを見た。弟の目に、いつもの感情があった。心配と、信頼と、諦めが混ざった目。
「軍事目標のみを攻撃する」ロニーは言った。「それが原則だ」
エルヴィンは頷いた。それ以上は言わなかった。
ロニーは全員を見渡した。
「明朝五時、作戦開始だ。各自、持ち場に戻れ」
指揮官たちが立ち上がり、部屋を出ていった。
最後にアーシャが立ち上がった。扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「勝つぞ、ロニー」
「ああ」
扉が閉まった。
作戦室に一人残ったロニーは、地図を見つめた。
北。西。東。
三本の矢が、大東亜国に向かって収束していた。
ロニーは地図に手を置いた。
エスターライヒが、今夜動く。
窓の外、ヴェルナの空は暗かった。しかし東の地平線が、わずかに白み始めていた。
夜明けまで、あと数時間だった。




