第九十七話「揺れる情」
岐阜城の朝は、いつもより静かだった。
人の動きはある。
兵も走る。
使者も出入りする。
だがその忙しさの中に、妙な沈黙があった。
誰もが理解している。
――包囲網が形を持ち始めた。
そしてその中心に、京がある。
信忠は鍛錬場で刀を振っていた。
木刀の音が乾いた空気を裂く。
汗が落ちる。
だが心は、鍛錬の場にいなかった。
(光秀殿は、また京へ行く)
(朝廷の刃を受けるのは、光秀殿だ)
信忠はふと、思い出す。
光秀が戻った日の顔。
疲れていないように見えた。
だが――
あれは疲れが見えぬように作った顔だった。
信忠は刀を止めた。
自分は織田の嫡男だ。
武で守るのが役目だ。
だが今起きている戦は、武だけでは勝てない。
文。
金。
面子。
そして京。
(奥の戦だ)
信忠の脳裏に、玉の姿が浮かんだ。
帰蝶付きとして学び始めた玉。
いつも背筋を伸ばし、目だけは真っ直ぐで、決して怯まない。
だが信忠は知っている。
玉は強いのではない。
強くあろうとしている。
信忠は息を吐き、鍛錬場を後にした。
帰蝶の部屋。
玉は机に向かい、文の写しをしていた。
朝廷に送る言葉の形。
武家の奥としての言い回し。
公家に通じる敬語の重ね方。
帰蝶はそれを見て、淡々と指摘する。
「玉。ここは柔らかく」
玉は頷く。
「はい」
「ここは逆に硬く。
余地を残しては駄目」
「……はい」
筆が止まることはない。
玉は必死だった。
(私が学ばねば、父上が削られる)
(父上が削られれば、織田が揺らぐ)
(織田が揺らげば……)
その先は考えたくなかった。
そこへ襖の外から声がした。
「入ってもよいか」
玉の手が止まった。
帰蝶が淡々と答える。
「どうぞ」
襖が開き、信忠が入ってくる。
玉は慌てて立ち上がり、礼をした。
「信忠様……!」
信忠は目を逸らさず、落ち着いて言った。
「学びの邪魔をしたか」
玉は首を振った。
「いえ……」
帰蝶は信忠を見て、少し笑った。
「珍しいこと。
どうしたのです」
信忠は少し間を置き、玉を見た。
「……玉は、最近眠れているか」
玉の心臓が跳ねた。
そんなことを聞かれるとは思わなかった。
玉は笑おうとした。
だがうまく笑えない。
「……はい。少しは」
信忠は頷いた。
「なら良い」
短い言葉だった。
だが玉は、その短さが妙に胸に残った。
信忠は続けた。
「光秀殿は、また京へ行く」
玉は小さく頷いた。
「……はい」
信忠は視線を落とし、静かに言う。
「京は、人を削る」
帰蝶は口を挟まない。
ただ、信忠の言葉を聞いていた。
信忠は玉を見た。
「玉。
お前が学ぶことは、父を救う」
玉は息を呑んだ。
信忠が「父上」ではなく「父」と言った。
そこに、距離の近さがあった。
信忠は続ける。
「だが、無理をするな」
玉の喉が詰まった。
無理をするな。
それは誰かを思いやる言葉だ。
戦国で、簡単に口にできる言葉ではない。
玉は震える声で言った。
「……信忠様。
私は……父を守りたいのです」
信忠は頷いた。
「分かっている」
その返事は優しかった。
だが優しさは、時に残酷でもある。
守りたいと思う相手が増えれば増えるほど、人は弱くなる。
玉はそう理解していた。
(私は弱くなってはいけない)
信忠は玉の机の上の文を見た。
「これは……京に送る文か」
玉は頷いた。
「はい。
京を刺激せぬように、しかし逃げ道を塞ぐ形で……」
信忠は微かに目を細めた。
「逃げ道を塞ぐ……」
その言葉が、信忠には新鮮だった。
武ではなく文で敵を縛る。
奥の戦いの発想。
信忠は小さく言った。
「玉は、よく見ている」
玉は顔が熱くなるのを感じた。
帰蝶が口を開く。
「玉は必死なのよ。
光秀を守りたい一心でね」
信忠の目が僅かに揺れた。
「……光秀殿を守る」
玉は俯いた。
「父上を守りたいのです」
信忠は少しだけ沈黙した。
そして、ぽつりと言った。
「それは……良いことだ」
その言葉は不思議な温度を持っていた。
帰蝶が信忠を見つめる。
「信忠。
玉は、殿にとっても必要な駒になる」
信忠は答えた。
「駒としてではなく」
帰蝶の眉が僅かに動いた。
信忠は続けた。
「……玉は玉だ」
玉の胸がぎゅっと締まった。
自分を「駒」と呼ばれないことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
信忠は玉を見た。
「玉。
何かあれば私に言え」
玉は驚いた。
「……信忠様に?」
信忠は頷く。
「私は織田の嫡男だ。
聞くべきことは聞く」
玉は深く礼をした。
「……はい」
信忠はそれ以上言わず、踵を返した。
襖が閉まる。
部屋に静けさが戻る。
玉はまだ胸が熱かった。
帰蝶が玉を見て、静かに言った。
「玉。
あの方は、お前を見始めたわ」
玉は唇を噛んだ。
(見始めた……)
それは、婚姻の約の相手として。
政の道具として。
それだけではない。
人として。
玉は胸の奥で、小さな揺れを感じた。
怖い揺れではない。
だが確実に、
自分の心を柔らかくする揺れだった。
玉は筆を取り直した。
(今は揺れてはいけない)
(でも……)
信忠の言葉が残る。
――玉は玉だ。
玉は目を閉じ、そっと息を吐いた。
そしてもう一度、文を書き始めた。
京へ向けた刃を。
だがその刃の柄には、初めて温もりが宿り始めていた。




