第八十二話「奥の誓い」
明智からは、夫婦揃っての登城。
織田は、信長、信忠、帰蝶、そして玉。
広間には、表向きの穏やかさがあった。
だがその奥に沈むのは、縁組という名の“契約”の重み。
信長が腕を組んだまま言う。
「明智と織田の婚姻については決した」
信忠が静かに頷き、帰蝶が口を開いた。
「玉は、私付きとします」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は淡々と続ける。
「奥のしきたり。朝廷と公家の作法。
文の扱い、贈り物の順序、家臣の奥方衆との付き合い方。
配下への接し方、座の作り方……」
信忠が言葉を足す。
「奥は“内”ではない。
武家にとっては、もう一つの戦場だ」
帰蝶は玉を見た。
「一年で全て覚えてもらいます。
玉がこの先、明智を背負うために必要なことです」
信長が光秀を見た。
「光秀。それでよいか」
光秀は一瞬だけ迷い、静かに答えた。
「……玉に務まりましょうか」
信長は鼻で笑う。
「そのための一年だ。猶予ではない」
帰蝶が柔らかく微笑んだ。
「玉は賢い子です。
覚えることも、耐えることも出来るでしょう」
座の空気が和らぎ、話は滞りなく進んでいく。
その時、信長がふいに声を落とした。
「して、光秀。京の様子はどうだ」
光秀の背筋が伸びる。
「落ち着きは取り戻しております」
信忠が少し安堵した、その直後。
光秀は続けた。
「……ただし」
空気が変わった。
「以前の暮らし向きのようには、やはり参りませぬのが現状かと」
帰蝶が目を細める。
「それは……朝廷が?」
光秀は首を横に振る。
「朝廷が荒れているわけではございませぬ。
ただ……人の心が揺れております」
信長は黙って聞いている。
光秀はさらに言葉を選ぶ。
「公家衆の中にも、織田を恐れる者、頼る者、測る者……様々。
静かに、しかし確実に、流れが変わっております」
信忠が口を開く。
「……父上が天下に近づけば、京は必ず動く」
信長は不敵に笑った。
「京が動くなら、こちらが動かしてやればよい」
そして信長は玉へ視線を向けた。
「玉。だからこそ学べ。
奥とは、京と繋がっている」
玉は胸の奥が冷えるのを感じながら、深く頭を下げた。
「……はい」
帰蝶が穏やかに言った。
「奥は厳しいわ。
でも、あなたなら大丈夫。私が教える」
信忠が信長に問う。
「父上。玉が帰蝶様付きになるなら、明智家はどう支える?」
信長は即答した。
「光秀。お前は領を固めろ。
玉のためではない。織田のためだ」
光秀は深く頭を下げた。
「ははっ……この命、織田に捧げます」
その瞬間、信長の声がさらに低くなる。
「……玉の婚姻は、織田と明智の誓いだ」
広間に緊張が走る。
「裏切りがあれば、誓いごと斬る」
光秀は動じぬように顔を上げた。
「承知しております」
帰蝶がふっと笑い、場を和らげた。
「殿は怖いことばかり仰るのですから」
信忠も苦笑する。
「父上はいつもそうだ」
玉はその言葉の意味を、誰より深く理解していた。
これは祝言ではない。
政治であり、契約であり、命綱。
話し合いが終わり、明智夫婦は辞することとなった。
廊下へ出ると、光秀は玉を見た。
父の顔は、少しだけ揺れていた。
「玉……」
玉は先に頭を下げる。
「父上。私は大丈夫です」
光秀は言葉を探し、絞り出すように言った。
「……強くなれ。
だが、強くなりすぎるな」
玉は目を伏せた。
「はい」
明智夫婦が去っていく背を見送りながら、玉は胸の奥が痛むのを感じた。
その時、帰蝶が隣に立つ。
「行きましょう、玉」
「……はい」
玉は帰蝶に従い、奥へ進む。
襖をくぐった瞬間、空気が変わった。
香の匂い。畳の柔らかさ。
そして、女たちの静かな視線。
侍女たちが一斉に膝をつく。
「帰蝶様」
帰蝶は当然のように歩き、玉を横に立たせた。
「この子が玉。
今日から私のもとで学ばせる」
侍女たちの視線が玉に集まる。
柔らかいようで、鋭い視線。
値踏み。品定め。
ここはそういう場所だと玉は悟った。
帰蝶が静かに言った。
「玉。まず覚えなさい」
「奥では――
笑顔も、沈黙も、武器になる」
玉は小さく息を吸い、背筋を正した。
ここからが始まりだ。
戦は表ではなく、奥で始まる。




