第七十六話 「殿、細川を細らせる」
御馬揃えが終わった京は、華やかさの余韻を残しながらも、どこか冷えていた。
拍手は消え、町は静けさを取り戻す。
しかし静かになったのは表だけだ。
朝廷は見た。
信長の軍容を。
信長の威を。
そして震えた。
震えた都に、細川は手を伸ばす。
その流れを、信長が見落とすはずがなかった。
宿所の灯の下。
信長は杯を置き、ゆっくりと息を吐いた。
笑みはあった。
だがその笑みは、勝利のものではない。
――あれは、敵を見定めた笑みだった。
細川は引かぬ。
一度都を使うと決めた者は、必ず次の手を打つ。
しかも、正面からではない。
礼と噂と名分で、人を縛りに来る。
信長は、杯の縁を指で叩いた。
「……同盟を結ぶ相手ではないな」
ぽつりと漏れた声は、決断だった。
信長は襖の向こうへ声を投げた。
「信忠を呼べ」
ほどなくして織田信忠が現れた。
膝をつき、頭を下げる。
「殿、お呼びにございますか」
信長は信忠を見下ろし、短く言った。
「細川が鬱陶しい」
信忠の瞳が揺れる。
信長は続けた。
「朝廷を使う。公家を使う。噂を使う。
娘ひとりの話を、都の道理に変えおった」
その言葉だけで、信忠は理解した。
縁談は縁談ではない。
政治だ。
戦だ。
信長は畳を指で叩く。
「細川は、まだ手綱を緩めぬ」
沈黙が落ちる。
信忠が口を開く前に、信長は言い切った。
「だからこそ、細川の影響力を細らせる」
信忠は背筋を伸ばした。
信長は静かに歩き、窓の外の闇を見た。
「同盟をとも思った」
その声は、少しだけ軽かった。
だが次の言葉で空気が変わる。
「だが、あれほど狡猾な物は同盟にはふさわしくない」
信忠の喉が鳴る。
信長は振り返り、冷たく言った。
「従わぬのなら潰す」
その一言に、余地はなかった。
信長は続ける。
「これは決定事項である。策を協議せよ」
信忠は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
信長は間髪入れず命じた。
「堺の商人、周りの商人に知らせろ」
信忠は眉を寄せる。
「商人を……動かすのですか」
信長は笑った。
「織田の頼みだ。貸しを作ってやる」
そして、声を低くする。
「後から穴埋めは、この織田信長が担保する」
その言葉は、商人にとって最上の印籠だ。
信長が担保する。
それは金より重い。
信長は信忠を見据えた。
「信忠、皆を集めろ。岐阜へだ」
信忠は頷く。
信長はさらに続けた。
「今言った商人のみならず、どんな策があるのか。
出来うることはすべてせよ」
「京の周りの公家もだ。
朝廷に影響力のある者も対象とし、
朝廷を使う物を細らせる」
信忠の顔が引き締まる。
「公家筋にも手を回す、と」
信長は鼻で笑った。
「礼が鎖なら、鎖の輪を細くする」
信長は畳を踏み、言い切った。
「細川を干す」
信忠は息を呑んだ。
干す。
それは刀を抜かずに相手を殺す策だ。
信長は言葉を畳みかける。
「細川が都を使うなら、
都が細川を必要とせぬようにすればよい」
信忠は静かに頷いた。
「殿の御意、確かに承りました」
信忠はすぐに筆を取った。
迷いはなかった。
書状の宛先は一つではない。
堺の商人。
近江の豪商。
伊勢の問屋。
京に出入りする金貸し。
一通ずつ、短く、しかし重く。
「岐阜へ参れ」
「殿の御意である」
「相談がある」
使者が走り、馬が走る。
その瞬間から、岐阜へ向かう道は、ただの道ではなくなる。
金の道。
噂の道。
そして――首を締める道。
岐阜城。
玉は朝餉の支度を整えながら、廊下の騒がしさに耳を澄ませていた。
いつもより足音が多い。
いつもより声が低い。
城が息を潜めている。
女中の囁きが聞こえる。
「信忠様が忙しそうよ」
「商人に文を出したらしい」
「堺からも人が来るとか……」
玉は湯を注ぐ手を止めた。
(商人……?)
嫌な予感が胸を刺す。
商人が集められる時、
そこにあるのは宴ではない。
戦だ。
玉は口を結び、静かに呼吸した。
御馬揃えで殿は天下を示した。
その結果、都が震え、細川が動く。
そして殿も動く。
玉は理解した。
殿は、細川を許さぬ。
許さぬというより
もう敵と見なしている。
玉の背筋が冷える。
細川が恐ろしいのではない。
信長が恐ろしいのでもない。
恐ろしいのは、歴史が動く速さだった。
一度動き始めた歯車は止まらない。
止めようとすれば、誰かが砕ける。
玉は思わず、父の顔を思い浮かべた。
光秀が、この渦に巻き込まれる。
朝廷が動けば、光秀が試される。
殿が苛烈になれば、光秀が追い詰められる。
玉は唇を噛んだ。
(間に合え)
声には出さない。
だが胸の奥で、祈りが形になる。
(私がここにいる意味は……このためだ)
玉は立ち上がり、窓の外を見た。
岐阜の空は静かだ。
だがその静けさの下に、刃が研がれている。
玉は胸の奥で誓った。
恐れているだけでは、未来は変えられない。
逃げても、細川の縁は追ってくる。
ならば
自分も動くしかない。
その夜。
京の宿所で、信長は灯を見つめていた。
都は美しい。
だが美しさは、毒を隠す。
細川は毒を知っている。
だから都を使う。
信長は小さく笑った。
「刃を隠す者には、刃を抜かずに殺す」
刀で殺せば敵は英雄になる。
だが金と道を断てば、敵は誰にも気づかれず枯れる。
信長は立ち上がり、夜の闇へ言った。
「細川……」
その名を呼ぶ声は低かった。
「次は、お前の番だ」
御馬揃えは終わった。
だが天下の戦は、静かに形を変えた。
そして岐阜では、信忠が集める策が、
細川の首を見えぬ縄で締め始めていた。
細川との同盟を無しにするのは史実とは異なります。
ここからは史実からかけ離れる可能性もありますので
ご了承くださいね。
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