第百三十三話「龍の影、砦の息」
加賀へ入った上杉軍は、
雪の気配が濃くなる平野に陣を張った。
まだ降りはしない。だが風が冷たい。
土は固く、草は色を失い、空の低さが冬の到来を告げていた。
謙信は陣の中央、最も高い場所に幕を張らせた。
視界の先には、柴田勝家が固めた砦群がある。
その砦は、以前より増えていた。
土塁が高く、柵が厚い。
そして何より、道が整理されている。
道というより、通れる場所がそこしかない。
山際は崩され、木は切られ、脇道は塞がれ、軍勢が横に広がる余地が奪われている。
謙信は静かに呟いた。
「……通す気がない」
兼続が答える。
「はい。勝家は守りに徹しております」
謙信は笑わなかった。
怒りもない。
ただ、面白がるような眼だけが動いた。
「守りの勝家か」
それは勝家らしくない。
勝家は突撃の男だ。
だが、今の勝家は突撃を殺している。
謙信は知っていた。
勝家が変わったのではない。
変えた者がいる。
信長だ。
謙信はふっと息を吐き、胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。
それは戦意でも、興奮でもない。
苛立ちだった。
「……織田は、戦をせぬ戦を覚えたか」
その瞬間、喉が焼けるように痛み、咳が突き上げた。
「ゴホ……ゴホッ……!」
兼続が思わず身を乗り出す。
「殿……!」
謙信は手を上げ、制した。
「よい……大したことではない」
そう言いながら、袖口に血の色が混じったことを兼続は見逃さなかった。
だが、見なかったことにした。
殿が弱い姿を見せぬのなら、家臣も見てはならぬ。
それが上杉の掟だった。
謙信は咳を飲み込み、前を見据えた。
「明日より、兵を動かすな」
兼続は目を見開く。
「……動かさぬ、のですか」
謙信は頷いた。
「勝家が動かぬなら、こちらも動かぬ」
「動かねば、敵は焦れる」
「焦れれば、必ず何かをする」
「その時に、こちらが先に息を吹きかける」
兼続は理解した。
この戦は、槍を交える戦ではない。
心を削る戦だ。
上杉がここに居座れば、北ノ庄は緊張を強いられ、
織田は兵と物資を北へ寄せ続けねばならない。
動かぬことが、攻撃になる。
謙信は淡々と言った。
「兵糧はまだある。収穫後に集めた米もある」
「だが、冬は来る」
「冬が来れば、織田の兵站も完全ではあるまい」
兼続は背筋が冷たくなる。
殿は、織田の兵站を狙う気だ。
砦ではなく、道でもなく、その背後――流れそのものを。
謙信は静かに目を細めた。
「信長は賢い」
「だが賢い者ほど、仕組みを信じる」
「仕組みが一度崩れれば、賢さは毒になる」
兼続は膝をついた。
「承知いたしました。動かぬ戦、徹します」
謙信は頷いた。
「よい」
その夜、加賀の空には薄い雲が広がり、星は見えなかった。
遠くで狼が鳴き、兵たちの息が白く揺れる。
謙信は幕の中で、誰にも聞かれぬよう小さく息を吐いた。
(時間が足りぬ)
その言葉は、声にならなかった。
龍は、咳を抱えながらも動かぬ。
動かぬことで、相手を削る。
それが上杉の戦だった。
一方――岐阜。
北からの報せは、次々に信長へ届いていた。
「上杉、加賀へ入りました」
「陣を張り、動きはありません」
「砦を見ている様子にございます」
信長は文を置き、静かに笑った。
「動かぬか」
家臣が言う。
「上杉は睨み合いにございます。いかが致しますか」
信長は即答した。
「そのままにしておけ」
その言葉に、家臣が驚く。
信長は続けた。
「動かぬ敵を、こちらから動かすな」
「こちらが動けば、謙信の思う壺だ」
信長は地図を指でなぞった。
北ノ庄。加賀。越前。
そして近江、美濃から伸びる二本の兵站線。
「道は二つ」
「片方が詰まれば、もう片方を通す」
「両方が詰まれば、道そのものを作る」
信長は淡々と命じた。
「工兵を北へ増やせ」
「橋を補強せよ」
「道の凍結に備え、藁と板を集めよ」
戦場で槍を交える前に、道で勝つ。
信長の目は冷たかった。
帰蝶は信長の隣で静かに言った。
「殿。謙信は、こちらの息を見ております」
信長は頷く。
「見せてやる」
「織田は、息を切らぬとな」
その時、廊下から足音がして、玉が控えの間に現れた。
帰蝶が目で合図し、玉は静かに座す。
信長は玉を見た。
何か言わせるつもりはない。
ただ、その存在を確かめるように見た。
玉は信長の視線を受け、胸の奥がわずかに締め付けられた。
(この人は……迷わない)
(迷わないからこそ、恐ろしい)
玉は思う。
謙信は動かぬ。
信長も動かぬ。
二人の巨人が、ただ呼吸を合わせるように対峙している。
だがその間に削られるのは、兵であり、民であり、
そして――光秀のような板挟みの者だ。
玉は目を伏せた。
(父上は……今も京で苦しんでいる)
(私はここで、何をすべきだ)
謙信が動く理由。
信長が動かぬ理由。
そのどちらも、まだ霧の中だった。
だが確かなのは、冬が近いということだけ。
岐阜の庭に冷たい風が吹き抜け、枯葉が舞った。
静かな戦が始まっている。
誰も血を流さぬまま、確実に命が削られていく戦。
そして玉は、胸の奥で小さく呟いた。
(もう、時間がない)
(信忠との婚姻まで――あと一ヶ月と二十日)




